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地方映画史研究のための方法論(6)「観客」の発見②——ローラ・マルヴィのフェミニスト映画理論

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」は2021年にスタートした。新聞記事や記録写真、当時を知る人へのインタビュー等をもとにして、鳥取市内にかつてあった映画館およびレンタル店を調査し、Claraさんによるイラストを通じた記憶の復元(イラストレーション・ドキュメンタリー)を試みている。2022年に第1弾の展覧会(鳥取市内編)、翌年に共同企画者の杵島和泉さんが加わって、第2弾の展覧会(米子・境港市内編)を開催した。今のところ三ヵ年計画で、2023年12月開催予定の第3弾展覧会(倉吉・郡部編)で東中西部のリサーチが一段落する予定。鳥取で自主上映活動を行う団体・個人にインタビューしたドキュメンタリー『映画愛の現在』三部作(2020)と併せて、多面的に「鳥取の地方映画史」を浮かび上がらせていけたらと考えている。

調査・研究に協力してくれる学生たちに、地方映画史を考える上で押さえておくべき理論や方法論を共有しておきたいと考え、この原稿(地方映画史研究のための方法論)を書き始めた。

第5回から7回にかけては、主流の映画研究の中で「観客」という存在がどのように語られてきたかを確認していく。

前回紹介したクリスチャン・メッツ精神分析的映画理論は、映画の意味生産における「観客」の重要性に光を当て、あらかじめ作品に備わった意味を読みとろうとしてきた従来の映画研究のありかたを大きく揺さぶることになった。だが、そこで語られている「観客」とは一体何者だろうか。個々人の性差や人種、社会階層などの違いを無視した「観客」一般のモデルを構築することは、果たして正しいのだろうか。このような問題提起のもと、精神分析的な映画理論を批判的に乗り越えようとしたのが、今回紹介するローラ・マルヴィである。

ローラ・マルヴィ

ローラ・マルヴィ(Laura Mulvey 1941-)はイギリスのフェミニスト映画批評家・理論家。オックスフォードに生まれ、オックスフォード大学セント・ヒルダ・カレッジで学んだ。フェミニスト映画理論のパイオニアの一人であり、また1974年から1982年にかけては夫のピーター・ウォーレンとの共同制作で6本の映画の監督と脚本を手がけている。2000年に英国学士院フェローに選出。現在はロンドン大学バークベック・カレッジの教授を務めている。

マルヴィが1975年に発表した「視覚的快楽と物語映画」(斎藤綾子 訳、『新映画理論集成① 歴史/人種/ジェンダー』所収、岩本憲児、武田潔、斎藤綾子編、フィルムアート社、1998年)は、フェミニスト映画理論を代表する論文であると共に、映画研究の枠を超えて、女性学者や文学研究者など広範な分野に影響を与えてきた。フェミニズムに関する基礎文献として現在もしばしば取り上げられる、記念碑的な著作である。

「視覚的快楽と物語映画」(1975)

 精神分析の政治的使用と快楽の破壊

 「視覚的快楽と物語映画」の冒頭で、マルヴィは二つの問いを立てる。第一に、性差に関する社会的に制度化された認識は、どのようなかたちで映画に反映されるか。また逆に、映画はどのようにして人々の性差に関する認識に影響を与えるか。そしてマルヴィは「精神分析」を政治的武器として用いることによって、この問いに答えようとする。

ただし、精神分析の理論自体がこれまでは「男性の無意識」についてばかり語ってきた。その意味で、現段階ではまだ「女性の無意識」について検討するという重要な課題からは遠いところにいると言わざるを得ない。

そこでマルヴィは、段階的な戦略を提案する。まずは現在の男根中心主義的な精神分析を用いて——要するに、敵の理論を逆手にとって——父権社会(男性が権力の中心を占める社会)の無意識がいかにして個々の映画作品の形式(フォーム)を構造化してきたかを明らかにし、女性たちが囚われている社会秩序への理解を深める。そして最終的には、父権社会そのものを破壊し、変革することを目指すのである。

映画の快楽や美を批判的に分析することは、映画の楽しみを破壊してしまうのではないかと懸念されるかもしれない。だがマルヴィは、この論考ではまさに映画を見ることの快楽の破壊を試みようとしているのだと高らかに宣言する。訳者の斎藤綾子が言うように、こうした政治的戦闘性理論的過激さがマルヴィの著作と姿勢を特徴づけている。

見ることの快楽——視覚快楽嗜好と自己愛


映画の快楽の一つに視覚快楽嗜好(スコポフィリア)がある。フロイトによれば、視覚快楽嗜好とは、能動的な主体が受動的な対象を見つめることによる快楽である。それが極端なかたちをとれば、強迫的な窃視(見ることを許されていないものを覗き見ること)や、対象化された他者を一方的に見つめる行為によってのみ性的充足が得られるという「窃き見トム」的な倒錯行為になる。

