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地方映画史研究のための方法論(22)初期映画・古典的映画研究④——ミリアム・ハンセン「ヴァナキュラー・モダニズム」としての古典的映画

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト


見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト

「見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」は2021年にスタートした。新聞記事や記録写真、当時を知る人へのインタビュー等をもとにして、鳥取市内にかつてあった映画館およびレンタル店を調査し、Claraさんによるイラストを通じた記憶の復元(イラストレーション・ドキュメンタリー)を試みている。2022年に第1弾の展覧会(鳥取市内編)、翌年に共同企画者の杵島和泉さんが加わって、第2弾の展覧会(米子・境港市内編)、米子市立図書館での巡回展「見る場所を見る2+——イラストで見る米子の映画館と鉄道の歴史」を開催した。今のところ三ヵ年計画で、2023年12月開催予定の第3弾展覧会(倉吉・郡部編)で東中西部のリサーチが一段落する予定。鳥取で自主上映活動を行う団体・個人にインタビューしたドキュメンタリー『映画愛の現在』三部作(2020)と併せて、多面的に「鳥取の地方映画史」を浮かび上がらせていけたらと考えている。

ここが発信地!娯楽の殿堂・世界館──ノンフィルム資料に残された、鳥取の老舗映画館の足跡

また2023年12月には、杵島和泉さんによるオリジナル企画として、鳥取の映画館・世界館の歴史を紹介する展覧会「ここが発信地!娯楽の殿堂・世界館──ノンフィルム資料に残された、鳥取の老舗映画館の足跡」が行われる。鳥取市歴史博物館 やまびこ館の所蔵資料をはじめとして、これまで公開される機会のなかった貴重な記録写真や印刷物などを紹介すると共に、川端通り世界館→南吉方世界館→シネマスポット フェイドイン→鳥取シネマと名称や場所を変えながら興行を続けてきた老舗映画館の複雑な歴史を解きほぐし、その実相を明らかにする取り組み。展覧会のメインビジュアルはイラストレーターの湖海すずさんが手がけており、「見る場所を見る」で構築した方法論「イラストレーション・ドキュメンタリー」の新たな展開を作り出してくれてもいる。

イラスト:湖海すず

地方映画史研究のための方法論

調査・研究に協力してくれる学生たちに、地方映画史を考える上で押さえておくべき理論や方法論を共有しておきたいと考え、この原稿(地方映画史研究のための方法論)を書き始めた。杵島さんと行なっている研究会・読書会でレジュメをまとめ、それに加筆修正や微調整を加えて、このnoteに掲載している。これまでの記事は以下の通り。

メディアの考古学
(01)ミシェル・フーコーの考古学的方法
(02)ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』
(03)エルキ・フータモのメディア考古学
(04)ジェフリー・バッチェンのヴァナキュラー写真論

観客の発見
(05)クリスチャン・メッツの精神分析的映画理論
(06)ローラ・マルヴィのフェミニスト映画理論
(07)ベル・フックスの「対抗的まなざし」

装置理論と映画館
(08)ルイ・アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」
(09)ジガ・ヴェルトフ集団『イタリアにおける闘争』
(10)ジャン=ルイ・ボードリーの装置理論
(11)ミシェル・フーコーの生権力論と自己の技法

「普通」の研究
(12)アラン・コルバン『記録を残さなかった男の歴史』
(13)ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』

都市論と映画
(14)W・ベンヤミン『写真小史』『複製技術時代における芸術作品』
(15)W・ベンヤミン『パサージュ論』
(16)アン・フリードバーグ『ウィンドウ・ショッピング』
(17)吉見俊哉の上演論的アプローチ
(18)若林幹夫の「社会の地形/社会の地層」論

初期映画・古典的映画研究
(19)チャールズ・マッサーの「スクリーン・プラクティス」論
(20)トム・ガニング「アトラクションの映画」
(21) デヴィッド・ボードウェル「古典的ハリウッド映画」

ミリアム・ハンセンと映画観客論

ミリアム・ブラトゥ・ハンセン(1949-)

