見出し画像

地方映画史研究のための方法論(5)「観客」の発見①——クリスチャン・メッツの精神分析的映画理論

「Experimental Film Culture vol. 5 in Japan ~ポレポレオルタナティブ~」

2023年6月1日(木)から4日(日)にかけて行われる「Experimental Film Culture vol. 5 in Japan ~ポレポレオルタナティブ~」にて、『映画愛の現在』三部作とデビュー作『手紙』の上映が行われる。

映画愛の現在』は、常設映画館が三館しかない鳥取で、見たい映画を自分たちの手で上映する活動を続ける自主上映団体・個人を訪ねたドキュメンタリー。鳥取が舞台ではあるが、どの地域に暮らす映画愛好者にも見てもらえる一般性を持った作品になっていると思う。この機会に、ぜひご覧いただきたい。

手紙』(2002)は、実験映画作家・小池照男氏の映像ワークショップで学んでいた際に制作した初の長編。ほぼ全編を携帯電話の着信画面と、メールの受信を待つ手元だけで構成している。

手紙』は高校生の時に作った作品だが、情報環境やコミュニケーションツールへの関心は、オンデマンド授業動画映画『上り終えた梯子は棄て去らねばならない』(2022)など現在の作品まで継続している。

鳥取の自主上映活動と地方映画史

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト

2020年に『映画愛の現在』を完成させた後、自主上映活動を必要とするに至った鳥取の映画館事情についても知りたいという気持ちが強くなり、2021年に、新たなプロジェクトとして「見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」を開始した。

新聞記事や記録写真、当時を知る人へのインタビュー等をもとにして、鳥取市内にかつてあった映画館およびレンタル店を調査し、Claraさんによるイラストを通じた記憶の復元(イラストレーション・ドキュメンタリー)を試みている。2022年に第1弾の展覧会(鳥取市内編)、翌年に共同企画者の杵島和泉さんが加わって、第2弾の展覧会(米子・境港市内編)を開催した。今のところ三ヵ年計画で、2023年12月開催予定の第3弾展覧会(倉吉・郡部編)で東中西部のリサーチが一段落する予定。

地方映画史研究のための方法論

調査・研究に協力してくれる学生たちに、地方映画史を考える上で押さえておくべき理論や方法論を共有しておきたいと考え、この原稿(地方映画史研究のための方法論)を書き始めた。

今回(第5回)から7回にかけては、主流の映画研究の中で「観客」という存在がどのように語られてきたかを確認する。

具体的には、
【第5回】精神分析理論を映画研究に導入し、映画の意味が生み出される過程における「観客」の決定的な重要性を論じたクリスチャン・メッツの「想像的シニフィアン」、
【第6回】精神分析の方法を引き継ぎつつ、メッツ的な「観客」モデルが女性観客の存在を考慮していないことを批判し、フェミニスト映画理論を打ち立てたローラ・マルヴィの「視覚的快楽と物語映画」、
【第7回】マルヴィを初めとするフェミニスト映画理論の「観客」モデルが人種の問題を抑圧していることを批判し、主流の映画が想定する観客像から締め出された黒人女性観客たちの「抵抗的まなざし」を論じるベル・フックスの「対抗的まなざし——黒人女性の観客性
の紹介を通じて、理論的・抽象的な「観客」モデルから現実に生きる多様な「観客」の行動や実践の記述へと移行していく大きな流れが把握できるようにしたい。

クリスチャン・メッツ

クリスチャン・メッツ(Christian Metz 1931-1993)は、フランスの記号学者・映画学者である。映画研究に記号学や言語学の方法を導入することで「映画記号学」を打ち立てた人物として知られ、後には精神分析の方法も取り入れて、観客の映画体験を理論化しようとした。

この後取り上げるレフ・クレショフやセルゲイ・エイゼンシュテインが作り手の立場から、あるいはアンドレ・バザンが批評家の立場から「映画はどのようにあるべきか」を論じたのに対して、メッツは研究者としての立場から「映画はどのようにあるのか」を探求しようとした(武田潔「クリスチャン・メッツ——反省的=再帰的言説の道程」『映画論の冒険者たち』所収、東京大学出版会、2021年、p.141)。要するに、特定の理論に基づいて新たな映画を制作したり、特定の作品を擁護したり、新たな潮流を作り出そうとするのではなく、現に存在している映画の支配的な形式——実質的にはフィクションのドラマ映画ということになる——を精緻に分析し、そのメカニズムを読み解くことを重視したのである。