映画は「見られるもの」として明示されているため、隠れて他者を覗き見る行為とは異なるもののように思えるかもしれない。だが映画館の暗闇の中で、遠く隔てられたスクリーンの世界を一方通行的に見つめる行為は、観客に「内密の世界で見ている」という感覚を与えるだろう。映画という制度は、観客の抑圧された欲望をスクリーン(の上に映し出される俳優)に投影させるものとして機能する。

また映画は自己愛(ナルシシズム)的側面を持つために、視覚快楽嗜好に一層拍車をかける。映画が自己愛的側面を持つのは、ただ外見的に映画のスクリーンと鏡が似ているからだけではない。映画は観客の自我を一時的に喪失させる(自分が誰で、今どこにいるか分からなくなるような感覚を引きおこす)ことによって、前主体的な瞬間、幼児期の自我が確立していない段階を回顧的に呼び起こす。例えばスター俳優という理想的な自我を映し出すことで、その対象に観客が同一化するように促す。

このように映画を「見る」行為の喜びは、①視覚快楽嗜好(能動的な主体が受動的な対象を見つめることの快楽)と、②自己愛(与えられたイメージへの自己同一化)あるいは自我リビドー(自らの内側に向かう性的欲動)という、二つの矛盾した側面を持つ。だがどちらも、知覚された現実そのものには無関心で、エロス化された想像の世界を作り上げる点では共通している。

映像としての女性、視線の担い手としての男性

映像(イメージ)としての女性

性的な不均衡によって規制された社会においては、男性が能動的に「見る」側、女性が受動的に「見られる」側を担わされることになる。男性の視線が女性の姿に幻想を投影して快楽を味わう一方で、女性の姿は、男性の視線に見合った視覚的・性愛的(エロティック)なスタイルで呈示(ディスプレイ)される。

主流の映画は物語見世物スペクタクル)を結びつけようとするが、本来、両者は対立するものでもある。なぜなら、女性の存在は、男性主人公の行動を決定して物語を動かす主要因になるが、観客が見世物として呈示された女性を凝視している間、物語の進行は停滞することになるからだ。

ジョセフ・フォン・スタンバーグは『モロッコ』(1930)で、物語と見世物を両立させるための巧妙なアイデアとして、ディートリヒにショーガールを演じさせている。そうすることで、物語の進行を中断せずに、作中の男性キャラクターの視線と観客の視線を一致させることが可能になるのである。

ジョセフ・フォン・スタンバーグ『モロッコ』(1930)

視線の担い手としての男性

一方で男性は、性的対象として見つめられる負担に耐えきれず、自分自身に似た身体が映し出されるのをあまり見たがらない。そのため、男性は観客の視線の担い手として「見る」側に回り、物語を進行する能動的役割を果たそうとする。

観客は自らの視線を作中のヒーローの視線に投影する。男性スターの魅力は、性愛的対象としての魅力ではなく、観客にとって理想的な自我として、より強く、より上手く事を運び、全能の心地良さを生み出す。

偶像(イコン)としての女性のイメージが平面的な画面を特徴としていたのに対して、能動的な男性のイメージは、三次元的な空間を要求する。映画の画面は、観客の理想的自我が映し出される鏡像認知の場に対応している。カメラの動きや自然な編集によって、ヒーローの視線は明確になり、自由自在に行動(アクション)することが可能になる。

去勢不安からの逃げ道——サディズムと呪物崇拝

さらにマルヴィは、映画における女性の映像(イメージ)は、男性にとって「見る」快楽の対象であるだけでなく、常に去勢不安を喚起する脅威的な存在でもあるという。

あらためて確認しておくと、去勢不安とは、母親(女性)に男性器がないことに気づいた男児が、男性器を去勢(切断)された不完全な男性として女性を見るようになると共に、自分自身も男性期を切断されてしまうのではないかという妄想を抱くことである。

女性の映像(イメージ)によって去勢不安を抱いた男性がその恐怖から逃れるためには、以下の二つの方法がある。

  1.  サディズム
    自分に対して行われるかもしれないと恐れている去勢を他者に向けて行うことで快楽を得る
    。具体的には、女性を貶めて、有罪者として罰したり、逆に救ったりすることによって、最初の外傷(去勢)を再演しようとする。特にフィルム・ノワールというジャンルにおいて、ファム・ファタール(男を破滅に導く魔性の女、運命的な女)を執拗に調査し、その謎を暴くことで神秘性を取り除こうとすることが、この逃げ道の典型的な例である。
    また、サディズムは物語を要求する。何事かが起こるのを心待ちにし、他者に働きかけて勝利や敗北、変化などを強いるため、主流の物語映画と非常に相性が良い。

