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地方映画史研究のための方法論(12)「普通」の研究①——アラン・コルバン『記録を残さなかった男の歴史』

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト


見る場所を見る2+——イラストで見る米子の映画館と鉄道の歴史

8月1日(火)から30日(水)まで、米子市立図書館で展覧会「見る場所を見る2+——イラストで見る米子の映画館と鉄道の歴史」が開催される。今年1月〜2月に実施した「見る場所を見る2」の巡回展という位置づけだが、展示内容は大幅に変わることになった。今回は杵島和泉さんが企画を練り、展示資料や作品の選定、解説文執筆を担当。Claraさんには新作3点を制作していただき、充実した内容になっている。また8月11日(金・祝)には、米子シネマクラブ会長の吉田明広さんとClaraさんをゲストに迎えてのギャラリートークも実施予定。夏休み中に米子に訪れる予定の方は、ぜひ図書館にも立ち寄ってほしい。

2023(令和5)年7月29日にJR米子駅の南北をつなぐ「がいなロード」が開通しました。新駅舎や駅ビルも同日オープンすることになり、米子駅は新しく生まれ変わります。顧みれば、山陰地方における初めての鉄道として山陰本線(境-米子-御来屋間)が開通してから、今年で121年目を迎えました。江戸時代から商人の街であった米子は、交通網の発達によってさらに活気溢れる街になっていきます。また、鉄道の影響を受けて、朝日町や角盤町といった米子駅周辺に数多くの映画館が誕生しました。当時の大衆娯楽であった映画は、米子でも愛される文化として定着していきます。
本展覧会では、米子における映画館と鉄道の歴史を併せて考え、交通網の発展が映画興行に与えた影響や映画受容の変化を明らかにします。米子周辺にかつてあった映画館をイラストで再現したClaraさんの作品や、映画館プログラムなどノンフィルム資料の展示を通して、いつの時代でも賑わう米子の街を想像していただければ幸いです。

「見る場所を見る2+——イラストで見る米子の映画館と鉄道の歴史」概要文

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト

「見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」は2021年にスタートした。新聞記事や記録写真、当時を知る人へのインタビュー等をもとにして、鳥取市内にかつてあった映画館およびレンタル店を調査し、Claraさんによるイラストを通じた記憶の復元(イラストレーション・ドキュメンタリー)を試みている。2022年に第1弾の展覧会(鳥取市内編)、翌年に共同企画者の杵島和泉さんが加わって、第2弾の展覧会(米子・境港市内編)を開催した。今のところ三ヵ年計画で、2023年12月開催予定の第3弾展覧会(倉吉・郡部編)で東中西部のリサーチが一段落する予定。鳥取で自主上映活動を行う団体・個人にインタビューしたドキュメンタリー『映画愛の現在』三部作(2020)と併せて、多面的に「鳥取の地方映画史」を浮かび上がらせていけたらと考えている。

調査・研究に協力してくれる学生たちに、地方映画史を考える上で押さえておくべき理論や方法論を共有しておきたいと考え、この原稿(地方映画史研究のための方法論)を書き始めた。杵島さんと行なっている研究会・読書会でレジュメをまとめ、それに加筆修正や微調整を加えて、このnoteに掲載している。

アラン・コルバンと感性の歴史学

アラン・コルバン

アラン・コルバン(Alain Corbin、1936-)は、フランスの歴史学者。フランス・オルヌ県に生まれ、カーン大学を卒業後に歴史の教授資格を取得し、一時期リモージュのリセ(フランスの後期中等教育機関)で教鞭を取りながら、地方を対象とする膨大な数量的データを扱った経済史研究の博士論文を執筆(後に『19世紀リムーザーザン地方における伝統と近代性(1845-1880)』として刊行)。この時点ですでに、大都市ではなく地方や田舎に関心を寄せるコルバンの基本姿勢が表れている。

1972年からはトゥールのフランソワ・ラブレー大学の教授に就任(担当は現代史)。1978年に刊行した『娼婦』と1982年に刊行した『においの歴史』が大きな転機となり、その後「感性の歴史家」としてのコルバンの名声が広まって行くことになった。1987年にはパリ第1大学の教授に就任し、19世紀史の講座を担当。

