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地方映画史研究のための方法論(26)抵抗の技法と日常的実践④——エラ・ショハット、ロバート・スタムによる多文化的な観客性の理論

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト


見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト

「見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」は2021年にスタートした。新聞記事や記録写真、当時を知る人へのインタビュー等をもとにして、鳥取市内にかつてあった映画館およびレンタル店を調査し、Claraさんによるイラストを通じた記憶の復元(イラストレーション・ドキュメンタリー)を試みている。2022年に第1弾の展覧会(鳥取市内編)、翌年に共同企画者の杵島和泉さんが加わって、第2弾の展覧会(米子・境港市内編)、米子市立図書館での巡回展「見る場所を見る2+——イラストで見る米子の映画館と鉄道の歴史」、「見る場所を見る3——アーティストによる鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」を開催した。

地方映画史研究のための方法論

調査・研究に協力してくれる学生たちに、地方映画史を考える上で押さえておくべき理論や方法論を共有しておきたいと考え、この原稿(地方映画史研究のための方法論)を書き始めた。杵島さんと行なっている研究会・読書会でレジュメをまとめ、それに加筆修正や微調整を加えて、このnoteに掲載している。これまでの記事は以下の通り。

メディアの考古学
(01)ミシェル・フーコーの考古学的方法
(02)ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』
(03)エルキ・フータモのメディア考古学
(04)ジェフリー・バッチェンのヴァナキュラー写真論

観客の発見
(05)クリスチャン・メッツの精神分析的映画理論
(06)ローラ・マルヴィのフェミニスト映画理論
(07)ベル・フックスの「対抗的まなざし」

装置理論と映画館
(08)ルイ・アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」
(09)ジガ・ヴェルトフ集団『イタリアにおける闘争』
(10)ジャン=ルイ・ボードリーの装置理論
(11)ミシェル・フーコーの生権力論と自己の技法

「普通」の研究
(12)アラン・コルバン『記録を残さなかった男の歴史』
(13)ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』

都市論と映画
(14)W・ベンヤミン『写真小史』『複製技術時代における芸術作品』
(15)W・ベンヤミン『パサージュ論』
(16)アン・フリードバーグ『ウィンドウ・ショッピング』
(17)吉見俊哉の上演論的アプローチ
(18)若林幹夫の「社会の地形/社会の地層」論

初期映画・古典的映画研究
(19)チャールズ・マッサーの「スクリーン・プラクティス」論
(20)トム・ガニング「アトラクションの映画」
(21) デヴィッド・ボードウェル「古典的ハリウッド映画」
(22)M・ハンセン「ヴァナキュラー・モダニズム」としての古典的映画

抵抗の技法と日常的実践
(23)ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』と状況の構築
(24)ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』
(25)スチュアート・ホール「エンコーディング/デコーディング」

エラ・ショハット、ロバート・スタム

エラ・ショハット(1959-)

エラ・ショハット(Ella Shohat)は1959年生まれの文化研究者。中東のメディア研究・映画研究を専門とし、ニューヨーク市立大学とニューヨーク大学で教授として教鞭をとる。イラク出身のアラブ系ユダヤ人で、幼少期にイスラエルに移住したが、ヨーロッパ出自のユダヤ人の支配的文化の中で抑圧を感じながら日々を過ごしたという。その後、アメリカに渡り学業を修め、そのまま同地で研究者となった。主として、アラブ系ユダヤ人文化や、イスラエル/パレスチナ文化に関する研究を多く行っている。

主な著書に『イスラエル映画——東西と映画表象の政治学 Israeli Cinema: East/West and the Politics of Representation』(テキサス大学出版局、1989年)、『Taboo Memories, Diasporic Voices』 (デューク大学出版会、2006年)など。『新映画理論集成① 歴史/人種/ジェンダー』(岩本憲児、武田潔、斎藤綾子編、フィルムアート社、1998年)に収録されている「関係性としての民族性——アメリカ映画のマルチカルチュラル的な読解に向けて」(とちぎあきら訳)は、今回紹介する『支配と抵抗の映像文化——西洋中心主義と他者を考える Unthinking Eurocentrism: Multi- culturalism and the Media』(ロバート・スタムとの共著、法政大学出版局、2019年、原著1994年)の第6章の元になった論考の一部である。