  2. 呪物崇拝(フェティシズム)
    失われた女性のファルス(肉体的実在としてのペニスに対して、象徴的意味を強調してファルスと呼ばれる)の代用としての呪物崇拝(フェティシズム)によって、去勢そのものを完全に否認する。女性器を見て、ファルスの欠如を知る前に見たもの——例えば足や靴、下着など——が呪物崇拝の対象となることもあれば、女性の映像(イメージ)そのものを呪物化することもある。女性の過大評価、女性スターへのカルト的崇拝は、まさにそうした呪物化の例である。そこでは、対象の肉体美を強化することで、それ自体を充足的なものへと変化させることが行われる。

    中でもジョセフ・フォン・スタンバーグは、こうした呪物崇拝的視覚快楽嗜好フェティシスティック・スコポフィリア)を純粋なかたちで提示する。彼は自分の作品が上下逆さまに映写されても構わないと述べたという。そうすれば、物語や登場人物に気を取られず画面上のイメージに集中できるからだ。『間諜X』(1931)のマレーネ・ディートリヒのように、スタンバーグが得意とする女性の顔や脚のクロースアップは、断片化した身体が画面を平面的なものに変え、物語が必要とする遠近法的な画面の奥行きを失わせてしまう。そして、物語的な現実らしさよりも、切抜き絵か肖像(イコン)のような印象をもたらすことになる。

マレーネ・ディートリヒ
(ジョセフ・フォン・スタンバーグ『間諜X』より)

マルヴィによる『裏窓』論

アルフレッド・ヒッチコック『裏窓』(1952)

アルフレッド・ヒッチコックの映画において、観客は主人公が体験する矛盾や緊張を共に味わうことになる。ヒッチコックは観客の視線を主人公の視線と巧みに一致させることで、窃視と呪物崇拝の間を揺れ動く物語にのめり込むように促す。そのような試みの最たる例として、再び『裏窓』(1952)を取り上げることにしよう。

マルヴィによる『裏窓』論

前回も論じたように、『裏窓』はしばしば「映画を見る体験」の隠喩として語られてきた。同作の物語は、観客の視線をジェフという男性主人公の窃視病的な視線に一致させることによって進行する。

ジェフにはリザ(グレース・ケリー)という恋人がいるが、彼女との結婚には消極的で、ぞんざいに扱っていた。だが映画の終盤、二人の関係性が変化する。リザもまた殺人に関するジェフの仮説を信じるようになり、疑惑の男が不在の際に彼の部屋に侵入。殺人の証拠を探そうとするが、帰宅した男に見つかって窮地に陥る。ジェフは慌ててリザを助けようとするが、車椅子から動くことができない。

アルフレッド・ヒッチコック『裏窓』(1954)

一般的な解釈では、この場面はリザの積極的な行動と危機を目の当たりにして、ジェフが彼女のことを心から愛していることに気づいたのだと考えるだろう。だがマルヴィは、もう一歩踏み込んだ精神分析的な解釈を行っている。ジェフがそれまで邪険にしていたリザを欲望の対象として認識するようになったのは、リザが向かいのアパートに移動することによって、ジェフと共に「見る」側ではなく、ジェフに「見られる」側に移行したためだと考えるのだ。

またリザ自身も、「見られる」側としての自己顕示欲=露出癖を隠そうとしない。ファッションモデルである彼女は、登場するたびに服装を変え、ジェフの気を惹こうとする。男性の「見る」欲望に見合った視覚的イメージに、自ら成りきろうとするのである。

アルフレッド・ヒッチコック『裏窓』(1954)

映画の快楽を破壊する

映画制度の解体、見るという快楽の破壊

以上のように、マルヴィは主流の物語映画において男性が能動的に「見る」側、女性が受動的に「見られる」側の役割が割り振られていることを指摘すると共に、そうして呈示された女性の映像(イメージ)が去勢不安を駆り立て、サディズムと呪物崇拝の欲望を活性化すると論じた。これはあらゆる映画作品(=フィルム)に共通する特質ではないが、制度としての映画(=シネマ)の特質であるとは言えるだろう。

マルヴィが「視覚的快楽と物語映画」の冒頭で掲げた目的、すなわち父権社会の無意識が作り出してきた映画の快楽を破壊するためには、そのような制度を成立させている映画的規則(シネマティック・コード)——撮影や編集によって物語世界の時空間を構成し、視線やその対象物を作り出すための規則——を解体しなければならない。

では、そのような「解体」作業をどのようにして行えば良いのか。例えば主流の物語映画においては、本来、①カメラそのものの視線、②映画を見る観客の視線、③登場人物の視線が重なり合っているが、①と②の視線を隠蔽し、③登場人物の視線に従属させることによって、錯覚的幻想(イリュージョン)世界を作り出すことが行われてきた。