ミリアム・ブラトゥ・ハンセン(Miriam Bratu Hansen)は1949年生まれの映画史研究者。フランクフルト大学でアメリカ文学を専攻し、アメリカのモダニズム文学(エズラ・パウンド)についての論文で博士号を取得した。1977年に渡米し、イェール大学とラトガース大学で教鞭をとった後、1990年にシカゴ大学の英文科教授に着任。映画メディア研究科の創設に携わり、映画経験とモダニティ(近代性)を巡る研究を主軸として、様々な領域を横断した執筆活動を行う。2011年2月に61歳で逝去。

単著に『バベル&バビロン──アメリカ無声映画における観客 Babel and Babylon: Spectatorship in American Silent Film』(1991年)、『映画と経験──クラカウアー、ベンヤミン、アドルノ Cinema and Experience: Siegfried Kracauer, Walter Benjamin, and Theodor W. Adorno』(法政大学出版局、竹峰義和・滝浪佑紀 訳、2017年、原著2011年)、主な論考に「初期映画/公共映画──公共性のトランスフォーメーション」(瓜生吉則・北田暁大 訳、『メディア・スタディーズ』、吉見俊哉 編、せりか書房、2000年、原著1993年)、「感覚の大量生産──ヴァナキュラー・モダニズムとしての古典的映画」(滝浪佑紀 訳、『SITE ZERO/ZERO SITE』No.3、メディア・デザイン研究所、2010年、原著1999年)など。

『バベル&バビロン』──初期映画の「観客」論

ミリアム・ハンセンが最初に刊行した単著『バベル&バビロン──アメリカ無声映画における観客』(未邦訳、1991年)は、1980年代以降に隆盛した初期映画研究の重要な成果の一つであると共に、映画観客論を語る上でも欠かせない著作である。

第一部「バベルの塔の再建──観客性の発生」では、19世紀後半から1910年代半ばまでの、ハリウッドの古典的映画の形式およびスタイルが確立する以前の「観客性Spectatorship」が論じられる。

この時期の常設映画館ニッケルオデオン(5セント店頭劇場)では、ヴォードヴィル劇場のスタイルが踏襲され、笑劇や実写映画、スライドつき歌唱、トリック映画などが脈絡なく上映されていた(トム・ガニングが提唱する「アトラクションの映画」)。そこに集う観客の中心は、当時アメリカに大量に流入していた貧しい移民労働者たちで、多種多様な民族集団が、劇場の立地や上映作品のプログラム、ジャンルなどに応じて異なる観客集団を形成してヴォードヴィルや遊園地よりも安価な映画という娯楽を楽しんでいた。

また1910年頃には、映画館は成人男性だけでなく、女性や未成年も享受できる娯楽になっていた。ニッケルオディオンの前身と言えるヴォードヴィル劇場は新しい観客層の取り込みに貪欲で、演目を上品なものに変えたり、素行の悪い観客を排除することで、これまで劇場に入りづらかった人びとにも門戸を開く。結果、1910年の時点でニッケルオデオンの労働者階級観客のうち40%が女性で占められ、1911年の統計では観客の3分の1が未成年であるとの調査結果が出るほど、映画館は多種多様な民族やジェンダー、階層の観客が集う場となっていたのである。

(左)貸店舗を利用した典型的なニッケルオデオンの外観
(右)小規模経営のニッケルオデオンの平面図
(加藤幹郎『映画館と観客の文化史』中公新書、2006年、p.68、p.70)

当時の映画館は、興行形態も劇場毎に千差万別で、観客層に合わせるかたちでプログラムを組み、作品を供給していた。例えば1910年代から20年代にかけて、アフリカ系アメリカ人向けの興行を行なっていたシカゴの映画館では、フィルム上映だけでなく南部の黒人によるパフォーマンスを行っており、映画に合わせた生演奏もジャズやブルースに触発されたものだったという(「初期映画/公共映画──公共性のトランスフォーメーション」(瓜生吉則・北田暁大 訳、『メディア・スタディーズ』、吉見俊哉 編、せりか書房、2000年、p.292)。この頃に上映されたフィルムはほとんどが白人によって製作されたものであったが、その意味内容は黒人のパフォーマンスや黒人観客の反応によって破砕され、皮肉を投げかけられ、作り手の予測や期待を裏切る、オルタナティヴな受容が為されていたのだ。