感性の歴史学

コルバンは、リュシアン・フェーヴルやミシェル・フーコー、ノルベルト・エリアスといった名を先駆者として挙げながら、「感性の歴史学」を掲げている。これまでは歴史性がないものとされていた「感情」や「感性」といったものに社会的・文化的な価値を認め、それらを研究することの意義を訴えたのだ。コルバンは欲望や快楽、においや音といった捉えがたい対象を選択し、わずかな手がかりだけを頼りに、忘れられた生や見逃された生の痕跡を探り当てる研究を続けてきた。

フランス文学者の小倉孝誠は、コルバンの歴史研究をその問題意識と対象に応じて、以下の5つのカテゴリーに分類している(小倉孝誠『歴史をどう語るか——近現代フランス、文学と歴史学の対話』法政大学出版局、2021年)。

  1. 身体と性をめぐる歴史学
    19世紀における性と売春を扱い、女性の身体に注がれる男性の欲望を論じた『娼婦』や、18〜19世紀における医学・宗教・文学の三領域において性の快楽がいかに語られてきたかを論じた『快楽の歴史』など。

  2. 感覚と感性の歴史
    においや嗅覚などの捉え難い対象を論じた『においの歴史』や、19世紀の田園地帯で日常的に聴こえる鐘の音が生み出す生活リズムを論じた『音の風景』など。

  3. 感情と情動の歴史
    愛や無双、欲望、不安、恐怖など、感性の歴史と密接に結びつく人間の強い感情や情動を扱った著作。『人喰いの村』や『時間・欲望・恐怖』など。

  4. 自然と風景への注目
    ロマン主義時代における海と海岸風景に対する認識の変化を論じた『浜辺の誕生』や「風景」という概念の形成を論じた『風景と人間』など、人間と自然、人間と風景の関わりに焦点をあてた著作。

  5. 地方と田園地帯の心象
    後述する『記録を残さなかった男の歴史』や『知識欲の誕生』など、近代フランスの地方や田舎における人々の感性文化と世界観を明らかにする試み。

『記録を残さなかった男の歴史』(1998)

普通の生活についての研究

アラン・コルバンは『記録を残さなかった男の歴史——ある木靴職人の世界 1798-1876』(渡辺響子 訳、藤原書店、1999年、原著初版1998年)において、エリートの社会史も「民衆」の社会史も、例外的な運命を生きた者や重大な出来事に関わった者など、限られた人々を研究対象として書かれてきたと指摘する。労働者や女性、排除されてきた者たちを対象にする研究であっても、そこで取り上げられるのは、自らペンを手にして何かを書き記したり、証言したり、自分自身が何かしらの実例になることを望んだ者だけである。「民衆」と名づけられた集団的存在が当時それらの言葉をどのように捉えていたかが問われることはほとんどないし、またそれらの言葉は、彼らの「波風のない普通の生活」(p.12)を明らかにしてはくれない。

そこでコルバンは、自ら記録を残すことのなかった——残さなかったのかもしれないし、残せなかったのかもしれない——一人の人間が生きた痕跡を寄せ集め、つなぎ合わせることで、その人間の再-想像を試みようとする。その試みは、地方映画史研究において避けがたい問題である「普通」の映画経験、あるいは「普通」の観客であるとはどういうことかを考える上でも、大きな手がかりを与えてくれるだろう。

ここからは、『記録を残さなかった男の歴史』におけるコルバンの基本的な方法論を確認した上で、具体的にいかなる種類の史料・資料が選ばれ、それらをいかなる仕方で用いることで、ピナゴという人物の再-想像が行われているかという観点のもと、各章を順に確認して簡潔にまとめていくことにしたい。

研究対象の無作為な選択——ルイ=フランソワ・ピナゴ

コルバンは、やむを得ない必要に迫られた場合のみ恣意的な介入を行いつつも、基本的には偶然性に委ねて研究対象となる地域と人物を決めることにした。

さしあたり、コルバンは唯一の取っ掛かりとして自らの生まれ故郷であるフランス北西部・ノルマンディー地域圏に位置するオルヌ県の古文書を対象とし、そこから市町村ごとの目録を無作為に開いて、目に入ったオリニ=ル=ビュタンという自治体を選ぶ。そこはモルターニュ=オー=ペルシュ郡に属する自治体で、古文書館の文献カードにも県の古文書Mシリーズ(人口・産業・商業・衛生・政治などのテーマで構成される)にも国立図書館のカタログにも『フランス歴史年表』の索引にも掲載されていない、これといった特徴のない小さな村だった。

