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地方映画史研究のための方法論(32)大衆文化としての映画⑥——佐藤忠男の任侠映画・剣戟映画論

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト


鳥取大学サイエンス・アカデミーVol.546「映画はどこにあるのか——鳥取の映像文化を支える人びと」

杵島和泉さんとの共著『映画はどこにあるのか——鳥取の公共上映・自主制作・コミュニティ形成』の刊行記念講座として、2024年6月8日(土)に鳥取県立図書館で、鳥取大学サイエンス・アカデミーVol.546「映画はどこにあるのか——鳥取の映像文化を支える人びと」を実施する。

講師|佐々木友輔(鳥取大学地域学部准教授)
   杵島和泉(神戸大学大学院)
日時
|2024年6月8日(土)10:30-12:00
   一般向け、聴講無料、事前申し込み制
   (申込〆切 6月7日(金)正午まで)
場所|鳥取県立図書館 2階 大研修室 ※各図書館へライブ中継あり
   zoomを利用してご自宅でも視聴できます。
   後日のオンデマンド配信はございません。
詳細https://www.core.tottori-u.ac.jp/2024/05/24/12189/

講座では、県内に映画館が4館しかない鳥取で、自主的な上映活動を通じて豊かな映画文化を作り上げてきた人々を紹介すると共に、そうした草の根的な取り組みが、日本の映画史を考える上でも重要な価値や意義を持つことを論じる。SVODの普及、映画館の危機が語られる今、自主上映という営みを通して、あらためて映画を「見る場所」の問題を考える機会としたい。

鳥取大学サイエンス・アカデミーVol.546
「映画はどこにあるのか——鳥取の映像文化を支える人びと」

麒麟のまちアカデミー教養コース「親子で楽しむ映画の歴史——娯楽と教育のはざまで」

また6月22日(土)には、鳥取市文化センターにて麒麟のまちアカデミー教養コースの講座「親子で楽しむ映画の歴史——娯楽と教育のはざまで」を実施する。こちらの講座では、映画館で行われた子ども向けの映画鑑賞会、学校や公共施設での視聴覚教育など、鳥取における「子どもと映画」「教育と映画」の関係性の歴史を辿る予定。

講師|佐々木友輔(鳥取大学地域学部准教授)
   杵島和泉(神戸大学大学院)
日時|2024年6月22日(土)10:00〜11:30
   事前申し込み制(申込〆切・講座の1週間前まで)
場所|鳥取市文化センター2階 会議室5
企画|鳥取市文化センター(視聴覚ライブラリー関連)
参加料|300円
詳細https://tottori-shinkoukai.or.jp/shidai/

麒麟のまちアカデミー教養コース
「親子で楽しむ映画の歴史——娯楽と教育のはざまで」

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」は2021年にスタートした。新聞記事や記録写真、当時を知る人へのインタビュー等をもとにして、鳥取市内にかつてあった映画館およびレンタル店を調査し、Claraさんによるイラストを通じた記憶の復元(イラストレーション・ドキュメンタリー)を試みている。2022年に第1弾の展覧会(鳥取市内編)、翌年に共同企画者の杵島和泉さんが加わって、第2弾の展覧会(米子・境港市内編)、米子市立図書館での巡回展「見る場所を見る2+——イラストで見る米子の映画館と鉄道の歴史」、「見る場所を見る3——アーティストによる鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」を開催した。

2024年3月には、杵島和泉さんとの共著『映画はどこにあるのか——鳥取の公共上映・自主制作・コミュニティ形成』(今井出版、2024年)を刊行した。同書では、 鳥取で自主上映活動を行う団体・個人へのインタビューを行うと共に、過去に鳥取市内に存在した映画館や自主上映団体の歴史を辿り、映画を「見る場所」の問題を多角的に掘り下げている。(今井出版ウェブストアamazon.co.jp

地方映画史研究のための方法論

地方映画史研究のための方法論」は、「見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」の調査・研究に協力してくれる学生に、地方映画史を考える上で押さえておくべき理論や方法論を共有するために始めたもので、2023年度は計26本の記事を公開した。杵島和泉さんと続けている研究会・読書会で作成したレジュメをに加筆修正を加えた上で、このnoteに掲載している。年度末ということで一時休止していたが、これからまた不定期で更新をしていく予定。過去の記事は以下の通り。