だがその後、古典的な物語映画の普及と並行して、より多くの観客を動員するために映画館の大型化や高級化が進み、ピクチュア・パレス(映画宮殿)と呼ばれる巨大常設映画館も登場。ニッケルオデオンは次第に廃れて行った。そうして、興行者が観客層に合わせて作品を供給するのではなく、観客側がその作品の想定する観客像に同一化することによって映画を鑑賞するという、新たな「観客性」の体制が構築されていく。民族やジェンダー、階級など様々な要素によって複雑に分化していた観客集団が、消費者という社会的なアイデンティティを持った顧客へと一元化され、「普遍言語(ユニヴァーサル・ランゲージ)としての映画」という理念の実現へ向けて進んでいくのである。

ピクチュア・パレス
1929年にサンフランシスコに開館したフォックス・シアター
(加藤幹郎『映画館と観客の文化史』中公新書、2006年、p. 102)

在米日系移民の映画受容──板倉史明『映画と移民』(2016)

ここで、当時のアメリカのニッケルオデオンを巡る状況を、別の角度からも確認しておこう。映画史研究者の板倉史明は『映画と移民──在米日系移民の映画受容とアイデンティティ』(新曜社、2016年)において、ハンセンの映画観客論を参照しつつ、1910年代頃のカリフォルニア州において、日系移民たちが映画(館)とどのように関わっていたかを論じている。

板倉によれば、アメリカ西海岸の日系コミュニティにおいて、日本映画の興行が行われるのは1911年頃からであるが、それに先駆けて、1900年代後半には、多くの日本人移民がビジネスとして映画館(ニッケルオデオン)経営に従事していた。日本人移民が初めて経営した映画館は、ロサンゼルスのリトル・トーキョーに1904年に開館した「萬国座International Theatre」で、当時の観客層は日本人移民に限らず、「白人」や「メキシカンなど」の観客も多かったという。このことは、ハンセンが論じたニッケルオデオン期(プレ古典映画期)の映画館の状況と見事に一致していると言えるだろう。

当時の映画館は、多様な文化的・社会的・政治的背景を持つ民族集団(エスニック・グループ)が集う場所であった。それゆえ、日本人移民の経営者は、比較的容易に日系コミュニティ外の金銭を獲得することができ、自らのコミュニティの経済的繁栄を築き上げた。こうした映画館の経済的機能は他のエスニック・コミュニティにも見られ、例えば中国系の映画経営者がチャイナタウンの「ブロクリン座」に日本人観客を呼び寄せるため、日系新聞の取材に答えて「特に日本人を歓迎する」と述べた記事が残っているという。

また別の日系新聞に掲載された短歌には、日系移民の男性が日本で話題になったフランス映画『ジゴマ』(1911)を見ながら故郷を想うと共に、同じ劇場内で映画を見ているイタリア系移民に気づき、自らが二重に「異国」に居ることを意識した体験が詠まれている。 

南欧の移民の群れの荒くれ男
ニッケルショウにヂゴマ見し夜よ

(在ポートランド市 播磨桜城)

板倉史明『映画と移民──在米日系移民の映画受容とアイデンティティ』新曜社、2016年

オルタナティヴな公共圏

ハンセンは、20世紀の映画が均質化・制度化・一元化した「観客性」の体制を構築していく一方で、それと同時に、映画が「オルタナティヴな公共圏」としても機能することを指摘している。

そもそも「公共圏 Öffentlichkeit/Public Sphere」という概念を議論の俎上に乗せたのは、哲学者のユルゲン・ハーバマスであった。ハーバマスは『公共性の構造転換』(1962)において、「公共圏」を公的な領域と私的な領域の間に介在して、両者を結びつける働きをする空間であり、また言説や表象を介したコミュニケーションによって政治や社会に影響を与えることができる主体的・相互的な空間として論じている。