さらにコルバンは、その村の戸籍台帳をまた無作為に二度開き、ジャン・クラピエとルイ=フランソワ・ピナゴ(1798-1876)という二人の人物を候補に挙げる。このうちクラピエは若死にしており、追跡可能な時代が限られていたため、ピナゴが研究対象に選ばれた。

主観的なカメラ

コルバンは各地の古文書館を長年調べてきた経験を活かして調査を行い、ピナゴの生没年や身長、居住地、職業、婚姻関係などはすぐに突き止めることができた。だがそれだけでは、ピナゴの日常生活がどのようなものであったか、家族や友人・知人とどのように関わり、どのような話し方をしたのかといった、本当の意味でその人を理解するための手がかりとはなり得ない。

そこでコルバンは、ピナゴが生きた時代や環境、当時の社会の価値観や人々の人生観・歴史観など、彼を取り巻き、実際に見聞きしたであろうものを描写することによって、ピナゴという不在の中心を浮かび上がらせようとする。ただしそれは、19世紀のペルシュ地方における農民の一般的あるいは集団的な日常生活や労働の諸条件を明らかにしようとすることとは異なる。コルバンが目指すのはあくまで、ピナゴ個人がその目で見た(可能性のある)世界を再構成することなのだ。そのような方法論は、映画における主観的なカメラの眼にたとえられている。

私はこれから、彼の立場に身を置いて——彼は不在であるかもしれないが——、彼の眼差しを想定しながら一枚の絵を描こうとしているわけだが、その絵の中でピナゴは、われわれにとって、たどり着くことのできない中心、絵の中の、見えない点となるだろう。ちょうど、映画で、観客が、こちらには見えないままでいる人物の視点を通して情景を見るようなものである。

アラン・コルバン『記録を残さなかった男の歴史』p.19

ピナゴが暮らした空間と見たであろう風景(第1章 ある生涯の空間)

第1章でコルバンは、国勢調査やオルヌ県の古文書に記されたピナゴに関する記録から、彼の居住地を割り出した上で、同地域の地理や自然環境を調査し、ピナゴがどのような空間で一生を過ごし、そこでどのような風景を見ていたのかを突き止めようとする。より具体的には、彼の居住地の周辺環境にどのようなものがあったのか、どこまでを日常的な移動範囲・活動範囲としていたのか、当時その地域はどのようなイメージの場所として語られていたのかについて、検討が行われる。

ピナゴの居住地は常に起伏の多いボカージュ(耕地や牧草地を囲う勾配に沿わせた生垣)の真ん中にあり、すぐ近くにはベレームの森があった。ピナゴは生涯を通して、自宅の北側に樹木が鬱蒼と並ぶ風景を見ることができた。その間、森の外観は荒廃したり再整備されたり美化されたりと変化し続けた。

ベレームの森付近、ボカージュのある風景(Google ストリートビュー、2023年6月撮影)
ベレームの森付近の小屋(Google ストリートビュー、2023年6月撮影)

またコルバンは、森の他にピナゴが訪れていたであろう場所として、彼の親族が暮らしていた森の外れの村々や、近所にあるオリニ=ル=ビュタンの町、日曜日にミサのために通ったであろうヴォノワーズや、縁日など気晴らしの機会もある郡役所所在地ベレームなどを挙げている。

以上のような空間によって作られたアイデンティティーが、ピナゴにもあったのではないかとコルバンは推測する。すなわち、周辺地域との関係性や、社交の形態、騒ぎ方など、この貧しい地帯に暮らす人々が共通して持つ「森の人間」としてのアイデンティティーである。

他方、ペルシュでは、早くから地域のアイデンティティーが危機に瀕しているという問題意識が生じ、地方史の欠乏を嘆く神父やエリート層による歴史や伝説の掘り起こしが行われてきた。そのようにして構築されたペルシュのイメージに、ピナゴがどの程度影響を受けていたかは分からない。だが、ボカージュに住む人々は都会に住む人々とあまり話をしたがらないという証言を踏まえるなら、ピナゴがエリート層主体のアイデンティティー運動から受けた影響は、おそらく漠然として弱々しいものであったであろう。