メディアの考古学
(01)ミシェル・フーコーの考古学的方法
(02)ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』
(03)エルキ・フータモのメディア考古学
(04)ジェフリー・バッチェンのヴァナキュラー写真論

観客の発見
(05)クリスチャン・メッツの精神分析的映画理論
(06)ローラ・マルヴィのフェミニスト映画理論
(07)ベル・フックスの「対抗的まなざし」

装置理論と映画館
(08)ルイ・アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」
(09)ジガ・ヴェルトフ集団『イタリアにおける闘争』
(10)ジャン=ルイ・ボードリーの装置理論
(11)ミシェル・フーコーの生権力論と自己の技法

「普通」の研究
(12)アラン・コルバン『記録を残さなかった男の歴史』
(13)ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』

都市論と映画
(14)W・ベンヤミン『写真小史』『複製技術時代における芸術作品』
(15)W・ベンヤミン『パサージュ論』
(16)アン・フリードバーグ『ウィンドウ・ショッピング』
(17)吉見俊哉の上演論的アプローチ
(18)若林幹夫の「社会の地形/社会の地層」論

初期映画・古典的映画研究
(19)チャールズ・マッサーの「スクリーン・プラクティス」論
(20)トム・ガニング「アトラクションの映画」
(21) デヴィッド・ボードウェル「古典的ハリウッド映画」
(22)M・ハンセン「ヴァナキュラー・モダニズム」としての古典的映画

抵抗の技法と日常的実践
(23)ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』と状況の構築
(24)ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』
(25)スチュアート・ホール「エンコーディング/デコーディング」
(26)エラ・ショハット、ロバート・スタムによる多文化的な観客性の理論

大衆文化としての映画
(27)T・W・アドルノとM・ホルクハイマーによる「文化産業」論
(28)ジークフリート・クラカウアー『カリガリからヒトラーへ』
(29)F・ジェイムソン「大衆文化における物象化とユートピア」
(30)権田保之助『民衆娯楽問題』
(31)鶴見俊輔による限界芸術/大衆芸術としての映画論

佐藤忠男——映画は大衆の芸術である

佐藤忠男(1930- 2022)

佐藤忠男

佐藤忠男(さとう・ただお、1930-2022)は、新潟県新潟市出身の評論家・編集者。日本映画大学名誉学長、文化功労者(2019)、従四位・旭日中綬章(2022)授与。

中学試験をやめて予科連(海軍飛行予科練習生)に入隊し、敗戦後は鉄工所や日本国有鉄道など職を転々とする。新潟の電信電話公社(現在のNTT)で働きながら定時制高校(新潟市立工業高等学校)に通い、1952年に卒業した。工場で製品検査を行う日々の合間を縫って映画を見に出かけ、映画についてのエッセイを『映画評論』や『キネマ旬報』に投稿。多くが誌面に掲載されたが、短評しか書けないことに満足できなくなり、より長い投稿を受け付けてくれる媒体を探していた。そして1954年、枚数制限なしの投稿募集をしていた雑誌『思想の科学』に「任侠について」と題したエッセイを投稿し、鶴見俊輔の絶賛を受けて掲載され、大きな反響を呼ぶ。佐藤は独学者の大型新人として注目され、以後、映画や大衆芸術の評論家としての道に進んでいくことになる。また編集者としても活躍し、『映画評論』、『思想の科学』の編集長をつとめた他、1973年には個人雑誌『映画史研究』を創刊。1995年には、それまでの研究成果をまとめた日本映画の通史『日本映画史』全4巻(岩波書店、1995)を刊行し、毎日出版文化賞、芸術選奨文部大臣賞などを受賞した。2006〜2007年にかけては同じ岩波書店から増補版も刊行されている。