だがドイツの映画監督アレクサンダー・クルーゲは、ハーバマスが公共圏概念のモデルとした18世紀の市民社会においては、公共圏から女性や労働者が締め出されてきたことを指摘。ハーバマス的な「市民的公共性=ブルジョワ公共圏」の理念を批判すると共に、人びとを現代の資本主義の論理に一方的に組み込む「生産の公共圏」に抵抗するために、「プロレタリア公共圏」を提唱した。従来の公共圏が私的領域と見做し排除してきたものも、十分に公共性を持つと捉えられるような、新たな公共圏を構想したのである。

ハンセンはこのプロレタリア公共圏を「オルタナティヴな公共圏」と言い換え、映画観客論に適用する。シカゴの映画館の黒人観客が、白人が製作したフィルムを読み替えて受容したように、スクリーン上に映るものを自分自身の経験や願望、文脈と結びつけることで、日常生活の中で課されてきた役割や制限から解放され、主体性や経験の再構築が可能になる。ニッケルオデオンからピクチュア・パレスへの移行に伴う「観客性」の変容は、映画が、一面では多様な観客のありようを一元化することで「生産の公共圏」もしくは「ブルジョワ公共圏」に取り込もうとするものであるが、もう一方では、これまで娯楽の場を与えられてこなかった女性や子どもが参入することのできる「オルタナティヴな公共圏」を為すものでもあるという、両義性を備えていることを示している。このように、映画経験の両義性を精緻に読み解いていくことは、ハンセンのその後の著作においても重要な課題であり続けるだろう。

ヴァナキュラー・モダニズムとしての古典的映画

「感覚の大量生産──ヴァナキュラー・モダニズムとしての古典的映画」(1999)

ハンセンは「感覚の大量生産──ヴァナキュラー・モダニズムとしての古典的映画」(『SITE ZERO/ZERO SITE』No.3、メディア・デザイン研究所、2010年、原著1999年)において、「ヴァナキュラー・モダニズム Vernacular Modernism」という観点から、1920年代(1910年代終盤)から1950年代頃までに製作された古典的なアメリカ映画モダニズムの関連性について論じている。

手短にまとめるなら、「ヴァナキュラー・モダニズム」としての古典的映画とは、古典的アメリカ映画を、時代や地域を超える普遍性を持ったものと見做すのでもなければ、単にローカルなもの──他国のナショナルシネマと同等・同列のもの──と見做すのでもなく、他の芸術やメディアに先駆けて、世界で初めてグローバルな広がりを持つに至った「現地語(ヴァナキュラー)」のようなものとして捉えることを意味する。

モダニズム(Modernism)

ここでは、ヴァナキュラー・モダニズムとはいかなる概念なのかを確認する前に、そもそも「モダニズム Modernism」(近代主義)とは何かをおさらいしてから、先に進むことにしよう。

芸術や文化研究の領域でモダニズムが論じられるとき、それは「高級文化」や「高級芸術ハイ・アート)」と呼ばれるような領域における芸術家や流派の表現、美的スタイルの問題として把握されることが多い。一例を挙げれば、美術史におけるモダニズムについての議論は、アメリカの批評家クレメント・グリーンバーグによって主導された。グリーンバーグは、モダニズムの本質は「自己批判性」にあるとして、常に従来の芸術のありようの批判と革新を目指す前衛芸術を称揚した。絵画の領域においては、作品の主題や物語など非本質的な要素を削ぎ落としていく自己純化の果てに、絵画というメディウムに固有の要素として「平面性」が発見されるのだと主張。マネ、セザンヌ、ピカソ、ブラック、そしてアメリカの抽象表現主義へと続く、連続的な歴史の流れを描き出した。

だがロザリンド・クラウスを初めとする「ポストモダニズム Post-Modernism」の理論家・批評家たちは、グリーンバーグ的な本質主義や単線的な歴史観を批判。モダニズムの美学を一つのスタイルに還元することはできないのであり、社会的・地理的・文化的・その他の条件によって様々に異なる「複数のモダニズム」があることが論じられてきた(詳しくは、「地方映画史研究のための方法論」の第4回「ジェフリー・バッチェンのヴァナキュラー写真論」の前半も参照)。