そこでマルヴィは、まずは①カメラの視線を時間と空間における実体に戻し、次に②観客の視線をカメラの視線に囚われることのない視線へと解き放つことが必要だと言う。要するに、物語の快楽からも視覚的な快楽からも距離を置き、また見えざる存在としての観客の特権性や充足感も手放すことによって、初めて映画制度を暴き出し、解体することができるのである。

ローラ・マルヴィ、ピーター・ウォーレン『スフィンクスの謎』(1977)

マルヴィは実験映画や前衛映画(アヴァンギャルド映画)など、主流の映画形式を破壊し、既存のイデオロギーへの異議申し立てを行う「別の映画」(オルタナティブ・シネマ)に可能性を見ていた。マルヴィ自身、ピーター・ウォーレンとの共同監督による『スフィンクスの謎』(1977)などの映画制作を通じて、解体と破壊の具体的な実践に取り組んでいる。

ローラ・マルヴィ、ピーター・ウォーレン『スフィンクスの謎』(1977)

スフィンクスの謎』の360度回転するカメラや、画面上に直接姿を見せない女たちによる語りは、観客が特定の人物や対象に焦点を合わせることを許さない。またカメラに向けてマルヴィ自身が直接語りかけるなど、見えざる存在としての観客(あるは撮影者)の存在を指し示すことによって、主流の物語映画における「見る/見られる」という硬直した快楽の構造を揺さぶることが試みられている。 

「視覚的快楽と物語映画」を巡る議論

現実の女性観客

マルヴィの「視覚的快楽と物語映画」は大きな反響を呼び、そこから多くの議論が生まれることになった。

中でも重要な論点の一つは、「主流の映画は男性観客を前提としている」という結論への批判である。マルヴィは精神分析的な枠組みに依拠して理論を構築したが、現実には、受動的ではなく能動的に映画を享受する女性観客も存在するはずである。抽象的な「観客」モデルではなく、現実の女性観客、すなわち経済的・歴史的・文化的な要因も考慮した、多元的で複雑な観客心理を問題にするべきではないかという批判が多く寄せられた。

またそこから、マルヴィのように映画制度の解体や破壊に向かうのではなく、従来の制度とは異なる思想や形式に基づいた女性のための映画、あるいは女性の映画の美学を作ることや語ることが必要ではないかという問題意識が高まっていく。

「別の見方」を提示する

例えばテレサ・デ・ラウレティス(ローレティス)は「女性映画再考——美学とフェミニスト理論」(1987)において、いまや女性映画の役割は「別の物の見方」を提示することにあると述べた上で、その具体例としてシャンタル・アンケルマンの『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(1975)を挙げている(斉藤綾子 訳、『「新」映画理論集成①』所収、フィルムアート社、1998年、p.152)。

シャンタル・アンケルマン『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(1975)

アケルマンは長い時間をかけて、女性の日常の動作や仕草などを執拗に描写していく。それはキスや爆発に価値を置く従来の映画からすると、取るに足らないものと見做され、映画から排除されてきたものだった。これまで表象されて来なかった——あるいは不可能とされてきた——「女性たち」という社会的な主体を表象するための新たな形式を作り出すことによって、アケルマンは「物の見方」を変容させてみせたのだ。

男性/女性の二分法を超えて

精神分析的な枠組みに依拠したフェミニスト映画理論は、こうして男性/女性の二分法の限界に突き当たることになった。現実の映画観客を考えるためには、セクシュアリティーや人種、民族、社会階層、さらには歴史・文化・社会状況などの関わりを考慮しなければならない。

例えば次回に紹介予定のベル・フックスは「対抗的まなざし——黒人女性の観客性」(1992)において、マルヴィを初めとするフェミニスト映画理論の「観客」モデルは、人種の問題を抑圧していと批判し、主流の映画が想定する観客像から締め出されてきた黒人女性観客たちの「対抗的まなざし」について論じている。

またロバート・スタムルイス・スペンスは「映画表現における植民地主義と人種差別序説」(1983)において、精神分析など特定の理論を当てはめて作品を分析するのではなく、対象とするテクスト(作品)がその社会においていかに機能するのかを読み解く「テクスト分析」の方法を用いた多文化主義的映画論を展開した。スタムとスペンスによれば、映画やテレビはヨーロッパ植民地主義の特質が刻印された装置である。すなわち、そこには第一世界の住人が第三世界の住民たちを見せ物として窃視病的に見つめる「植民地主義的なまなざし」が埋め込まれているのだ。

映画表現における植民地主義と人種差別序説」は、マルヴィの「視覚的快楽と物語映画」と同じく『「新」映画理論集成①』(フィルムアート社、1998年)に邦訳が掲載されている(訳者は奥村賢)。また2019年には、スタムとエラ・ショハットの共著『支配と抵抗の映像文化——西洋中心主義と他者を考える』(早尾貴紀 監訳、法政大学出版局、2019)も刊行された。


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