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「推し、燃ゆ」と「あの頃。」

トレイラーで松坂桃李があややのMVを観て泣くシーンで思い出す。2015年1月末、インフルエンザで苦しむ僕がたまたま開いたニコニコ生放送で目撃したエビ中の24時間特番。あれ以来、しばらく1日1回なんらかのエビ中コンテンツを摂取しなければならない体になってしまった。というような経験さえあれば2/19公開の映画・今泉力哉監督「あの頃。」の入り口に立っている。そして、第164回芥川賞を受賞した宇佐見りん「推し、燃ゆ」の入り口にも立っている。続けざまに、オタクの業を描いた作品を堪能したので合わせて1本のnoteとします。全く違うタイプの作品ですが、敢えて。

「推し、燃ゆ」

宇佐見りん著による本作。学校生活も家族関係も上手くいかない日々を送る、高校生のあかり、唯一の生きがいは、「推し」であるアイドルグループ「まざま座」のメンバー・上野真幸を追いかけ、彼を“解釈”することだった。そんなある日、その「推し」がファンを殴って炎上したというニュースが飛び込んできて、、、というのがあらすじである。

「推し」とは
・「推しているメンバー」、略して「推しメン」をさらに訳した言葉。
・特定のグループ(アイドル、バンド)の中で最も応援しているメンバーのこと。
・現在ではグループに属していない俳優やタレント、アニメや漫画のキャラクター、および作品そのものにまで広く用いられる用語。
・推薦することを意味の”推す”が転じた言葉で、他者に勧めることができるほどに好きである様を表している。
・ゆえにしばしば好きよりも好意度が強い印象を受ける。

「推す」とは
・“推し”を応援する行動の全般を指す。
(例)
・推しのグッズやCD、映像作品、写真集を買う(時に複数枚)
・推しのライブ、握手会、舞台演劇、舞台挨拶など対面できるイベントに行く
・出演しているバラエティ番組、ラジオ、ドラマ、映画、舞台をチェックする
・推しの発信するSNSを隈なくチェックする
・推しのグッズを部屋に飾る、ポスターを壁に貼る
・推しの誕生日にケーキを食べて祝う

そもそも「推し」「推す」というのが何なのか、「推し、燃ゆ」を読むと考える必要があると思い、上に列挙してみた。つくづく不思議な営みであると思う。とはいえ推し方は千差万別。人それぞれに推し方がある。

あたしのスタンスは作品も人もまるごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった。

この作品がもし、恋愛的、肉体的な繋がりを求める話であればそこまで強く惹かれなかったと思うが、主人公のスタンスが上のようであったからこそこの作品への没入感は強かった。端的に言えば、この主人公の気持ちは非常よく分かる。推しが発する言葉、繰り出す振る舞い、歌やダンス、その全てに意味と文脈を見出す種類のオタク。自分の過去を見ているようだった。

生き方を方向づけてくれる、自分に存在価値をくれる、心の癒し、心の拠り所になる、超越的存在や聖なるものに関わる営み... この4項目は「推し、燃ゆ」を読み思った「推し」の意義なのだが、よく考えるとそのまま宗教とも置き換え可能だ。宗教が既に完成された教典や体系化された物語に基づく一方、今この瞬間を生きる推しは現在進行形で信仰対象が変化していく。

引退や謹慎、二次元であれば放送や連載の終了で信仰対象の絶対性は揺らいでしまう。推すことは、不意に対象が消え去るというリスクを伴った信仰に近い。芸能人の熱愛や結婚がたびたび炎上し、その都度「もうそういうのは古い」「アイドルも恋愛するだろ」という言説が蔓延るが、この小説を読むとそんなこと軽々しく言えなくなる。この作品のテーマは宗教崩壊だ。

物語は終盤、強烈な痛みで主人公の心を抉り出しながら、信仰の終焉が描かれる。自分にとってかけがえのない、背骨のような存在が消えていく悲痛さは計り知れない。“遠く離れた信仰対象“だからこそなし得た“推す”という愛情表現だが、遠く離れているという事実が自分と推しの距離を否応なしに離していく。そして、不意に訪れる虚無感を描写したラストは圧巻。馬鹿にはなれないし狂いきれない。これが推しとオタクの末路、という壮絶で呆気ない結末だ。


あの頃。

神聖かまってちゃんのマネージャーや、あらかじめ決められた恋人たちへのベーシストとして知られる劔樹人による自伝的コミックエッセイを原作とする、「愛がなんだ」や「mellow」の今泉力哉監督作。モーニング娘。や松浦亜弥といったHello!Projectのアイドルたちを推すハロプロオタクたちによる2004年から2010年に差し掛かるまでの青春の日々を描く作品だ。

「推し、燃ゆ」における推すスタンスが自分にとって理解しやすいものだったのに対し、「あの頃。」におけるオタクたちの在り方は幾分理解しがたい部分もある。推しと自分という直線的な関わりにとどまらず、同じく“推す”営みを持つ同志たちと結びつき、そこに仲間意識を見出すという点。これは、ひとりコソコソと推したい自分にはあまりにも驚きだし、ましてやオタクのみでトークイベントを開くなど承認欲求の暴走にも程があるだろう!と思うばかり。

しかし、これは単なる嫉妬のようなものだし、作品の本質はそこではない。「あの頃。」に宿るのは何かを本当に好きになることで得られる生きる喜びに向けた祝福だ。あややの握手会の機会に、毎日の楽しさはあややのおかげだろ、とコズミン(仲野太賀)が劔(松坂桃李)に説く様には頷くほかなかった。ちなみに、握手会で”推しに迷惑をかけたくない“と振る舞いを気にしまくる姿は恥ずかしいくらい分かる。

映画は終盤、ガラリと装いを変える。時代とともに人々は移ろい、そこにあった日々は目の前を通り過ぎていく。言うなれば大人になることと向き合うシークエンスが続く。しかし、推しがいたからこそ生きてこれた日々があり、推すことに強い意義を感じなくなっても今なお心のどこかに息づいている、という描き方が素晴らしかった。推しがいなければここには辿り着けなかった。その確信が物語を大きく包み込む。

いつまでも 二人でいたい
パンが一つなら わけわけね
まだ実際 駆け出しね
全ての 始まりね
恋愛進行形

劇中で何度も流れるモーニング娘。の2003年の楽曲「恋ING」。ハロプロには全く詳しくないのだが、“カップリングながら根強く愛される名曲”という位置にあるのは納得だ。気恥ずしくなるほどの思慕を込めたラブソングだが、オタクが推しに向ける気持ちとしてもリンクさせられるし、声を合わせて歌いたくなるのも理解できる。アイドルの楽曲で最も心を打つのは壮大なメッセージソングではなく、小さくても切実な愛の歌であるし、この映画でもそんな歌が確かな灯火として描かれていて打ち震えた。


「推し、燃ゆ」と「あの頃。」、主人公の行為が目指す先は近いし、得ているものも近いし、「推し、燃ゆ」の激しさの先に「あの頃。」の穏やかな切なさが待ち受けている可能性もゼロではないはずだが、観賞後の余韻の種類はかなり違う。「推さなければ、出会わなければこうならなかった」と「推したからこそ、出会えたからこそ、こうなれた」が表裏一体であることは間違いない。そのどちらに転ぶかを決定づけるのがオタク本来の性質やその環境なのが残酷極まりない話なのだが、故に“推す”を描く甲斐があるのだと思う。「推し」を描くのは現代における信仰の苦しみと喜びを語ることなのだ。


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