ピナゴが暮らす村の貧困状況(第2章「底辺の無限」)

次にコルバンは、農業調査や信徒の調査目録、国勢調査などをもとに、ピナゴとその周囲の人々の所得や土地・家畜などの財産を調べ、彼らの徹底した貧困状況を明らかにする。それはヴィクトル・ユーゴーが「底辺の無限」や「社会の洞窟」と呼ぶ場所、すなわち、その中では個人というものがすっかり消えてしまい、主体としての地位を獲得することができないような、不可視性の域である。

ピナゴの晩年には、町の人口が増えて以前よりも豊かになり、ピナゴが暮らす村も貧困状態から抜け出すことができたが、町とは対照的に空き家が増え、村の住人は二家族だけになっていた。

またそこでの人間関係も、家族や婚姻関係という枠組みで紡がれていた愛情による人間関係から、貧困と慈善から生じる近所付き合いの関係に変化していたとコルバンは指摘している。

ピナゴの家族関係(第3章 親和力と親戚)

第3章では、オリニ=ル=ビュタンの選挙人名簿や土地台帳などをもとに、ピナゴの家族や親戚関係が掘り下げられていく。

ピナゴには徴兵検査で良い番号を引き、兵役に就くことなく20歳で結婚することができた。妻のアンヌは1796年生まれで糸紡ぎをして働いていたことの他は、ピナゴと同様にほとんどが謎に包まれている。

ピナゴが43歳の時点で2人は8人の子どもを抱えており、貧困の中で大家族を養う苦労を味わった。47歳の時に妻アンヌを失い、一人暮らしとなったが、成長した子どもたちが独り立ちしており、また彼らの多くはピナゴの近所に暮らしていたので、完全な孤独ではなかったと思われる。

ピナゴの村が属するノルマンディー地域圏は、他の多くの地方ほど家族の影響が強くないことで知られているが、それとは対照的に、ピナゴの生涯における家族の重要性は明らかであるとコルバンは言う。一族が織りなす人間関係や会話、仕事の重要性はもちろんのこと、この一族のありようが彼らの暮らす小部落の評価につながっただろうし、またその共同体の中でも、個人というより一族の単位で名誉や評判が語られ、評価がなされただろう。

ピナゴの個人的特徴(第4章 文盲の言葉)

第4章でコルバンは、徴兵名簿や戸籍上の証書、方言の調査、民衆演劇などから、ピナゴの外見や識字能力、話し方など、より個人的な特徴に迫ろうとする。

ピナゴの身長は166cmで、当時としては背が高かった。また徴兵名簿の記述から、ピナゴの暮らす地域の若者の衛生状態はそれなりに満足できるものであったらしい。だがピナゴの外見について、それ以上分かる情報は何もない。

その代わり、ピナゴに関する戸籍上の証書などの書類から、彼には識字能力がなかったことが分かる。父親は多少の読み書きができたが、ピナゴの子ども時代に学校に通うのは極めて困難であったし、実際、その頃のオリニ=ル=ビュタンでは読み書きができない者のほうが多数派だった。

コックベール・ド・モンブレ調査(フランス全土の話し言葉を調べるため、ルカ福音書における「放蕩息子のたとえ」各地の方言に翻訳・記録したもの)によって、ピナゴやその周辺の人々が、口頭でどのように言葉を発していたのかを想像することができる。

また、ピナゴが実際に会話をする場面としては、(1)道端でのすれ違いなど偶然の出会い、(2)商談や取引、(3)親戚宅などへの訪問、(4)会合や団欒、家族での会話のような4つの状況が想定できる。実際にどのような会話が繰り広げられたかは不明だが、フレ神父が書き記したペルシュの民衆の日常を芝居化した作品から、当時の歓迎の挨拶や抱擁、もてなしの種類、しばしば語られた話題などを想像する手がかりが得られるだろう。

ピナゴの仕事(第5章 木靴職人と糸紡ぎの女、そして手袋つくり)

第5章でコルバンは、司法関係の古文書や職人たちの小屋を描いた絵葉書などから、ピナゴが仕事をしていた場所や、その実態を描き出そうとする。

ピナゴの父親のジャック・ピナゴは、小作をしながら、国有森の深くから材木を運び出す運搬業者として働いていた。荷車を曳かせる馬のために、禁止された場所で草を食べさせて何度も罰せられ、一審裁判所の判事たちから「常習再犯者」とみなされている。息子のピナゴについてはどんな違反を犯した記録も残っていないが、父親の仕事を見たり手伝ったり、そこでの人間関係に関わる経験は、ピナゴの人間形成に大きな影響力を持ったと思われる。