ロバート・スタム(1941-)

ロバート・スタム(Robert Stam)はアメリカ・ニュージャージー生まれの映画研究者。アメリカ・フランス・ポルトガルを対象地域とした比較文学研究や、中南米の文学や映画、特にブラジル映画を専門とした研究を行っている。主な著作に『転倒させる快楽——バフチン、文化批評、映画 Subversive Pleasures: Bakhtin, Cultural Criticism and Film』(浅野敏夫訳、法政大学出版局、2002年、原著1989年)、『映画記号論入門 New Vocabularies in Film Semiotics: Structuralism, Post-Structuralism and Beyond』(ロバート・バーゴイン、サンディ・フリッタマン=ルイスとの共著、松柏社、2006年、原著1992年)、「映画表現における植民地主義と人種差別 序説」(ルイス・スペンスとの共著、奥村賢 訳、『新映画理論集成① 歴史/人種/ジェンダー』所収、原著1983年)などがある。

『支配と抵抗の映像文化——西洋中心主義と他者を考える』(1994)

今回は、ショハットとスタムの共著『支配と抵抗の映像文化——西洋中心主義と他者を考える』の第9章「ポストモダン時代における多文化主義のポリティクス」を要約・紹介する。西洋中心主義および植民地主義を批判し、多文化主義・多中心主義的な映画研究およびカルチュラル・スタディーズの必要性を論じる本書の中でも、この章はポストモダン時代における多文化的な「観客性 Spectatorship」の理論化が試みられており、観客論や映画館研究、地方映画史研究にも特に関わりが深いと言えるだろう。

ポストモダン時代における多文化主義のポリティクス

「革命」から「抵抗」へ

1980年代以降、「革命」や「解放」といったユートピア的で大きな物語は力を失い、代わりに「抵抗」のような局地的で脱中心的な闘いに焦点が当てられるようになった。またそれに伴い、「階級」や「民族」といった言葉も特権的な地位から陥落し、代わりに「人種」や「ジェンダー」「セクシュアリティ」といった語が台頭している。

また現代の政治や文化を論じるためには、「ポストモダニズム」と呼ばれる現象を考慮しなければならない。ポストモダニズムとは、資本主義の新たな段階であり、市場文化が世界的に遍在し、文化と情報が闘いの重要な領域となるような状況を意味している。ポストモダンの時代においては、「革命」を掲げる共産主義や国際主義(マルクス主義に基づいて各国の労働者階級が国際的に連帯することを求める政治思想)はすでに下火になっており、資本主義社会に生きる人びとはデモに参加するよりもテレビのドラマやスポーツ番組を見ることに強い関心を示す。また「革命」に代わる「抵抗」も、そうした、「ポピュラー・カルチャー popular culture」と混ざり合うかたちで行われるのだ。

ポピュラー・カルチャーとは何か

ではポピュラー・カルチャーを通じた「抵抗」の戦略には、どれほどの有効性や可能性があるだろうか。この問いに答えるために、さしあたり、ショハット=スタムは、ポピュラー・カルチャーという語には対照的な2つのニュアンスが含まれていることを指摘する。

第一に、マルクス主義や第三世界主義の言説、カルチュラル・スタディーズの言説において、ポピュラー・カルチャーは「民衆(ピープル)」の文化、あるいは「大衆に指示された(ポピュラー)」文化を意味し、反乱のエネルギーや、社会変容に向けて人びとを鼓舞するようなニュアンスが含まれている。

他方、ポピュラー・カルチャーとよく似た語に「マスカルチャー mass culture」あるいは「大衆文化」があるが、こちらには、大量消費社会に一部品として組み込まれた受動的な人びとといったニュアンスや、またその過程で他の人びとから切り離され、個々人が孤立した状態にあるようなニュアンスが含まれているだろう。