映画記号学

前史——映画=言語の夢

映画および映像を視覚的な「言語」として捉える発想は古くからあった。例えば1910年代終盤から20年代初頭にかけて、芸術家のヴァイキング・エッゲリングとハンス・リヒターは協働して幾何学的な視覚言語「ユニヴァーサル言語」の開発を試みた。両者は長いシートに幾何学形態を並べた巻物絵画を制作し、さらにそれらの幾何学形態に動きを加えた抽象映画『リズム21』(ハンス・リヒター、1921/23)や『対角線交響楽』(ヴァイキング・エッゲリング、1924)を発表。現在のインフォグラフィックやモーショングラフィックスの先駆けとも言える作品を遺している。

ヴァイキング・エッゲリング《水平=垂直オーケストラ》
Viking Eggeling. Drei momente des Horizontal-Vertikalorchesters. c 1921. From De Stijl, vol. 4, nr, 7 (July 1921): facing p. 112.

ハンス・リヒター『リズム21』(1921/23)

ヴァイキング・エッゲリング『対角線交響楽』(1924)

モンタージュ理論

言語としての映画をもっとも発展させたのは、モンタージュ理論であろう。

ソ連の映画作家・理論家レフ・クレショフは、モンタージュが人間に与える認知バイアスを「クレショフ効果」と名づけた。無表情の男の映像に食事の映像を組み合わせると「空腹」の表情、棺桶の中の少女の画像を組み合わせると「悲しみ」の表情に見えてくるというように、クレショフは、映像の意味は前後の映像との関係性によって決定されることを明らかにした。

また同じソ連の映画監督・理論家セルゲイ・エイゼンシュテインは、自らのモンタージュ理論を確立させようとする過程で漢字に興味を持った。例えば「日 + 月 = 明」「口 + 犬 = 吠」「口 + 鳥 = 鳴」など、漢字と漢字を組み合わせることによって、そこに新たな意味が生まれる。同様に、映像と映像を組み合わせることによっても新たな意味が生み出せるのではないかとエイゼンシュテンは考えた。

モンタージュ理論は映画のみならず、様々な映像表現における基本的な構成原理として、現在まで語り継がれている。だがその背景にある、映像を言語を同一視する発想は果たして正しいのだろうか。映画(映像)と言語の間には、大きな違いがあるのではないか。そのような疑問を投げかけたのが、クリスチャン・メッツである。

「映画——言語か言語活動か」(1964)

メッツは「映画——言語か言語活動か」(武田潔 訳、原著1964年、『映画における意味作用に関する試論——映画記号学の基本問題』所収、浅沼圭司 監訳、水声社、2005年)と題した論考において、映画は「言語(ラング)なき言語活動(ランガージュ)」と見なすのが妥当であると指摘する。

映画を英語や日本語のような「言語(ラング)」(社会的に共有された、音声・語彙・文法などの規則、記号体系)と同一視することはできないが、観客が作品鑑賞を通じて何かしら物語やメッセージを受け取っている以上、映画が「言語活動(ランガージュ)」(記号を作り出し、使用する能力と、その能力を用いて行われる活動全体を指す。言語活動には、話す・聞く・描くといった行為や、顔の表情、身ぶりなども含む)の一種であることも確かである。

では、具体的に映画と言語は何がどう異なるのか。メッツは記号学の一部門である言語学を参照し、言語と映画の共通点と差異を詳細に比較・分析することで、映画という言語活動に独自のメカニズムを明らかにしようとする。

例えばメッツは、映画には「」に当たるものがないと言う。クレショフやエイゼンシュテインは一つのショットを「」(単語)のようにして扱おうとしたが、仮に一人の男性が通りを歩いているショットがあるとして、その映像を「男性」「歩く」「通り」といった単一の語に還元することはできない。それを説明しようとするならば、やはり「一人の男性が通りを歩いている」というように、「」のかたちで記述するほかないだろう。

あるいはピストルだけをクロースアップで撮影したとしても、そのショットが「ピストル」という「」になることはあり得ない。観客はそのショットを「ここにピストルがある!」という「」として読み取るのである。

精神分析的映画理論

映画「観客」の発見

メッツは自説に寄せられた批判や疑問に応えるべく、たびたび修正や補足を加えていき、学問として成立する厳密で体系的な映画記号学の構築に努めた。その過程で、メッツはフロイトやラカンによる「精神分析」の理論を導入し、1975年に精神分析的映画理論の記念碑的な論文「想像的シニフィアン」(『映画と精神分析——想像的シニフィアン』所収、白水社、1981年)を発表する。