ベレームの森(Google ストリートビュー、2023年6月撮影)

この地域では皆12歳で仕事を始めるから、ピナゴも12歳から働き始めたに違いない。木靴職人としての仕事を覚えるために、当時は父から子、親方から子へと伝える修行のかたちしか存在していなかった。ピナゴはおそらく木靴職人をしていた親戚のドゥルアンおじさんか他の職人の作業場に通って修行を積んだのであろう。

木靴職人についての研究書の著者たちが描いた職人たちの小屋(掘立て小屋、あばら屋、バラックなど)の絵や、そうした小屋を写真に撮った絵葉書のおかげで、ピナゴがどのような場所で仕事をしていたのかもある程度想像することができる。

木靴職人の小屋の一例(アラン・コルバン『記録を残さなかった男の歴史』p.408)
別のタイプの木靴職人の小屋(アラン・コルバン『記録を残さなかった男の歴史』p.408)

運搬業者の父と耕作者の義父が居り運搬が容易であったことや、ピナゴの暮らす村にも木靴職人が集まっていたこと、伐採区域の近さ、家族構成とそれぞれの仕事、職人が森を離れて村に移るという当時の全国的な傾向などから、ピナゴも自らの作業場あるいは小屋を住まいの近くに建てたのではないかとコルバンは推測している。

ピナゴの村の人間関係(第6章 話し合いアレンジの喜び)

第6章でコルバンは、裁判記録の資料や法案関係の資料を通じて、ビナゴを取り巻く人々と森の関係を明らかにしようとする。

軽犯罪は基本的に木に関わるもので、彼らは国有林から僅かな資源や利益を得ようとして犯罪に手を染めることになった。被疑者でもっとも多い職種は木靴職人で、他には木こり、縦挽き職工、運搬業者、材木商などがいた。だがこうした森での違反によって人々の間に不和が生じた形跡はなく、共同体内での評判を傷つけるものになったわけではないようだ。

オリニ=ル=ビュタンにおいて目立った暴力沙汰が起こることは稀で、日常生活の中で起こるいざこざや仲違いも大抵が話し合いアレンジによって解決されていた。ピナゴは名誉や評判を気にする田舎社会において、交換や貸し借り、同意や取り決めアレンジが織りなす様々な関係の網の目の中に生きていた。ここで言われる「アレンジ」とは、ほとんどが近所付き合いの中で行われるものであり、二者間もしくは二家族間での係争は、村長や助役の仲裁によって解決が図られる。

ジェヴォーダンやピレネーのバロニなど他の地域に見られる家族の強い連帯や集団決闘のような激しい争いは、オリニ=ル=ビュタンには見られない。コルバンはその理由として、各家庭が離れた場所にあることや土地が極端に細分化されていること、職業の選択肢の貧しさや野心の少なさを挙げている。

ピナゴの村の余暇(第6章 話し合いアレンジの喜び)

またここでコルバンは、司法関係の古文書を扱うことで村の生活の負の側面ばかりに気をとられないように注意を促す。オリニ=ル=ビュタンの森とボカージュは、人々が集い、遊んだり楽しんだりする場でもあったはずだ。そうした村の生活の正の側面を、コルバンは司法関係の古文書からでも読み取ることが可能であると示してくれる。

日曜のミサ中にシードルや蒸留酒などの販売を禁止する措置を緩和するよう求める要望書や、早朝や夜に旅籠はたご(食事付きの宿)でアルコールを出してはいけないという地方自治規則など、酒類の販売・提供の規制に関する資料の存在は、逆説的に、人々が日々酒を飲んで楽しんでいたことを示しており、実際、県庁が法の適用をゆるめて昔からの慣習に対する寛容さを見せている資料もある。木靴職人は旅籠で集まって飲むことを好んだ。羽目を外して騒ぎをおこし、禁固刑を喰らったり、罰金を支払ったりしたという記録も残っている。