ポピュラー・カルチャーとは、民衆が自分たちのために能動的に生産する文化なのか、それとも、大衆が受動的に消費する文化に過ぎないのだろうか。ショハット=スタムはこうした二者択一の思考を批判した上で、ポピュラー・カルチャーを「多元的で、生産と消費の対立する過程に関わる多様な共同体間の交渉」(p.427)と捉えるべきだと主張する。

本書は、大衆文化とポピュラー・カルチャーは概念的に区別できるが、相互に重なっているととらえる。どちらもいま現在を特徴づけ、緊張をはらみ、活力に満ちている。マスメディアの訴求力は、ある程度、平等なコムニタスの文化の記憶や未来に対する希望を商品化する能力に基づく。こうしてメディアは、腹の底から笑うカーニバルを、虚像の祝祭の録音した拍手に代えようとする。しかしポピュラー・カルチャーは、もはや最新機械を嫌って農業を懐古したり、「人民よ進め」や「不屈の民」を感傷的にまた歌ったりはしない。ポピュラー・カルチャーは、政治的志向が何であれ、「自由」を賛美する人々が生みだしたものだろうと、カウチポテト族が消費したものだろうと、いまでは国家を超えてグローバル化したテクノ・カルチャーに完全に巻き込まれている。したがって、ポピュラー・カルチャーを多元的で、生産と消費の対立する過程に関わる多様な共同体間の交渉ととらえるのは理にかなっているのだ。

ショハット=スタム『支配と抵抗の映像文化』p.427

ポリティカル・コレクトネス——何が「正しい」のか

革命」という大きな物語が「抵抗」という小さな闘いに解体されていく流れの中で、ますます重要性を増しているのが「ポリティカル・コレクトネス Political Correctness」(政治的公平さ、政治的正しさ、政治的妥当性、PC)と呼ばれる概念である。

ポリティカル・コレクトネスは「特定の言葉や所作に差別的な意味や誤解が含まれないように、政治的に(politically)適切な(correct)用語や政策を推奨する態度」を意味する概念であり、例えば大航海時代の誤解から「インディアン」と呼ばれていたアメリカ先住民を「ネイティヴ・アメリカン」と呼び替えたり、肌の色に基づいた呼称「ブラック(黒人)」を「アフロ・アメリカン」と改めたりすることが、PCによる言語表現の是正の代表的事例であるとされる。

高橋聡太「ポリティカル・コレクトネス」Artwords(アートワード)

ポリティカル・コレクトネスが必要とされたのは、国際的な連帯と反植民地主義(地域ごとの思想や価値観の尊重)の両立が目指される中で、複数の共同体同士の関係性を調整する基準となる作法やしきたり、分裂した左翼の各グループの駆け引きを管理する非人格的な規範を設けることが求められたためである。

だが多くの共同体においては、むしろポリティカル・コレクトネスに抵触するような悪態をついたり、猥談を交わしたりすることが、親密さや仲間意識の証となっており、コレクトネス(公正)やポライトネス(礼儀正しさ)といった概念自体が関係性の遠さやよそよそしさを感じさせる目標となっている。

ポリティカル・コレクトネスはこれまで行われてきた差別や抑圧を考慮し、各共同体が互いを尊重し合い、倫理的責任の意識を高めることを隠れた目標としてきた。だが実際には、この概念がうまく機能せず、「罪深いリベラルのSM的な自責や、サバルタンどうしのどちらがより虐げられているか競争に堕することが多い」(p.428)。ポストモダン時代においては、各自のアイデンティティもまた商品化され、被害者意識を持つこと(PCを過剰に内面化すること)や一歩遅れた人であること(PCをあえて無視すること)が文化資本になるのだとショハット=スタムは指摘する。

自己表象とアイデンティティ・ポリティクス——「誰が」語るのか

今日のポリティカル・コレクトネスは、「アイデンティティ・ポリティクス Identity Politics」(アイデンティティ政治)や「自己表象」の問題と深く結びついている。