精神分析および心理学の映画研究への導入事例としては、例えばスラヴォイ・ジジェクのように、映画作品や作家に精神分析を施して一種の「診断」を下すアプローチや、ユングの元型(アーキタイプ)理論に基づいて映画の登場人物とその役割を作り出すハリウッド脚本術がよく知られている。だがメッツは、上記どちらとも異なるアプローチを選択する。

映画作品自体にあらかじめ不変の意味が備わっているわけではない。作品を鑑賞する観客の存在がなければ、そこに意味が生じることもない。そこでメッツは、精神分析的な枠組みに依拠して映画の「観客」モデルの構築を図る。すなわち、観客がいかにして作品を鑑賞し、そこから意味を生産するかを明らかにしようとするのである。

映画は鏡に似ている

メッツは、映画は様々な技法を用いて想像的なもの(イマジネール)を作り出すと言う。ここで言う想像的なもの(イマジネール)とは、映画が虚構の出来事を描き出せるという意味での想像的なもの(イマジネール)であるだけではない。メッツによれば、映画それ自体が想像的なもの(イマジネール)である。絵画や彫刻、演劇と違って、映画が提示するものはある意味ですべてが「偽物」であり、観客と同じ時空間を共有していないという不在感を伴う。

スクリーンに映し出されるのは事物そのものではなく、その幻影や分身、模造に過ぎないという意味で、映画は鏡に似ている。ここでメッツはジャック・ラカン鏡像段階論を参照し、映画における想像的なもの(イマジネール)を、鏡像段階論における想像界(イマジネール)と結びつけようとする。

鏡像段階論

ラカンによれば、幼児は鏡に映る偽りの自分の姿や母親の姿を、よりまとまりをもった完全な自己イメージだと誤認する。鏡のイメージを理想の自我(ego、人の心の構造)として捉え、それに同一化しようとすることで、自我の最初の輪郭を形成していく(一次ナルシシズム)。この時期の幼児にとっての世界のありようを想像界(イマジネール)と呼ぶ。

だが男児は、母親を自らの鏡像として自己イメージを形成しようとした際に、女性の身体と男性の身体の違い、すなわち母親(女性)には男性器(ペニス)がないことに気づく。そして女性のことを、男性器を去勢(切断)された不完全な男性として見るようになり、自分自身も父親に男性器を切断されてしまうのではないかと恐怖を抱く(去勢不安)。

父親による去勢を恐れた男児は、母親への近親相姦的な欲望を断念せざるを得ない。そこで、男児は父親に同一化することで——象徴的な父親となって——母親に代わる欲望の対象を探し、大人の男性になっていく。他方、女児は自分がすでに去勢されていることを悟って父親への欲望を諦め、仕方なく母親に同一化する。この過程は、想像界(イマジネール)から象徴界(サンボリック)への移行として説明される。

想像的かつ象徴的なシステム

だが幼児が目にする鏡と違って、映画という鏡には自分自身(観客自身)の姿は映し出されない。それでも観客が平気で居られるのは、その人がすでに想像界(イマジネール)から象徴界(サンボリック)への移行を終えており、映画(鏡)と現実との区別ができるからだ。言い換えれば、映画とは想像的なもの(イマジネール)であると同時に象徴的なもの(サンボリック)でもあるという二重性を備えたシステムである。観客は上映中、鏡を見る幼児と同様に想像的なもの(イマジネール)に魅惑されている一方で、自分はいま映画館で映画を見ている(一種の社会活動を行なっている)と理解した上で映画を見ているのであり、その点で象徴的なもの(サンボリック)に接近してもいる。だからこそ、作中でどれだけ突飛な出来事や恐ろしい出来事が起きても取り乱さず、冷静に鑑賞を続けることができるのである。

二段階の同一化

ではこのとき、映画観客は何に同一化しているのか。メッツによると、観客はスクリーンに映る事物に同一化するのではなく、観客席に居る「自分自身」、より正確に言えば見るという行為自体に同一化している。すでに述べたように、観客が鑑賞することで初めて映画の意味が生産される。その意味で、観客は画面上には姿を現さないが、映画として知覚されるすべてのものに先立つ超越的な知覚主体、全能者ならぬ「全知覚者」として存在している。またそのような視線としての自己は、撮影機(カメラ)およびその代理人としての映写機に同一化することになるだろう。

以上のような同一化を、メッツは「一次的同一化」——より正確には「一次的な映画的同一化」——と呼ぶ。これに対して、作中の登場人物たちの視線に同一化して感情移入したり、珍しい構図や突飛な画面構成から映画の作者の視点を意識したりすることを「二次的同一化」(二次的な映画的同一化)と呼び、区別している。