主な著作に、『日本の映画』(三一新書、1956年)、『斬られ方の美学』(筑摩書房 1962年)、『少年の理想主義』(明治図書出版、1964年)、『黒澤明の世界』(三一書房、1969年)、『小津安二郎の芸術』(朝日新聞社、1971年)、『溝口健二の世界』(筑摩書房、1982年)、『キネマと砲声——日中映画前史』(リブロポート、1985年)、『韓国映画の精神——林権澤監督とその時代』(岩波書店、2000年)など。他にも多数の著作がある。

映画は大衆の芸術である——「日本映画の伝統」(1956)

初めに、佐藤忠男の大衆文化や映画に対する基本的な考え方を確認するため、『映画芸術』1956年4月号の巻頭論文「日本映画の伝統」(原題「映画は何を総合するか」)を取り上げたい。若書きではあるが、佐藤が自身の理論的立場を明確に示しそうとした論考であり、その後の彼の執筆活動を追う上でも重要な参照項になると考えられる。なお、「日本映画の伝統」は1956年に『日本の映画』(三一書房)に収録され、その後、岩波書店の同時代ライブラリーの一冊『大衆文化の原像』(佐藤忠男、1993年)にも掲載された。以下では、『大衆文化の原像』を参照してその論旨をまとめていく。引用頁数も同書からのものである。

日本映画の伝統」の冒頭近く、佐藤は「映画は大衆の芸術」(p.5)であると規定する。単純に「数」の面で考えれば、歴史上、映画ほど多くの人びとを喜ばせた芸術は他にないだろうし、それはまずもって映画の長所である。だが大衆に支持されなければ成立しないということは、逆に短所にもなり得る。どれだけ高尚な芸術作品だと主張しても、あるいは評価されても、興行成績が悪ければ、その映画は商品としては失敗と見做されてしまうのだ。

純文学やクラシック音楽の世界では、高尚な芸術を目指す作り手が高尚な趣味を持つ受け手に向けて作品を作る。通俗小説や歌謡曲など芸能の世界では、サービス精神に徹した作り手が、大勢の人びとが楽しめることだけを追求する。ところが映画だけは、「芸術性と娯楽性の矛盾」(p.10)がしばしば語られる。また、そうした矛盾が生じるところにこそ、映画の、従来の芸術とは異なる新しい意義があるのではないかと佐藤は言う。

芸術と芸能の弁証法的発展

歴史を遡れば、そもそも芸術と娯楽は一体で、分けることのできないものだった。例えばアメリカや南米の原住民の生活や踊りを捉えた記録映画から推察できるように、原始共同社会時代では、芸術は民衆の生産生活と密接に結びついており、創造・生産することと、それを楽しむことが何の矛盾もなく統一されており、さらにそこには教育的な側面や政治的な側面も含まれていたことが推察される。

佐藤の考えでは、芸術と娯楽が分化して対立関係を持つようになるのは、階級社会の成立以後である。支配階級は生産から切り離され、優れた技芸の持ち主を囲って、高度に洗練された趣味性に適う「芸術」を作らせた。他方、被支配階級である民衆の側の「芸能」は、生産との結びつきが残っており、また自分たちの心情を自分たち自身で生み出した芸で表現するために、人びとの喜びや哀しみを非常に豊かに捉えているが、専門の芸術家を育てる余裕はなく、高度な芸に磨きあげていくことはできない。

佐藤は芸術の歴史を、支配階級の「芸術」と被支配階級の「芸能」が対立し、互いに否定し合う中から新しいものが生み出されるという弁証法的な発展過程として捉える。中世には、貴族の高尚な芸術であった「舞楽(ぶがく)」が民衆の低俗野卑な民衆芸能である「田楽」(能)に圧倒され、近世には、武士階級の高尚な芸術となった「能」が民衆の低俗野卑な民衆芸能「歌舞伎」に圧倒され、現代には、ブルジョワ階級の高尚な趣味となった「歌舞伎」が低俗な見世物とされる「活動写真」に圧倒され……というように、いつの時代においても、高尚な「芸術」は低俗な「芸能」に圧迫され、そこから、新しい時代を背負う階級の心情や考え方を表現する芸術が生み出されてきた。 