アイデンティティ・ポリティクスとは、「人種、民族、性的指向、ジェンダーなどの特定のアイデンティティーを持つ集団が社会的に不当な扱いを受けている場合に、社会的地位の向上を目指して行う活動」(「identity politicsとは」英辞郎on the WEB)を意味しており、周縁的な共同体に属する者に対して「自己表象」を行うこと——つまりは「本当の自分を伝える」こと——を求めてきた。

フェミニズムやポスト植民地主義など、差別と戦うために用いられてきた理論は、一方では、アイデンティティを固定されたものと見做したり、ジェンダー・人種・性的嗜好を生物学的に決定されたものと見做す「本質主義」的思考を否定・批判し、それらはみな社会的に構築されてきたものであり、変更も可能であるという「構築主義」の立場を表明してきたが、他方では、現実の差別を是正するためには、自らが否定する本質主義的な区分に基づく「アファーマティブ・アクション」(積極的差別改善措置)の政策を支持する必要があるという葛藤を抱えてきたのである。

アイデンティティ・ポリティクスは、人びとは明確に特定の社会集団に帰属しており、委任された代表者が集団を代弁して語ることができるという発想に基づいているが、厳密に「構築主義」的思考を突き詰めるならば、自分自身も含め、誰かが誰かのアイデンティティやジェンダー、人種、性的嗜好を代弁することなど不可能だということになるだろう。

こうして、「誰」が——いつ、どのように、誰の名において——語るのかということが重大な問題となる。例えば映画監督のスパイク・リーは、黒人解放運動の指導者であるマルコムXの伝記映画『マルコムX』(スパイク・リー、1992)を監督する権利を持つのはアフリカ系アメリカ人だけだと主張した。白人以外の役柄を白人が演じることは、「ホワイトウォッシングWhitewashing」であるとして批判されるようになった。他方、こうしたマイノリティの権利獲得の動きに対して、これまでマジョリティに属していた者は、自らの権利・特権を奪われたと感じて恐怖や不安を覚えたり、過剰な罪の意識が同情疲労や自己愛に転化し、時には憤りや敵意を抱いたり、自らをマイノリティや被抑圧者側に位置づけようとすることもあるだろう。

文化的ポリフォニーの可能性——「どのような関係性で」語るか

ショハット=スタムは、以上のような状況を検討・打開するためには、マイノリティとマジョリティ、抑圧者と被抑圧者といった単純な二分法では不十分であり、支配、従属、協力といった広範で複雑な「関係性」を考慮することが必要であると述べている。本質主義の罠に嵌まって凝り固まった「正しさ」を求めるのでもなければ、構築主義を突き止めた果てに政治的な無力感に陥るのでもなく、「どのような関係性で」語るのか——すなわち、「誰が語ることができるか尋ねるのではなく、どのように語り合うか、さらに重要なのは多様な対話をどのように進めるか尋ねる」(p.434)こと——によってこそ、歴史的に形成されてきた親近感に基づく共同体間の連合を形成することができるのだ、と。

われわれの声をどのように織り交ぜよう。合唱か、交唱か、コールアンドレスポンスか、多声音楽か。集団の話はどんな形でするのか。人は他者を代弁できると思い込むのは危険だが(他者に場所ごと取って代わることになる)、連合を組むという意味で他者と話したり一緒に話すのは、それとまったく違う。この場合は、人が「持っている」アイデンティティに関心があるのではなく、人が「すること」に一体感を覚える。帰属意識は交差するという考え方は、支配に対する批判および表象の重荷を共有する理論可能性や政治的必要を喚起する。それにより表象の重荷は減り、逆に表象をめぐる集団の喜びや責任は増える。連合はもちろん争いのない空間ではなく、不安定なことが多い。対話は痛みを伴い、ポリフォニーは不協和音となる。しかし、文化的ポリフォニーは、より平等なやり方で権力を再構築することに関心を持つすべての人々の多元的な対話を編成(編曲)するだろう。