またハンセンは、モダニズムは特定の芸術分野内での変化に留まるものではなく、より大きな時代や社会の変化の中に位置づけられると言う。ヴァルター・ベンヤミンが論じたように、都市化や工業化(産業化)、機械化といった社会の変化は、人びとの生や生活にかつてないショック体験をもたらし、そこから新たな視覚や知覚のモード、人間と物との新たな関係性が生まれてきた。モダニズムの美学についての研究も、そうした「モダニティ Modernity」(近代性)の経験を抜きにしては語れないのだとハンセンは言う。

ヴァナキュラー・モダニズム(Vernacular Modernism)

以上のような認識のもとで、ハンセンが提唱したのが「ヴァナキュラー・モダニズム Vernacular Modernism」である。「ヴァナキュラー vernacular」という語は「その土地に固有の」「土着の」「自国語の」「日常の話し言葉で書かれた」といった意味で用いられるので、ヴァナキュラー・モダニズムを直訳すれば「土着のモダニズム」「日常のモダニズム」となるだろう(竹峰義和「ミリアム・ハンセン──映画経験とモダニティ」『映画論の冒険者たち』東京大学出版会、2021年、p.203)。加えてハンセンは、ヴァナキュラーには「流通、乱交性(プロミシキュリティ)、翻訳可能性」といった意味も含まれると述べている。

以上のような意味を含意するヴァナキュラーという語を用いることで、ハンセンは、高級芸術(ハイ・アート)における流派や美的スタイルとしてのモダニズムではなく、「例えばファッション、デザイン、広告、建築、都市環境、あるいは写真、ラジオ、映画といった大量生産、大量消費される現象」(p.208)、あるいは「大衆芸術(ロウ・アート)」(ポピュラー芸術)と呼ばれるような、日常的な消費生活や大衆メディアにおける文化的実践も研究対象に加えた上で、①近代という時代における視覚や知覚のモードの──特定の分野に限定されない──大規模な変容と、②社会的・地理的・文化的・その他の条件によって様々に異なる複数のモダニズムのありようを、共に論じようとする

感覚の大量生産」において、ハンセンが20世紀前半のヴァナキュラー・モダニズムを構成する重要な要素の一つとして挙げるのが「映画」である。より具体的には、1920年代から50年代頃に製作されたアメリカの「古典的映画Classical Cinema」(この語は映画学において、スタジオ時代における物語映画の支配的形式を分析するための術語として用いられてきた)が、いかなる理由で──またいかなる方法で──トランスナショナルでグローバルな流通を獲得し、世界的なヘゲモニーを握ったかが検討される。

古典的ハリウッド映画の批判的検討

ハンセンは、デヴィッド・ボードウェルとクリスティン・トンプソン、ジャネット・スタイガーが古典的映画をフォーマリズムや認知心理学の立場から精緻に分析することによって導き出した「古典的ハリウッド映画 Classical Hollywood Cinema」という概念の重要性を認めつつも、そこでは古典的映画の「歴史性」──特に、20世紀のモダニズムやモダン文化と映画との間にあるはずの同時代的な関係性──が見過ごされていると批判する。

ボードウェルらは、古典的ハリウッド映画が長期にわたり安定した影響力を持ってきたことを根拠として、それを「古典的」と名づけている。「古典」という言葉には、分析対象とした作品群の製作時期を超えた超歴史的な普遍性や無時間性が含意されているだろう。18世紀半ばに古代ギリシャ・ローマの芸術文化の復興を掲げた新古典主義が、伝統を顧みながらも、それを「自然」から引き出された美や均整といった超-歴史的理念へと読み替えたのと同様に、ボードウェルもまた、認知心理学を導入して生物学的に古典的映画の経験を基礎づけようとしたことで、歴史性を軽視した普遍主義に陥っている。

