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小説

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#掌編小説

里奈子の冷たい太陽:ショートショート

永いあいだ、僕は夢を見ることがなかった。暗い夜が、ただ暗い夜のまま、過ぎてゆくだけだった。

久しく見ていなかった月を見た。満月だった。夜空にぽっかり穴が空いているよう。暗い洞窟に、太陽の光が漏れてくる。夢そのものだった。宇宙の外側が、片鱗を覗かせている。

とても眩しいくらいで、熱さえ感じられそうだった。真夏の残滓が、そこで燃え尽きようとしている。地上から追いやられ、消えゆく夏の香りが、そこに凝

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朝陽のプロポーズ:ショートショート

朝陽のプロポーズ:ショートショート

 お互いにお互いの心の寂しさは埋められないと知っていたから、朝陽との関係は、実に淡泊だった。
 夜、ホテルの近場で落ち合い、特に何かを話すでもなく、部屋に入るや愛撫して行為にいたり、朝は最寄りの駅で、別々のホームへ向かってお別れをする。
 心のつながりといえば、そのときに交わすささやかな微笑くらいだった。それは不思議な瞬間だった。彼女の口元が微かな笑みをたたえた瞬間、それは空間の裂け目のようであり

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遼子の娘:ショートショート

遼子の娘:ショートショート

 特にやることがなかったので、どうすれば夢のなかで夢と認識できるのか、遼子は考えてみた。

 思いついたのは、一か月のあいだ、同じ色の服を着ることだった。もし違う色のTシャツなりを着ていたら、それこそが夢に違いない。

 そう考えて、遼子は赤色の服を10着買い、それ以外は捨てた。

 翌日、彼女は青い服を着ていた。

『さっそく!これは夢ね!これからどんなことが起こるのかしら!』

と胸を躍らせた

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咲子の情熱:ショートショート

咲子の情熱:ショートショート

どうすることもできない。世界については、どうすることもできない。考えるだけ時間の無駄。頭を悩ますだけ時間の無駄。大事なことは、それが自分の金になるか、ならないか、だ。
世界が危機にないとき、俺の生活は対照的に危機的だった。世界が危機に陥ったとき、やはり俺の生活は変わらず危機的だった。
だったら、世界を救う意味なんかないじゃないか。だから大事なことは、ただただ俺が生活できるか、できないかにある。

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カオルの錯誤:ショートショート

カオルの錯誤:ショートショート

 彼はいったい何が楽しくて生きているのだろう。照り付ける日差しに背を焼かれながら、来る日も来る日も穴を掘っては埋め、こんな意味のない退屈な仕事に従事して得られる日銭といえば、ようやく空腹を満たしうる程度の賃金だった。
 正確には、それは賃金ではなかった。労役に対する報酬ではない。では何か。言うところのベーシックインカムであるが、ただでは金をあげたくない陰湿な社会が要求した妥協案だった。
 どんなに

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遥香の亡命:ショートショート

遥香の亡命:ショートショート

 2451年9月、アメリカで、シーズン最多安打という不滅の記録が、うら若き日本人ルーキーによって塗り替えられようとしている。
 4世紀半前、同じく日本人によって更新されたこの記録が、やはり同じ日本人の手によって再び更新されるという歴史の前に、日本中が湧きたっていた・・・・

 とき同じくして、この時代、優生思想が根付いていた。この思想を眩しいダイヤのように極限まで研磨した結果、将来に国民栄誉賞の基

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明美の駆け足:ショートショート

明美の駆け足:ショートショート

 視界のずっと先が朝もやに覆われた湖のほとり、明美の姿もほのかに霞んでいて、ともすると彼女はやがて消えてしまうのではないかと、あられもない不安に苛まれた。
 そんな心配などどこ吹く風、彼女はロングスカートを膝まで捲り上げ、浅瀬をのらりくらりと楽し気に歩きまわっている。何を思ってか、ときおり水面をパシャリと蹴り上げたりする。威勢よくそうするわりに、水しぶきは彼女の繊細な足首とまるっきり比例するように