ショハット=スタム『支配と抵抗の映像文化』p.434

交渉する観客性

ポストモダン時代の観客性——植民地主義的まなざしと対抗的まなざし

以上の前提を踏まえて、ショハット=スタムは映画の「観客性 Spectatorship」についての議論を進める。

ポストモダン時代においては、メディアがアイデンティティの形成に関与する。実際に会ったことのない人びとと共同体を形成したり、自分自身の先祖とは無関係な伝統の影響を受けたりすることもある。メディアは、他者の文化をエキゾチックなものとして示すこともできるし、逆に標準的なものとして示すこともできる。支配的なありようとは異なる、オルタナティヴな共同体やアイデンティティを生み出すこともできるのだ。

イデオロギー装置としての映画という見方は、すでに多くの論者が指摘してきたことである。映画の草創期はヨーロッパ帝国主義の最盛期と重なり合っており、それゆえ「ナショナル・アイデンティティ National identity」(国民意識、国民的アイデンティティ)と「植民地主義的まなざし」の形成に大きく寄与してきた。観客は、映画作品が提供する単線的な民族の歴史=物語を通じて、ヨーロッパ帝国の周縁共同体に属しているという意識を高める。またカメラや映写機などから成る映画装置は、観客に「全知の主体」(p.125)であるという錯覚を抱かせ、他文化の人びとを、窃視病的な眼差しを向けるべき対象として——つまりは「見世物」として——扱うように仕向けるのである。

ただしここで注意しなければならないのは、映画であれテレビであれ、観客性を必ず特定の方向に導くような装置や作品は存在し得ないということだ。前回紹介したスチュアート・ホールが「エンコーディング/デコーディング」(1980)において「支配的」「交渉(折衝)的」「対抗的」という三つの立場を示して論じたように、映画観客やテレビ視聴者は、ただ受動的に与えられたメッセージを送信者の意図通りに読み取るだけではなく、自ら能動的にメッセージを解読し、新たな意味を生み出す主体でもある。それぞれの観客の位置どりに応じて、テクスト(作品)は異なった読まれ方をする。

まったく言説的で社会的な相互関係において、メディアの観客性はテクストと読み手と共同体の鼎談を育む。たとえば特定の視聴者の意識や経験が支配的な表象に対抗する圧力を生むように、「異常な」または対抗的な読みの可能性における、相互に作用し闘う交渉の余地がある場なのだ。

ショハット=スタム『支配と抵抗の映像文化』p.435

ホールが上述の論文で取り上げたのは主に「階級」や「イデオロギー」に基づく視聴者の立場や読みの違いであったが、「支配的」「交渉的」「対抗的」読みという概念は「人種」や「エスニシティ」(民族性)の問題にも広げて考えられるだろう。映画作家・文化理論家のマンティア・ディアワラが、黒人観客は『国民の創生』(D・W・グリフィス、1915)のような人種差別的映画を決して黙認できないと述べたように、あるいはベル・フックスが、黒人女性観客の映画鑑賞には「問いただす」こと(尋問)の喜びがあると語ったように、観客はテクストが押し付ける「秩序」に反発し、批判的な論評を加えたり、敵意ある視線——フックスが言う「対抗的まなざし」——で見つめ返すことができるのだ。

D・W・グリフィス『国民の創生』(1915)

パラ言語的表現——具体的な身振りを伴う映画鑑賞

またここで重要なのは、ショハット=スタムが、劇場内で観客が見せる——拍手や野次といった具体的な身振りを伴う——感情表現に注目していることだ。

作家のジェームズ・ボールドウィンは、マンハッタン北部のハーレム街で『手錠のままの脱獄』(スタンリー・クレイマー、1958)を見た経験について書き記している(ジェームズ・ボールドウィン『悪魔が映画をつくった』山宏訳、1977年)。黒人俳優のパイオニアとして知られるシドニー・ポワチエが白人の相棒(トニー・カーティス)を見捨てないために列車から飛び降りたとき、白人観客は人種を超えた友情という「リベラル」な表現に感動し、拍手喝采をした。だが黒人観客は同じ場面で激昂し、画面の中のポワチエに「列車に戻れ、ばかやろう!」と怒鳴りつけたという。彼/彼女らはいまだ従属的な関係を強いられ続けているため、映画が押し付けてくる絵空事のヒロイズムに感動できなかったのだ。