だが本来、「古典的」であることと「現代的(モダン)」であることは、相反するのではないだろうか。ハリウッド映画は──それがもっとも「古典的」であるとされた時期でさえ──常に現代性や同時代性の象徴であり、モダン文化の形象であったとハンセンは言う。モダニズムあるいはモダニティの特徴は、自己反省や自己破壊を繰り返して絶え間なく変化し続けることにあるのだから、当然、ハリウッド映画だって「まったくもって秩序正しくなく、調和が取れておらず、伝統的でなく、落ち着いていない」(p.214)。『フリークス』(トッド・ブラウニング、1932)であれ『ゴールド・ディガーズ』(マーヴィン・ルロイ、バスビー・バークレー、1933)であれ、『キッスで殺せ!』(ロバート・アルドリッチ、1955)であれ、「古典的ハリウッド映画」という概念は──それらの作品がみな共通する規範に従っているとしか言えないのであれば、たとえそれが正しい説明であったとしても──ハリウッド映画の多種多様な魅力を説明するためには何の助けにもならないし、時代毎の変化や地域毎の差異を明らかにすることもできないのである。

トッド・ブラウニング『フリークス』(1932)

マーヴィン・ルロイ、バスビー・バークレー
ゴールド・ディガーズ』(1933)

ロバート・アルドリッチ『キッスで殺せ!』(1955)

主流(メインストリーム)映画とナショナルシネマの検討

では私たちは、いかにして20世紀前半のアメリカ映画(便宜的に「古典的アメリカ映画」と呼ぶ)が「古典的」であると同時に「現代的(モダン)」であることを説明し、またいかにして古典的ハリウッド映画という概念が見過ごしてしまった歴史性や地域性を取り戻すことができるだろうか。

論者によっては、「古典的映画」という名称を捨て去り、より中立的な術語として「主流(メインストリーム)映画」を用いるべきだとの声もある。だがハンセンは、「主流」という語は必ずしも「古典」より中立的であるとも無害であるとも言えないと反論する。「主流」という言葉は、主流かそれ以外かという二項対立的な構造を持ち込むことによって、様々な種類があるはずの支流や逆流を同質化し、主流を補完する制度の一部へと組み込んでしまうからだ。

ならば、古典的アメリカ映画の特殊な地域性を強調するために「アメリカのナショナル・シネマ」という枠組みで考えるのはどうだろうか。「ナショナル・シネマ National Cinema」とは、「特定の国を母体として、あるいは特定の国民の手によって産み落とされた映画」を意味する(奥村賢「ナショナル・シネマ」『世界映画大辞典』日本図書センター、2008年、p.618)。この語であれば、ハリウッド映画のみならず、その外部で行われたインディペンデントな実践──民族映画やアンダーグラウンドシネマ、前衛(アヴァンギャルド)映画など──も含めて、多様なアメリカの映画を取りこぼすことなく検討することができるだろう。

だがこうした戦略は、アメリカ映画を考える上では有効かもしれないが、グローバルな規模で「ハリウッド」が担ってきた役割の複雑さを検討するのには適していないとハンセンは言う。「ナショナル・シネマ」は多くの場合、ハリウッド映画に対する競争や抵抗といった防御的形態を記述するために用いられる言葉である以上、「アメリカのナショナル・シネマ」を他のナショナル・シネマと同列・同等なものと見做せば、各国の映画に対してアメリカ映画が与えた歴史的な影響(インパクト)を取り逃がしてしまうことになるのだ。

ヴァナキュラー・モダニズムとしての古典的映画

ここまで確認してきたことをまとめると、古典的アメリカ映画を論じるためには、①「古典的ハリウッド映画」概念のように超歴史的・普遍的・無時間的な物語映画の形態と見做すのでもなければ、②他のナショナル・シネマと同等・同列なものと見做すのでもない仕方で、それを捉える見方を考案しなければならないということになる。