日本映画の歴史①——河原乞食的精神の継承

現在では、マス・コミュニケーションの発達が大規模な「芸術の民主化」(p.18)をもたらし、一部の知識人だけが理解できる趣味的に洗練された近代芸術を、映画や漫画、ラジオ、テレビなどの「マス・コミ芸術」(p.18)が圧倒しつつある。マス・コミ芸術は、もっと面白いものが見たいという人びとの望みと、それに応えようとする作り手の創意工夫によって芸術的な価値を高め、従来の高尚な芸術を突き上げるようにして発展してきたのである。

一般的には、芸術の民主化とは、従来の高尚な芸術が低俗化することであると捉えられがちであるが、佐藤からすれば、そのような考え方は両者の弁証法的な発展過程を捉え損ねている。例えば日本映画の歴史に関して言えば、映画が新奇な見世物から脱して芸術への道を歩み始めた時、最初に行ったのは、当時はある程度芸術としての地位を高めていた「歌舞伎」や「新派」の劇を、どさ回りの役者や講談本のストーリーで取り入れるという「最も低俗なひきうつし」(p.24)によって受け継ぐことだった。「日本映画の歴史は、河原乞食的な芸人の精神を現代にもう一度生かし直したもの」(p.25)として出発したのだ。

田楽や歌舞伎、浄瑠璃、説教節、祭文語り、浪曲などの芸能に携わる者は、「河原乞食」という差別的な蔑称で呼ばれていた。彼/彼女らは、悲惨な境遇にありながらもしぶとく生き、その生活の切実な実感を表現したのであり、映画もまた、そうした「河原乞食的精神」(p.28)の中から出発し、大衆の心を掴んだ。ただしそうした芸能の従事者は、自らの生活を高めたり、状況を変えたりするための知識や教養を持たなかったため、前近代的な考え方や感じ方を表現するに留まり、嘆きを嘆きのままに語って己の心を沈めることしかできないという限界もあった。

日本映画の歴史②——映画界から生まれる新しいタイプの思想家

やがて大衆は、資本主義の発達に伴って近代的な労働者となり、サラリーマンという知的労働者が分厚い層を形成するようになった。また教育が普及した結果、労働者が同時に高い教養や知性の持ち主であることも珍しくなくなった。

こうした動きに伴い、映画人の中からも、あくまで大衆の関心を惹きつけながら、同時に「河原乞食的精神」を抜け出そうとする者が現れてきた。例えば伊藤大輔マキノ正博らによって確立された剣戟映画チャンバラ映画)は、現実の社会問題や社会不安を物語に反映させることで、古い芸の中に秘められた民衆の心情を、現代的で生き生きした表現として蘇らせることに成功した。このように、もっとも卑俗そうなものと、もっとも斬新なものとが表裏一体なものとして現れるのが映画の特徴であり、そのことが独自の芸術性にもつながる。だがそれは、あくまで自然発生的に現れるものであるがゆえに、必然的に良いものと悪いものが入り乱れる。例えば西部劇の勇ましい建国叙事詩が帝国主義的な感じと未分化であるように、思想的な幼稚さを曝け出す結果に終わることもあるだろう。

こうした思想的な幼稚さを克服するために、作家と観客が選んだ道は、記録映画の方法を取り入れた「リアリズム映画」を制作したり、高尚な芸術の方法を取り入れた「文芸映画」を制作したりすることであった。笑われても軽蔑されても構わない図太さを以て、映画は模倣先の芸術を自分流に変形しながら学習し、大衆の生活感情と、知的なものの見方や考え方を結びつける努力を続けてきた。

佐藤は、こうした努力を通じて、映画界からまったく新しいタイプの思想家が生まれつつあると述べている。それは大衆の心を持ち、大衆と共に悩み、喜び、しかし大衆が持つ負の側面には腹を立てるような、矛盾した性質を併せ持つ人物像であり、具体的な名前としては、木下惠介新藤兼人黒澤明山本薩夫今井正山村聰溝口健二が挙げられる。彼らの思想は、文壇の小説家と比べると浅く、大学教授と比べると曖昧なところがあるかもしれないが、代わりに恐ろしいほどの説得力を持ち、また明確な美として印象づけられることに特徴がある。