※このように、差別など無いかのように明るく振る舞う姿、差別する側と和解し、親しげに振る舞う姿といったイメージによって、却って現実に残る差別が隠されてしまうことを、ショハット=スタムは「肯定的なイメージ」(陽性のイメージ)と呼び、概念化している。

スタンリー・クレイマー『手錠のままの脱獄』(1958)

他方、例えばブラジルの奴隷制を描いた『ガンガ・ズンバ』(カルロス・ヂエギス、1963)の上映時、黒人観客は、黒人が奴隷監督を殺害して反逆するシーンを見て拍手をするだろうが、白人観客は、どれだけ急進的なリベラル思想の持ち主でも躊躇うはずだとショハット=スタムは言う。このように、拍手喝采やため息、はっと息を呑むような動作や身振りといった「パラ言語」(周辺言語)的な表現は、「観客性」や「観客の位置どり」といった抽象的な語彙では捉えきれない、観客の心の底からの感情が具現化したものとして見ることができるのである。

カルロス・ヂエギス『ガンガ・ズンバ』(1963)

一貫性がなく、矛盾に満ちた観客

観客性に関する従来の映画理論は、ジェンダーの側面や心理学的な側面を特権的に扱うことで、しばしば人種的・文化的な側面を無視してきた。また社会学的な方法を導入したメディア論は、「白人の観客」「黒人の観客」「ラティーノ/ラティーナの観客」「抵抗する観客」というように、単一の属性に基づいて観客性の様態を探求するが、そこで多文化主義の考え方が取り入れられることは稀だった。

だがショハット=スタムが指摘するように、観客の位置取りは様々で、一貫性がなく、複雑で矛盾に満ち、しばしば政治的に「どっちつかず」である。ある観客が映画を鑑賞する際、階級やイデオロギーの問題に関しては「対抗的」な読みを行うが、人種の問題に関しては「支配的」な読みを行うといったことも珍しくない。

例えば「異化効果」を提唱した前衛的な劇作家のベルトルト・ブレヒトさえ、帝国主義的な映画『ガンガ・ディン』(ジョージ・スティーヴンス、1939)を鑑賞して——先住民族のインド人が、イギリス軍の敵として現れるときは邪悪な存在として描かれるが、同胞を裏切り、イギリス側に忠誠を誓うときには滑稽な存在として描かれることに違和感を覚えつつも——深く感動し、面白いと感じ、拍手までしてしまったことを告白しているのだ。

ガンガ・ディン役のサム・ジャッフェ
ジョージ・スティーヴンス『ガンガ・ディン』(1939)より

交渉する観客性——複数のレベルの緊張関係

以上のように、観客性の分析を行うためには、観客を文化的・言説的・政治的に一貫性があるものと見做すのではなく、観客の位置どりは様々で、矛盾に満ち、分裂気味ですらあると理解しなければならない。ショハット=スタムは、ホールが示した3つの立場の中でも特に「交渉的」立場を重要なものとして扱い、「交渉する観客性」を分析することの必要性を語ると共に、その方法を提案している。

さしあたり、ショハット=スタムはホールのオーディエンス論を批判的に発展させたデヴィッド・モーリーの議論を参照し、観客性を複数のレベルに区別した上で、それらが常に同時に作用しているものと見做し、各レベルが交渉・折衝し合う緊張関係を読み解いていくことを求める。より詳細に言えば、①テクスト自体が作り出す観客性、②映画という装置が作り出す観客性、③社会的な慣習や教育が作り出す観客性、④言説やイデオロギーが作り出す観客性、⑤人種やジェンダーなど歴史的に位置づけられた観客性など、様々なレベルで観客性は構築される。他方、主体としての観客の側も、「支配的」「交渉的」「対抗的」読みなど、遭遇したテクストに対して多様な解釈や反応を示す。