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彩乃の夢:ショートショート

彩乃の夢:ショートショート

孤独か、夢の終わりか、保司(やすし)は選択を迫られていた。しかし愛という点から見れば、彩乃への愛がどの程度のものであるのか、試されているようでもある。

ということは、この二者択一はそのままこう言い換えられる。夢か、彼女への愛か、と。最も理想的なのは、《俺のことが好きなら、我慢してくれ》ということなのだが、最近はこういうのをスキの搾取というらしい。しかし当の保司は今まさに、《わたしのことが好きなら

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涼花の火炎:ショートショート

涼花の火炎:ショートショート

 生きれば生きるほど、世界を知れば知るほど、涼花は世界というものがわからなくなってくるようだった。それはまるで、作品が出来上がるにつれて行き詰まっていく芸術家にも似ていた。もしそれが彼の晩年であったなら、なんたる悲劇だろうか。集大成が完成間近だというのに、当初に彼がイメージした美とは大きくかけ離れ、さりとてもう一からやり直す時間も体力も残されていないのだ。

 あるいは知識という面で見れば、知ると

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奈津美の声:ショートショート

奈津美の声:ショートショート

 温かいうちに朝食を食べてほしくて、彼女を起こしにいった。そしたら、彼女は人形になっていた。

 広々としたマットに、奈津美の姿をしたリカちゃん人形が、ぽつんと虚しく落っこちている。

 「奈津美?」

 返事はない。

 僕は奈津美を手に取って、食卓に連れていった。こんな小さな人形を椅子に置いたところでどうしようもないから、作りたてのBLTサンドの脇に置いた。シンプルだが材料には凝っていて、ドレ

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沙由美のたんぽぽ:ショートショート

沙由美のたんぽぽ:ショートショート

 少年のころ、私はたんぽぽの黄色が好きだった。生い茂る草叢のなかに見つければ、それはリングケースに収まったダイヤのようであったし、アスファルトの道端で見かければ、それは濁った水面がきらりと反射する美しい日光のようだった。

 いずれにしても、私はそこに生きる理由をしか見出さなかった。自転車をうまく漕げなかった日も、好きな女の子につきまとって先生に怒られた日も、たんぽぽの黄色は、暗澹たる雨雲のずっと

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智花のナポリタン:ショートショート

智花のナポリタン:ショートショート

 どんなに多様性のあふれる時代になったとしても、冷たいナポリタンが大好きだ、なんて智花の味覚は誰の共感も得られないだろう。

 しかし彼女は、舌先の感覚でそれを好ましく思っているのではなかった。ほとほと人との繋がりに疲労困憊していた彼女は、この冷え冷えとした味わいのなかに、いったいどこの神経がそれを感じ取っているというのか、ともかく断絶と孤独の味を見出すのだった。

 パスタに絡まった、ケチャップ

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ある熟女の宿:ショートショート

ある熟女の宿:ショートショート

その女は美しかった。美しいだけではない。華やかなのだ。齢は四十といったところだろうか。明るい紫のノースリーブワンピースから伸びる白い腕は肌理が細かく、密になだらかで、じっと永く見つめようとしても、私の目が送る視線は、あたかもそれは水滴であるかのように撥ねてしまい、一点に留めてはいられないのだった。そうして刹那刹那に外れては戻る視線はやがて指先の方へ移り、そこに安住の地を見出す。あでやかな薄紅色に染

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風花の平等権:ショートショート

風花の平等権:ショートショート

 シュッシュッシュッシュッシュッシュッ・・・・・

 と風花が自分の持ち物に延々とアルコールを吹きかけるのは、コロナウイルスを恐れてのことではなかった。

 だが、真夏の朝の満員電車——彼女がそこへ乗り込むには、感染病棟で働く医療者たちと同じくらいの勇気と覚悟が必要だった。あるいはそれは、空気清浄機に魅せられている人が、外の空気に恐怖するのと同じだった。

 彼女は思う。

『今日も私は汚れてしま

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