加えて映画は、集団による制作と鑑賞が行われるために、その思索も集団で行われる。従って、そこから、皆が納得できるような考え方や事実に即した考え方、個々人の個性を活かしたり、多くの人びとが無意識に抱いていた心に光を当ててやるような考え方が生まれてくるだろう。

それは例えば、大衆の美の感じ方を反映した存在である「映画スター」の描き方に表れてくる。例えば溝口健二は『西鶴一代女』(1952)や『近松物語』(1954)で、田中絹代長谷川一夫を、単なる美男美女としてではなく、受難の道を耐え抜く庶民の姿として捉え直した。木下惠介もまた、『破れ太鼓』(1949)で時代劇の大スターである阪東妻三郎を現代劇に起用し、善良で保守的な苦労人という庶民的な人物として描き出したのである。

『西鶴一代女』(溝口健二、1952)の田中絹代

「任侠について」(1954)

 「任侠について」(1954)

続いて、佐藤の大衆文化観に基づく映画論を読んでみよう。初めに取り上げるのは、『思想の科学』1954年8月号に掲載された佐藤の出世作「任侠について」(1954年)である。同論は単著『斬られ方の美学』(筑摩書房 、1962年)に収録され、その後『大衆文化の原像』にも掲載された。

そこで佐藤が最初に取り上げるのは、吉村公三郎による喜劇映画『森の石松』(1949)である。大衆に愛される伝説的な挟客(弱きを助け、強きを挫く信条を持って世渡りをする者)・森の石松を、取るにたらないチンピラとして戯画的に描き、ヤクザ社会の馬鹿らしさを訴えた作品で、批評家からは高い評価を得たが、興行的には成功しなかった。このことについて、知的な高級な時代劇を求めるファンや批評家は「大衆の程度の低さ」を嘆き、浪花節や講談によって捏造された架空の英雄たちの正体を暴露して、大衆を迷妄から解き放してやらねばならないと考えた。同じく大衆から絶大な人気を誇っていた挟客・国定忠治は実際には残忍な小悪党でしかなく、義賊・鼠小僧次郎吉も決して英雄的な存在ではなかった。森の石松に至っては、実在したかどうかさえ疑わしい人物なのだ。

だが佐藤は、こうした考え方に疑問を呈する。大衆は浪曲家や講談師に騙されて石松を愛しているのではなく、大衆が石松のような人物を愛したがっているからこそ、その要求に応じて、浪曲家や講談師は石松をますます愛すべき人物として誇張するのではないか。それならば、彼らの正体を暴いたところで、大衆は不愉快に感じるだけだろう。

孤独なヤクザの物語——封建的庶民のニヒリズム

では、なぜ大衆はヤクザを愛したがるのか。佐藤はその理由を説明するために、典型的なヤクザ映画の物語を、①孤独なヤクザの話と、②孤独でないヤクザの話とに分けて、それぞれの特徴を論じている。さしあたり、孤独なヤクザの物語には、三つの人間の類型が登場するという。

  1. 善良で人情派、色男で腕っ節の強い「主人公のヤクザ」。彼らの多くは孤児や世捨て人で、各地を渡り歩いて生活している。家や身分など、社会的な束縛からの自由を獲得した存在である。日々の労働に追われ、旅行に行く暇も余裕もない大衆は、こうしたヤクザの生き様に憧れを抱くだろう。

  2. 善良でつつましい暮らしをしているが、権力に虐げられていつも泣き寝入りをしている「庶民たち」。どれだけ働いても、無法な利子をつけられた借金の返済ができず、その代償として娘の肉体を要求されてしまうこともある。大衆は自分自身の日常生活の苦労や理不尽を重ね合わせて、作中の庶民たちに無条件で同情するだろう。

  3. 前二者の共通の敵である、「悪辣な親分(ボス)」とその子分たち。多くの場合、彼らは支配権力の手先も兼ねており、そうした強い立場を利用して庶民たちを圧迫し、私服を肥やしている。どれだけ悪事を働いても、法で裁かれる気配はない。そこには、ヤクザ物語を支持する大衆が警察権力を信用しておらず、無意識のうちに敵だと感じていることを意味している。