さらには同一の観客であっても、その映画をいつ、どのような場所で、誰と、どのような状況で見たかによって、観客性は多彩に変化するだろう。

例えば革命理論家のフランツ・ファノンは、異なる2つの場所における『ターザン』シリーズに対する観客の反応について語っている。カリブ海のアンティル諸島において、黒人の子どもはジャングルで育った白人青年ターザンに自己を重ね合わせ、ターザンが悪役の黒人と戦うのを応援する。だがヨーロッパの映画館において、黒人の子どもがターザンを自己同一視することは困難である。なぜなら周囲の白人観客たちが、自動的に彼/彼女を悪役の黒人側に重ね合わせてしまうからだ。このように、観客は他の観客に「見つめられる」ことで同一化を妨げられたり、映画との関係を変化させられたりもする

W・S・ヴァン・ダイク『類猿人ターザン』(1932)
W・S・ヴァン・ダイク『類猿人ターザン』(1932)

オルタナティヴな空間

装置理論からの逸脱——ユートピア・ファンタジーの側面

クリスチャン・メッツの精神分析的映画理論ジャン=ルイ・ボードリーの装置理論では、各作品の物語や内容以前に、映像を生産する器械としての映画それ自体が、特定のイデオロギーを観客に植え付ける装置であることが指摘された。だが装置理論やそれに基づく映画研究は、受動的で従順な観客だけを想定しており、観客の位置どりに応じた「抵抗」や「交渉」など多様な読みの可能性を考慮していないとして、激しい批判を受けることになった。

加えてショハット=スタムは、そもそも映画という装置自体、必ずしも支配的・画一的なイデオロギーを植え付けようとしたり、母胎への退行状態へと導こうとするだけではないと指摘する。フレデリック・ジェイムスンらが論じるように、映画にはユートピア・ファンタジーとしての側面を持つ。例えばグラウベル・ローシャウカマウ集団のように、第三世界の人びと、もしくはマイノリティによる/のための「オルタナティヴ」な映画——反帝国主義、反商業主義、反主流の映画——は、観客の地位向上の夢を育てたり、社会変革のための闘いを励まし、支えるだろう。あるいは、ハリウッド映画のような覇権的テクストであっても、所謂「マーケット・リサーチ」に基づいて、多様な観客の欲求と交渉しながら制作されねばならないし、インディ・ジョーンズやランボーのような帝国主義者のヒーローも、観客の読み次第で、被支配民族にとっての解放者と位置づけられることがある。メディアは多様な共同体の欲求と交渉し、彼/彼女らの願望や、何かしらの欠如を満たす欲求を投影させるための媒体として、自らを構成するのである。

オルタナティヴな空間

スパイク・リーマルコムX』(1992)には、装置理論とはかけ離れたメディアの受容と、そうした受容の空間が社会的な抵抗の実践へと結びつく過程が描き出されている。若き日のマルコムは、白人上司の目を盗み、列車内の厨房で初老の黒人ウェイターたちと共に、ボクシングのラジオ中継を聞いている。彼らは黒人ボクサーのジョー・ルイスを真似てファイティングポーズをとり、ルイスが白人ボクサーに勝利すると喜びを爆発させ、「黒人共同体にとっての象徴的な報復の瞬間」(p.443)を味わう。

その姿は、装置理論が想定する受動的な観客像や、精神分析的映画理論が想定する窃視病的(のぞき趣味的)観客像とは大きく異なっている。彼らはメディアの視聴経験を他者と共有することで活力を得て、自らの職場を、一時的に解放された場——自由な言説を可能にするオルタナティヴな空間——に変える。そして、メディア経験に伴う身体的な身振りや行為は、個人の内面的な抵抗を具現化し、社会的な抵抗の実践へと移行し始める(実際、1910年にはボクシングの試合をきっかけとして、アメリカの多くの州で人種間衝突が起きたのだと、ショハット=スタムは補足している)。