そこでハンセンが導入するのが、冒頭で紹介した「ヴァナキュラー・モダニズム」である。すなわち、古典的アメリカ映画を、本来はアメリカという地域に固有なもの・土着的なものであるにもかかわらず、グローバルに受容されることになった文化様式として捉えること。フォーディズムや大量消費文化といった語のもとに語られる「アメリカニズム Americanism」(アメリカ的精神)が世界中に伝播していく流れの中で、古典的アメリカ映画は、他の大衆メディアに先駆けて「最初のグローバルな現地語(ヴァナキュラー)のようなもの」(p.222)となった。それは民族的にも文化的にも異種混淆の社会からマス・マーケットを作り出すことで、大量消費の約束と大衆文化の夢を提供し、競争相手であるナショナル・シネマをはるかに凌ぐ越境性を持つことができたのだ。

ただしこのことを、古典的アメリカ映画があらかじめ超時代的な普遍性を備えていたのだと解釈してはならない。そうではなく、古典的映画モダニティの間に、「再帰的(反映的)(リフレクシヴ)関係」があったことが何より重要なのだとハンセンは主張する。映画は、工業化や機械化、効率化や合理化といった大規模な社会の変化の一部であると同時に、そうした資本主義的モダニティの経験を(映画として)再現・表象することで、危機の感覚やトラウマ的体験を反射=反省(リフレクト)し、それに対する不安やショックを和らげたり、否認したり、理解可能なものに変換することを可能にしてくれる。だからこそ映画は、モダニティの経験に直面した世界中の人々に受け入れられ、また求められたのだ。

オルタナティヴな公共圏としての映画

ハンセンは、映画がモダニティに対して持つ再帰的関係を理論化しようとした先駆的な人物として、ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)とジークフリート・クラカウアー(1889-1966)の名を挙げている。クラウカウアーはアメリカ映画の中でも特に「スラップスティック・コメディ Slapstick Comedy」(どたばた喜劇)と呼ばれるジャンルを評価し、例えば『電気屋敷』(バスター・キートン、エドワード・F・クライン、1922)や『サーカス』(チャールズ・チャップリン、1928)などのフィルムに、工業化・機械化した近代の生活との再起的関係を読み取っている。

スラプスティック映画によって、アメリカ人は彼らの現実を相殺することを可能にするような形式を作り出した。もし現実において、彼らは世界を、しばしば耐えられないような規律のもとに従属させるとするならば、映画は逆にこの自らに課せられた秩序をきわめて力強く解体する。

クラカウアー『フランクフルト新聞Frankfurter Zeitung』1926年1月29日付
「感覚の大量生産」より引用、滝浪佑紀 訳、p.226

バスター・キートン、エドワード・F・クライン『電気屋敷』(1922)4え

チャールズ・チャップリン『サーカス』(1928)

 ハンセンは、クラカウアーが映画を「オルタナティヴな公共圏」として理解していたと言う。映画は「機械化のプロセスを受けた大衆の自己表象」(p.226)──すなわち、従来の支配的なブルジョワ文化からは無視され、見下され、公共圏から排除されてきた「大衆公衆 mass public」を惹きつけると共に、彼/彼女らの存在を社会に可視化すること、さらには彼/彼女ら自身の手で自らを表象することの可能性を示したのだ。

この新しいメディウムは近代の矛盾を、感覚の水準で、すなわち人間の経験に対する近代技術の影響がもっとも直に感じられ、それがもはや撤回できない、そうした水準で交戦させることによって、オルタナティヴを提供したのだった。言葉を換えて言えば、映画は感覚の大量生産のうちで取引されたばかりでなく、産業大衆社会の経験のための美学的地平を差し出したのである。

ミリアム・ハンセン「感覚の大量生産」、滝浪佑紀 訳、p.226

地域毎に異なる受容のプロセス

古典的アメリカ映画は、あらゆる場所で一律に受容されたわけではない。それぞれの国や地域の発展の度合い、特有な分脈と条件に応じて、違ったかたちで受容・消費されてきた。また、その地域の状況や要請に応じて、映画の側が変化を求められることもある。配給会社や興行主による字幕や吹替版の制作、マーケティング、上映作品のプログラム選定といった実践に加え、国家による検閲による修正や改変が行われることもあった。