以上のように、「主人公のヤクザ」は大衆がかくありたいと願う理想像の歪められた姿であり、虐げられている「庶民たち」は大衆自身の姿、庶民をいじめる「悪辣なボス」は、大衆の生活を苦しいものにしている政治的・経済的・階級的圧迫の反映として見ることができるだろう。

大抵のヤクザ映画では、前二者と後者の対立抗争によって物語が進行するが、ここで佐藤は、本来は庶民(大衆)が自ら団結してボスに反抗すべきなのに、その夢を孤独なヤクザに託してしまっているところに「封建的庶民の根深いニヒリズム」(p.75)を読み取っている。大衆はヤクザの活躍を通じて権力に反抗する快感を味わいながらも、自分自身は反抗に加担せず、権力に楯突いた責任はすべて反社会的な無法者一人に負わせようとする。それゆえ、自由や反抗の象徴である主人公のヤクザは、永遠に孤独な存在であり続けるのだ。

意識の内面では権力を否定しながらも、意識の表面では権力を肯定すべきものと考えている。これが、封建的な生活感情の中に生きてゆかざるを得なかった民衆のニヒリズムの基盤である。権力に盲従しなければならない自分は、映画館の中やラジオの前でだけささやかなウップンをはらし、反抗を夢みる自分は、遠い街道の向うへと追放されてしまうわけである。

佐藤忠男「任侠について」『大衆映画の原像』岩波書店、1993年、p.77

孤独でないヤクザの物語——封建的感情の残滓

続いて、孤独でないヤクザの物語についても見ていこう。国定忠治や幡随院長兵衛など、一定の土地を持ち、徒党を従え、自分自身の勢力を張っているヤクザたちも、やはり権力に反抗する存在である。彼らはドラマティックで華々しい闘争の末に、大衆の喝采を浴びながら悲壮な死を遂げる。それは一種の階級闘争であり、擬似革命家のような存在として崇められる彼らは、孤独なヤクザのように落ち延びる先を持たない。 

田崎草雲《国定忠治肖像》(1898)
歌川国芳《国芳もやう正札附現金男・幡随長兵衛》(1845)

ここで重要なのは、こうしたヤクザの反抗が、あくまで堅気の人間には迷惑をかけないという前提の下で行われることだと佐藤は指摘する。孤独でないヤクザたちは、庶民の助力を拒み、英雄的に死んでいく。大衆は権力に反抗したいものの、自分自身はその反抗に加わりたくないし、巻き込まれるのも避けたいと考えているのだ。

しかも、そこで反抗の対象となる敵役は、せいぜい悪旗本や悪代官といった支配階級の末端であり、幕府の政策などより大きな権力に向かおうとはしない。大衆は、幕府に重税を訴えた義民・佐倉惣五郎や島原の乱を起こした天草四郎よりも、ヤクザの国定忠治の方を好むのである。

以上のように、ヤクザ映画は大衆の鬱憤を晴らす役割を担うと共に、その物語世界で何よりも重視される親分と子分の情義は、権力者にとっても害がなく、都合の良いモラルであった。それは、言うなれば「封建時代における庶民の感情の安全弁」(p.79)であり、そのような安全弁が今でも有効に働いているという事実は、今も人びとの心の中に封建的感情の残滓があることを示している。ヤクザ映画の需要の高まりは、現代社会の「暗さ」の反映なのだ。

ヤクザ映画の変容——ニヒリズムからファシズムへ

本来、権力への抵抗は堅気の大衆自身によって為されねばならないものである。それどころか、権力組織の是正を一部の暴力的な連中に委ねることは、「ファシズム」に通じる危険な道であると佐藤は言う。日本やドイツ、イタリアでファシズムが台頭したのは、まさに腐敗したブルジョワ議会政府への不信を、軍部への期待へと置き換えたためであった。