またピナゴが暮らす家の近くでは、少なくとも1848年まで、広場から村の通りに沿って縁日が行われており、その規模は次第に拡大して森にまで広がった。森が荒らされたり、火事が起こったりするリスクもあったが、森林管理局は世紀中頃までこの縁日の実施を容認していた。住民たちが愛着を抱くこの祝祭に、おそらくピナゴも参加していただろう。

ピナゴの歴史的知識(第7章 解体された過去)

第7章では、ピナゴが歴史に対してどのような知識を持っていたかが問われる。とは言え、やはりそれを知るための直接的な手がかりは一切ない。コルバンはオルヌ県の陳情書や報告書などを参照しつつ、ピナゴがどのような方法や経路で歴史に関する情報を得ることができたかを探ることで、彼が持ち得た歴史的知識を浮かび上がらせようとする

識字能力を持たないピナゴにとって、歴史的知識とは耳から入ってくるものであった。様々な人々が口述した歴史に対する言及・批評を記憶し、その総体を脳内で再構成したものがピナゴの歴史的知識であるだろう。だとすれば、ピナゴの家族や周囲の人間がどのような人物であるかが分かれば、彼らが歴史についてどのような話をしたかもある程度推測できるはずである。

ピナゴの一族は皆長寿であり、彼の親戚の多くが、1789年に勃発したフランス革命以前の旧制度(アンシャン・レジーム)の終わりを知る世代であった。ピナゴが旧制度について聞いた話を想像するためには、教区の陳情書(1789年に貴族・聖職者・平民から成る三部会議員が国王に提出した嘆願・提案・諫言の書。フランス革命の基本資料とされる)があれば良かったが、残念ながらオリニ=ル=ビュタンの陳情書は残されていなかった。そこでコルバンは、県に保存された104冊の陳情書を分析し、旧制度の終わり頃にはまだ王が依然として畏われていたことや、森の外れで強い影響力を持っていた修道会への敵意などを見て取っている。こうした評価は、ピナゴの周囲の人々の評価ともある程度共通すると見て良いだろう。

また二度目の「ふくろう党の乱」でペルシュ部隊がオリニ=ル=ビュタン近辺に侵攻し、横暴を尽くしたこと、あるいは食料問題など貧困にまつわるトラブルの歴史は、当時まだ生まれて間もないピナゴにとっては自身の記憶以前の出来事だが、それらのエピソードは年長者たちによって繰り返し語られたに違いない。

いずれにせよ、ピナゴにとって過去の歴史とは、出来事の起きた順に語られる複合過去(パッセ・コンポぜ)ではなく、バラバラなエピソードの寄せ集め=解体された過去(パッセ・デコンポゼ)であったと思われる。

ピナゴの戦争体験(第8章 侵略)

第8章では、プロシア人による二度の侵略について書かれた回想録や書簡、日記などの資料をもとに、自分たちの暮らす土地が侵略を受けたことをピナゴがどのように捉えていたかが検討される。

1815年の最初の侵略について書かれた回想録や書簡などの資料のほとんどは、ピナゴのように森で働く貧しい人々の手によるものではなく、地方に身を落ち着けたブルジョワや避難してきた貴族によるものであった。だが例外もあり、例えば城館の留守番を任されていた使用人マラン・ルソーが主人に宛てた手紙には、家に押し入った侵略者に丁寧な態度を取ったにもかかわらず、酷い狼藉を受けた体験が書き記されており、ピナゴのような人間が見たかもしれないことや噂で聞いたかもしれないことを想像する手がかりになる。

また1870〜1871年の二度目の侵略に関する資料としては、当時19歳の若い貴族の娘マリ・ド・スマレの日記が紹介される。もちろんマリはピナゴとは大きく立場が異なるが、彼女の日記は思いがけない正確さで書かれており、目で見た多くの出来事や些細な物事、数多の噂話、音の風景までも膨大に残している点が注目に値する。コルバンは、こうした詳細な資料からも、ピナゴが知覚したかもしれないもの、感じたかもしれないものを想像することができるし、また彼の耳に入ったかもしれない会話や噂話の内容を推し量ることができるだろうと述べている。

ピナゴを襲った飢饉(第9章「貧しき者の大胆さ」)

第9章では、知事の報告書や手紙、村議会の討議記録などをもとにして、ピナゴが暮らす一帯を繰り返し襲った飢饉について論じられる。

深刻な穀物不足によって極貧者たちは飢え、徒党を組んで物乞いをする動きが広がっていった。彼らに対して自発的に慈善を施す者もいたが、貧者救済のための税金ができることを恐れて、慈善行為に対する調査には消極的であった。

