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彩乃の夢:ショートショート

孤独か、夢の終わりか、保司(やすし)は選択を迫られていた。しかし愛という点から見れば、彩乃への愛がどの程度のものであるのか、試されているようでもある。

ということは、この二者択一はそのままこう言い換えられる。夢か、彼女への愛か、と。最も理想的なのは、《俺のことが好きなら、我慢してくれ》ということなのだが、最近はこういうのをスキの搾取というらしい。しかし当の保司は今まさに、《わたしのことが好きなら、我慢して》という搾取される側に立っていた。

いったい彼は何を追い、彼女のために何を手放さなければならないのか。

幼いころから、保司は裁判官というものに憧れていた。みんながサッカー選手や野球選手のスターに自分の姿を重ねて、その虚像を実像と取り違えていた頃から、彼は正義の実現にくみしたいと希望をいだいていた。

だがそれは茨の道だった。みんなが早い時期に夢を捨てるのと異なり、司法試験は早熟や才能というものを要求しない。それが却って残酷なのであって、いつでもチャンスがあると、なかなか諦めきれないというのが人間の心理だ。

保司も大学を除籍されるまえ、(旧)司法試験を二度ほど受けた。二次試験の論文試験は模試の成績も良かった。ところが一次試験の択一はめっぽう苦手だった。なにせ過去問の量が膨大で、とてもじゃないが学費と生活費を賄うためのバイトと両立することは困難だった。

連帯保証人をつけられず奨学金を借りられなかった自分の境遇を呪いもしたが、ともかく生きねばならないから、呪っている暇はなかった。除籍後、公務員試験を難なくパスし、高卒ながら地元の役所に拾われて市政の末端に携わっていた。

そんな苦労人の彼もいまや34歳となり、確固とした居場所を手中に収めていたのだが、昇任試験のために、久しく触れていなかった法学に触れたとたんに、かつての熱い想いが囂々と甦ってしまったのである。

気がつけば彼は、司法試験予備試験の過去問を一通り買い揃えていた。圧巻の分厚さ、重さである。昇任試験の比ではない。これを働きながら4週も5週も解く?絶対に自分には無理だ。保司はコツコツやるのが苦手で、一極集中型の人間なのだ。

その上プライドまで高くて、たとえば1年だけ休職してみて、ダメだったら再度役所に出戻りしようなんて、そんな厚顔無恥には耐えられないし、社会がそんな甘ったれた考えを許すはずがないし、「ほらな、やっぱり」と、人が心に抱く嘲笑の声を恐れて、失敗後の生活はアルバイト暮らしの隠居生活しか想像できなかった。

となれば、マッチングアプリで知り合い、結婚を前提に交際した彩乃とは、ここでお別れしておかなければならない。彼女は2つ下で、子供を欲していた。仲睦まじい家庭生活を夢見ていて、当初は、いや、今もそれを叶えてやりたいと思っているし、裏を返せばそのくらい好きだということだ。

にもかかわらず、いったいどうして俺は、過去問に止まらず、学者の書いた重厚な基本書まで買っているのだろう?、と自問自答しないではいられなかった。

答えは明確だった。事実に蹂躙された法のあることを自分の目でもって確かめ、自分の手でもって、傷を負った秩序に正義という名の包帯を巻いてやり、失血にくらむ社会をもとの姿に回復させたい———

と、疎ましいほど彼は正義の人だったが、同時に明確なことがもう一つ、それは彩乃を失いたくないということだった。

『彩乃はいったい俺のどこが好きなのだろう?俺が彼女の夢を、そこそこの確率で叶えてやれるかもしれないから?』

もちろん、そうした彩乃の夢のうちに、保司の人柄そのものも含まれていて、彼女がその夢をまるごと愛しているのなら、彼にとってみても、こんなに光栄なこと、幸福なことはない。

しかしそれが意味するところは、この夢が消えれば、この夢が実現不可能と彩乃がみれば、彼に抱く愛もまた、論理必然的に消えてしまうということだった。司法試験を志すくらいの彼が、こんな素朴な理屈を解せないはずはなかったのであるが、

悲しいかな、恋は人を盲目にするとはまさにこのことで、保司は、自分がもはや彼女にとってリスキーな存在でしかないことには目をつむって、こう思った。

『いや、彼女が心から愛しているは夢じゃない、俺そのものだ。そうでなければ、この4年の間に彼女が俺に許してくれたことはなんだったのか。本当に、本当に愛している男にしか女はカラダを許さないものじゃないのか。そうでしょう?あぁマリア様!』

と、保司には、幾重にも重ねられた彼女との情事が、まさか取引の一環であったなどと信じられないのだった・・・

———彼は今、「あやの・・・あやの・・・」と憑りつかれたように涙しながら呟いて、かつまた、心には上のようなことを思いながら、数十枚とスマホに保存されている、音信不通になった彩乃の写真を夜な夜な眺めつつ、2週間後には予備試験三次試験の口述試験を控えている。

( ´艸`)🎵🎶🎵<(_ _)>