スパイク・リー『マルコムX』(1992)

このように、ショハット=スタムは個々の観客とテクストの関係だけを見るのではなく、それが鑑賞される空間や状況にも注意を向けるよう促している。「病院や公民館、コミュニティ・センターで上映されるオルタナティヴな映画のように、状況が変われば読みも変わる」(pp.442-443)。オルタナティヴな空間に関するショハット=スタムの議論は、公共上映自主上映非商業上映と呼ばれるような、常設映画館以外の場所での映画鑑賞経験を考える上でも役に立つだろう。

越境文化(トランスカルチャー)的な場におけるメディア経験

メディア研究者のジョン・フィスクは、テレビの視聴者は「大衆の記憶」(p.444)に基づいて転倒的な読みをするのだと主張した。だが、すべての視聴者が受動的に「支配的」読み行うわけではないのと同様に、すべての視聴者が生得的に「対抗的」読みをするわけでもない。権利を奪われた共同体が「対抗的まなざし」を持つことができるのは、自分たちの集団が営んでいる日々の生活や、歴史の記憶、あるいは教育を通じて、「支配的」読みとは別の理解枠組みを習得している場合に限られる。そうでなければ、たとえ被支配民族やマイノリティに属していても、支配者やマジョリティの側から与えられたメッセージを鵜呑みにしてしまうことがじゅうぶんにあり得るだろう。

ショハット=スタムは、複数の集団それぞれの記憶と欲求が出会う越境文化(トランスカルチャー)的な場、あるいはハミード・ナフィーシーの言う「リミナリティ」(境界状況)の空間におけるメディア経験に注目している。それは、その土地を祖国とする者にとっても、外部からやって来た者にとっても、様々な文化的コードが衝突・抵抗し合ったり、ずれたり重なったり、転倒したりする場である。

移民難民亡命者は、映画やテレビ、ビデオを通じて故郷の風景を眺めたり、幼少期に耳にした言葉を再び聴いたりすることができる。彼/彼女らは祖国への郷愁をかきたてられ、想像の共同体を強固にし、ときには「ここにいること」を否定したり、あるいは「どこかよそ」でも生きていけるという感覚を得ることもあるだろう。

また、様々な民族が入り混じって暮らす大都市において、映画を見にいくことは「意義深い多文化的な経験」(p.446)になる。ニューヨークやロンドンで「外国映画」を上映すると、ちょっとした冗談や引用を理解できる文化的な「身内」と、それらを理解できず混乱する「よそ者」とで、観客の反応が分かれるだろう。そのとき、第一世界の人びとは自国に居ながらにして、第三世界やマイノリティの観客の日頃の経験——「この映画は私たちのためにつくられたものではない」(p.446)——を味わうのだ。

夢と自己形成の境界(リミナル)空間

ショハット=スタムは、映画の経験は必ずしも特定のイデオロギーや属性にがんじがらめにされたものではなく、「遊びや冒険の面」(p.446)もあると指摘する。ジャン・ルイ・シェフェールは『映画を見に行く普通の男——映画の夜と戦争』(丹生谷貴志 訳、現代思潮新社、2012年、原著1980年)において、映画を見るとは、先ほどまでいた世界が不意に「無時間」の中に消えていき、その無時間性から別の「時間」が生まれてくるのを経験することであり、そうした世界の消滅と別の世界の誕生を同時に生きることの喜びのために劇場に通うのだと語った。映画を見ることは、普段の社会的立場を一旦括弧にくくり、別の社会的立場を体験したり、想像したりする契機にもなる。

だとすれば、映画やテレビに限らず、コンピュータ・グラフィックスや双方向(インタラクティヴ)技術、バーチャルリアリティといった映像技術を用いた視聴覚教育およびメディア教育は、異なる文化の相互理解を促進する多文化教育のために有効な手段となるかもしれない。メディアの経験は、夢と自己形成の境界(リミナル)空間ともなり得るのだ。


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