佐藤は、孤独でないヤクザの物語の一変形として博徒・清水次郎長一家の武勇伝を取り上げ、そこに、ヤクザ映画というジャンルの変容の兆候を読み取っている。清水次郎長は、最初は無名の存在だったが、無知で暴力的な者たちを子分に従えて近隣のヤクザ集団を征伐し、「海道一の親分」へと上り詰めていく。

清水次郎長
(『幕末・明治・大正回顧80年史 第8輯』(東洋文化協会、1935年)より)

次郎長にとっては、権力への反抗や民衆の保護ではなく、勢力を拡大することが最大の目的であり、取り巻きも、次郎長の人格や彼の築いた帝国の栄光を賛美するばかり。佐藤はこれこそ正真正銘のファシズムであり、自身が愛したヤクザ映画の堕落であると言う。インテリはヤクザ映画を低俗なセンチメンタリズムだとか、安易なヒロイズムだといった紋切り型の言葉で軽蔑し、安易に切り捨てようとする。だが真に注視せねばならないのは、上述のようなヤクザ映画のヒロイズムからニヒリズムへの変容、そして、ニヒリズムからファシズムへの変容である。なぜならそれは、同時代の大衆が無意識に求めているものの反映であるかもしれないからだ。 

「チャンバラと四谷怪談」(1955)

鶴見俊輔の方法の継承

佐藤の述懐によれば、「任侠について」の執筆当時はまだ、任侠映画に限らず、通俗的な大衆映画が真面目な議論の対象とされておらず、わずかな例外として映画批評の専門家ではない鶴見俊輔福田定良の論文がある程度だったという。佐藤は両者の影響下に「任侠について」を書き、己の評論活動の一つの出発点とした(「なぜ大衆文化を考えるか」『大衆文化の原像』所収、p.264)。その頃、佐藤は「大衆映画をまじめに論じることが必要だということと同時に、映画を論じることで自分を語ること」を考えていたと述べているが(同前、p.265)、「映画を論じることで自分を語る」というのは、まさに「一つの日本映画論——「振袖狂女」について」(『限界芸術論』所収、ちくま学芸文庫、1999年、初出1952年)で鶴見が実践した、一人の「大衆」としての経験を顧みながら書くことの継承であると言えるだろう。

とりわけ佐藤が『映画評論』1955年11月号に寄稿した「チャンバラと四谷怪談」(原題「チャンバラ映画の現実性」。後に『日本の映画』、『大衆映画の原像』にも掲載された。)には、鶴見の「一つの日本映画論」からの影響が色濃く出ている。鶴見は『振袖狂女』(安田広義、1952)を論じる上で、作品のあらすじを語りながら、その場面の鑑賞中に感じたことや、自分自身の過去の人生経験、記憶などとの結びつきを、括弧に入れて記述するスタイルを採用していたが、佐藤もまた、映画作品を語りながら、それを鑑賞している際の自分自身の心の動きを同時に記述していく。以下は、並木鏡太郎『風雲三条河原』(1955)を見た際に感じたことを記した箇所の引用である。

ある場面では、ヤクザの用心棒よろしくといった風体の近藤勇が、猫に紙袋をかぶせながらドラ声で唄っています(野蛮人め! という気持)。またある場面では、一刀のもとに斬り捨てられた岡っ引きが、ノートルダムの傴僂男みたいな奇態な格好で道路にうつぶしたまま手足をヒクヒクと痙攣させながら息を引きとってゆきます(ざまあみやがれ)。そしてまた、ある場面では、抜身の大刀をぶら下げた瀕死の剣客が、下水の堀に身をかくしていて、その男の肩にしまった蛍を、通りがかりの子供が無心につかまえ、何も知らずに、有難う、と声をかけて行ってしまいます(こんな死に方も悪くないな……)。

佐藤忠男「チャンバラと四谷怪談」『大衆映画の原像』岩波書店、1993年、p.84

当時の佐藤は、自分が大衆代表であるとの自負があり、「自分を語ることで自ずから大衆的な思考を語ることができるはずだと思っていた」と述べている(「なぜ大衆文化を考えるか」p.265)。自分自身の体験を語ることこそが、知識人的な思考方法に凝り固まった批評の世界に風穴を開けることになると考えたのだ。