組織だった福祉の取り組みも存在し、県内の小都市ではランフォード式スープと食べ物が配られたが、農村の住人はスープよりもパンを求め、配給に頼るよりも物乞いをすることを選んだという。やがて物乞いの集団は、脅迫や暴力に訴えるようになり、武装して近隣の自治体を駆け巡ることさえあった。当時のモルターニュ郡の福知事は「貧しき者らの大胆さ」を嘆いている(p.301)。

極貧家庭の一つに数えられていたピナゴの一家にとって、何度も猛威を振るった飢饉は過酷なものであっただろう。ピナゴの父親は小作兼運送業者であるから、自分たちが耕す土地の作物を食べることができ、親戚や近所に食物を頼ることはなかったと思われるが、当時の状況を考えると、収穫した穀物は十分に熟しきっておらず、厳しい生活であることには変わりなかっただろう。極貧の階層は常に飢え死にの危険と隣り合わせで、農村は暴力的な物乞いの集団が自分たちのところに来るのを恐れていた。

ピナゴの市民性(第10章 教区民、国民軍、選挙人)

第10章では、知事の報告書や議会の討議記録、選挙人名簿などをもとにして、ピナゴの政治信条や社会に関わろうとする意志といった市民性がいかなるものであったのかが検討される。

19世紀初頭、オリニ=ル=ビュタンの議会はすべてちょっとした名士から成っており、ほとんどが土地を持つ耕作者だった。森で働く者は基本的にその場から除外されていたが、ピナゴの義父ルイ・ポテは高額納税者であったため、ある種の決定や会合に参加することが許されていた。

当時のオリニ=ル=ビュタンの住民は、自らが「市民」であるというよりは「教区民」であるという意識が強かった。自分たちの土地の教会が廃用にされた際には執拗な反対運動を行い、その努力が実って取り戻した教会を維持するために多額の費用を払っている。彼らにとって教会は、学校建設や貧困から抜け出すことよりも優先して重視されるものであった。

オリニ=ル=ビュタンの教会(Google ストリートビュー、2023年6月撮影)

1830年には、7月王政という新制度によってピナゴは国民軍に加入させられる。その活動は、大隊の閲兵と3年に一度の選挙、宣誓の儀式、日曜の宴会、多少の訓練といったものだったが、それらの多くはかたちだけのもので、制服や武器さえ揃えられておらず、次第に廃れていった。

だが国民軍への加入は「市民性」の確立に大きな影響を及ぼすことになる。兵籍簿に登録することで国民軍を構成する人々のほとんどが選挙に参加する機会を得て、ピナゴもまた投票という新しい体験をすることになった。

オルヌ県の規模では、ピナゴ一家は1848年まで選挙権を得ることができなかった。識字能力のない木靴職人にはハードルが高かったのか、当初はピナゴも含め投票する者は少なかったが、次第に選挙の方法を習得し、投票に参加するようになる。1870年に行われた村議会の審議記録に含まれる請願書には、ピナゴの直筆であろう署名(十字のしるし)が残されている。

「知」へのアクセス可能性をめぐる研究

以上のようにコルバンは、自ら記録を残すことのなかった人物ピナゴについて知るために、いかなる周辺資料を用いればその不在の中心にアクセスできるかという問いに取り組んできた。コルバンは自らの方法論によって記述・再構成された世界への眼差しを主観的なカメラにたとえたが、別の表現をするならば、それはピナゴがいかなる「知」にアクセスできたかを明らかにする試みであるとも言えるだろう。

ピナゴはその時代、どのような場所や機会にアクセスすることができたのか。どのような物に触れ、使い、所有することができたのか。どのような人々と出会い、関わることができたのか。そしてそこで、どのような会話を交わし、どのような情報にアクセスすることができたのか。ピナゴという人物が実際に考えていたことや選択した行動を完全に復元することは叶わないが、彼が思考し得たことや行動し得たこと、その可能性と限界の枠組みをある程度画定することはできる。それは単線的な時間で進行する映画のカメラというよりも、FPS(ファーストパーソン・シューティングゲーム)のマップ制作やイベント制作に近い作業なのかもしれない。


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