映画の視姦的体制

またメッツは、映画は知覚への熱情があって初めて成り立つと指摘する。映画を見るためには、何よりもまず「見ようとする欲望」がなければならないのであり、メッツはそれを視姦的(スコピック)欲動——例えば窃視症(観淫症、のぞき趣味)——と類似したものとして論じている。映画は、劇場の暗闇やスクリーンという一種の壁の穴、そして観客たちが一時的な集団を形成することなく孤独に鑑賞を続けるという点で、窃視病と強い類縁性を感じさせる。トーキー映画の場合は、さらに呼びかけ的欲動(幼児が母親を呼ぼうとする欲動)が加わる。こうした視覚的欲動と聴覚的欲動を一括して、メッツは「知覚的欲動」と呼ぶ。

欲動の対象の欠如

知覚的欲動に限らず、すべての性的欲動は「欠如」を基盤としている点で、飢えや渇きといった本能とは明確に異なっている。例えば飢えであれば食事をすることで確実に満たされるように、本能の充足は求める対象の有無によって決まる。だが性的欲動の場合は、対象がなくても充足することもあるし、逆に対象があっても完全な充足に至らないこともある。また性的欲動は欠如を満たそうとするが、同時に、その欲動が欲動として存続するためには、常に欠如がなければならない。

知覚的欲動は、①対象の欠如と、②想像的なもの(イマジネール)の果てなき追求によって特徴づけられる。対象の欠如は、対象との間にある距離として具体的に表すことができる。

窃視者は、必ず距離をとって対象を見つめる。それは映画の観客がスクリーンから一定の距離を置いて座ろうとすることとよく似ている。もしも対象に接触しようとすれば、接触感覚という非想像的なものが現れて、欲動の種類が変わってしまうだろう。いかなる欲動も「欠如」や「不在」を求める点では一致しているが、とりわけ窃視症をはじめとする知覚的欲動は、その隔たりの原則によって、対象との間の根源的な亀裂を象徴的かつ空間的に喚起する。


許されざる観淫症/許された観淫症

加えて映画は、見られる対象との間に隔たりがあるだけでなく、その対象が物理的に不在である点で、演劇や、ストリップのように窃視症と露出症が結びついたショーとは区別される。演劇であれば、観客と演者が同じ時空間を共有し、互いの同意の上で見ることと見られることが行われる。また、観客が演者から逆に見つめ返される可能性もある。それに対して映画館における観客(窃視者)は、対象に合意を得る必要もなければ、見つめ返されることもなく、一方的に見つめ続けることができる。その意味で、映画を見ることは「許されざる観淫症」といった趣を呈している。

ただし、映画を見ることが制度的に認められた娯楽である以上、それは「許された観淫症」であるとも言える。大都市の映画館では、無名の存在としての観客が人目を忍んで暗闇の中に入り、映像を覗き見て、またこっそりと出ていく。映画館は、後ろめたく、あまり誉められたものではない欲動を合法的に満たすことができる、一種の囲い地なのである。

アルフレッド・ヒッチコック『裏窓』(1952)

映画を見ることを窃視症観淫症と結びつけて論じたクリスチャン・メッツの観客論は、アルフレッド・ヒッチコックの『裏窓』(1952)を想起すると理解がしやすいかもしれない。ジャン・ドゥーシェやローラ・マルヴィを初めとして、『裏窓』(1952)はしばしば「映画を見る体験」の隠喩として語られてきた。

同作の主人公である報道カメラマンのジェフは、取材中に足を負傷し、車椅子で生活している。ジェフは身動きが取れない間の暇潰しとして、窓から近隣住民の生活を覗き見ることを趣味にしているが、あるとき住人の一人が不審な行動をしているのを目撃し、殺人事件が起きたのではないかと疑い始める。

James Stewart in American American mystery thriller film Rear Window (1954).

車椅子に固定され、薄暗い部屋から窓の向こうを覗き見るジェフの姿は、映画館の暗闇の中で座席に座り、スクリーンを見つめる観客の姿と重なり合う。ジェフ=映画観客は一定の距離を置いた場所に身を隠して、対象を一方的に見つめる。

また、加藤幹郎が『ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』(みすず書房、2005年)で指摘するように、ジェフは殺人事件の状況証拠を積み重ねていくが、本当に事件が起きたのだという客観的証拠は決して提示されることがない。『裏窓』の観客はジェフと共に殺人事件が起きたと信じ込むが、実際のところ、真相は最後まで曖昧なままである。殺人事件を確証する決定的な証拠の不在は、メッツが論じる、映画鑑賞における「見ようとする欲望」の対象の不在と対応しているように思える。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?