並木鏡太郎『風雲三条河原』(1955)

風雲三条河原』の主人公は、「人斬り以蔵」のあだ名を持つ土佐藩浪士・岡田以蔵。彼は勤皇派の一員として、佐幕派の要人を暗殺していたが、一度幕府に検挙されたのをきっかけに同志たちに掌を返され、邪魔者扱いされ、ついには毒殺まで企てられてしまう。身をやつした以蔵は、恋人の身売りを防ぐために、やむを得ず同志の一人を密告し、実際に裏切り行為を働いてしまう。勤皇派の同志と佐幕派の新撰組の双方に追われ、窮地に立たされた以蔵は、斬って斬って斬りまくり、泣いて泣いて泣きまくりながら、自分の密告によって死んだ友の霊前で、後悔しながら悶え死ぬ。 

並木鏡太郎『風雲三条河原』(1955)

佐藤は同作について、無声映画時代のチャンバラ映画の典型であると共に、どのような解釈もできるような曖昧さを持っていると指摘する。チャンバラ映画は、大衆それぞれが持つやり場のない感情の捌け口となるからこそ、面白く感じられるのだ

佐藤自身は『風雲三条河原』を見て、以蔵という男にすっかり同情してしまったという。同日に併映された砂川事件(米軍基地拡張のための砂川町の強制測量が行われ、反対したデモ隊が多数検挙された事件)のニュース映画で見た光景が、映画の物語と結びつき、新撰組や土佐藩のお偉い方は警官隊や政府の高官に、悶死する岡田以蔵はデモを行う農民たちの姿に重なって見えた。政府は役に立つ時だけは大衆を利用し、利用価値がなくなると突き放す。たまりかねて少しでも反抗すると、砂川事件のように武器を持った役人が押しかぶさってくる。では一体どうすれば良いのだ!?という心情を、ヤケになって太刀を振り回す以蔵の姿は、この上なくよく表しているように感じられたのだ。 

木下惠介『新釈四谷怪談』(1949)

佐藤はまた、人員整理という理不尽な理由で国鉄をクビになった日に、浅草で木下惠介の『新釈四谷怪談』(1949)を見た体験についても語っている。田中絹代が演じるお岩がひたすら主人に仕える姿は、権力に家畜のように屈従するしかない日本人の姿——そして佐藤自身の姿——に重なり、上原謙が演じる伊右衛門が、利欲に目が眩んで女房のお岩を見捨て、一切の犠牲を肩代わりさせる姿は、国鉄や日本政府の誰かの姿に重なる。だからこそ佐藤は、恐怖と憎しみの感情を持ってスクリーンを見つめ、幽霊となったお岩と共に「くそ野郎! あん畜生! 今に見ろ! 化けてやる! 殺してやる!」(p.88)と呪いの台詞を念じ続けたのである。

木下惠介『新釈四谷怪談』(1949)

風雲三条河原』や『新釈四谷怪談』のような時代劇が大衆に喜ばれるのは、それが現実とかけ離れた一種の夢物語だからだと語る者もいるが、佐藤はむしろ「良く出来た時代劇のほうが、生半可な現代劇よりも遥かに切実に現実を語っている場合が多い」(pp.92-93)からこそ、それが大衆に求められるのではないかと言う。

例えば「人間性を描く」ことを芸術の目的だと考える自由主義的で高尚な映画作家が砂川事件を描こうとすれば、おそらく警官や役人を単純な悪とはせず、どうしようもない現実や社会の中でもがく、ちっぽけな人間の悲劇といったものが描かれるだろう。一部の知識人には面白い映画になるかもしれないが、そこには「激しくつきあげてくる憤り」(p.94)が欠けている。『風雲三条河原』や『新釈四谷怪談』のような時代劇は、現実の様々なしがらみに囚われることなく、心の中から突き上げてくる気持ちを存分に語りたいという、大衆の要求を満たしてくれるのだ。それは現実逃避かもしれないが、同時に、切実に語られた現実でもあることを見落としてはならないだろう。


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