ハリウッド映画が世界中の市場を征服しようとする目論み自体はシステマティックに為されたが、実際の映画の受容は、その地域ごとの固有の要素や偶然の要素に強く影響され、折衷的なプロセスのもとに進んで行った。従って、古典的アメリカ映画の歴史を書くことは、標準化とヘゲモニーのメカニズムだけでなく、古典的映画が各地域の文脈に翻訳され、変型された、多様なありかたを追うことでもあるだろう。

ここでもハンセンは、古典的アメリカ映画の両義性を強調している。古典的アメリカ映画は元々あった土着の文化を更地にしてしまうほどの衝撃(インパクト)をもたらすが、そればかりでなく、当該の社会に残る性的不平等や人種・民族的不平等といった問題に挑戦することで、新たな社会的アイデンティティや文化的スタイルを生み出す契機ともなる。「ヴァナキュラー・モダニズム」として古典的映画を論じることの主眼は、そのような、映画の破壊的で解放的な力とその可能性を見極めることにあるのだ。

ロシアにおけるヴァナキュラー・モダニズム

ハンセンの問題提起を受けて、様々な地域や時代における「ヴァナキュラー・モダニズム」を具体的に掘り下げていく研究が行われているが、ここでは、ハンセン自身が「感覚の大量生産」で紹介しているロシアの例を見てみよう。

1917年のロシア革命以前、帝政期のロシア(ツァーリ時代とも呼ばれる。ロシアのツァーリ=皇帝による専制政治と、それを支える社会体制を指す)を象徴する映画監督として、ハンセンはエフゲニー・バウエル(1867-1917)の名を挙げる。バウエルは長回しを多用し、「絵画的」とも呼ばれる精密な画面上の演出を得意としていた。例えば『死後』(1915)の冒頭近くでは、3分間のトラッキングショット(移動撮影)が行われている。カメラの移動によって空間を広げながら、構図を変えたり、見るべき対象を指し示したりするなど、複数のカットをつなぐのとは異なる仕方で物語や登場人物の心理が語られるのである。

エフゲニー・バウエル『死後』(1915)

だがバウエルの死後、ロシア映画は比較的短い期間のうちに、パウエル的な洗練された空間演出に基づく編集から、ソヴィエト・モンタージュの美学に取って代わられることになった。そしてこの移行はかなりの程度、ハリウッドに影響されたものだったとハンセンは言う。

1915年の時点で、アメリカ映画はすでにロシアの映画館を席捲し始めており、ロシアの映画作家たちも、次第にコンティニュイティ編集や空間・時間の首尾一貫性、物語の因果関係の重視といった、古典的ハリウッド映画の規範に影響されるようになる。その代表例としては、レフ・クレショフのデビュー作『プライト技師の計画』(1918)を挙げることができるが、それ以前から他の映画監督にも同様の傾向が認められる。「大げさに言えば、アメリカ化のプロセスを通過することによって、ロシア映画はソヴィエト映画になったということもできるだろう」(p.209)。(とは言えもちろん、ソヴィエト・モンタージュの美学はハリウッドの影響だけで生まれたのではない。それは、ロシア構成主義やシュプレマティズム、未来派など、様々な前衛芸術運動を抜きにして語ることはできないものである)。

レフ・クレショフ『プライト技師の計画』(1918)

ユーリ・ツヴィアンは、ソヴィエト映画に影響を与えたアメリカニズムを二つに分類している。一つは、上述した「古典的ハリウッド映画」的な形式およびスタイルの借用であり、もう一つは、ハリウッドの冒険連続ものや探偵スリラー、スラップスティック・コメディなど、「より低俗なジャンル」(p.210)からの影響である。興味深いことに、こうした低俗なジャンルに熱狂したのはロシアの知的階級であった。エイゼンシュテインを初めとする映画作家たちは、それらのフィルムのアトラクション性に魅了されると共に、それら「低俗なジャンル」への嗜好を高級芸術(ハイ・アート)に結びつけ、自然主義的な西洋の理念を攻撃するためのアヴァンギャルドの攻撃の文脈に位置づけ直したのである。付言しておくなら、こうしたポピュラー文化を利用した制度批判は、ダダやシュルレアリスムなど西ヨーロッパの前衛芸術運動にも認められるだろう。

 





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