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地方映画史研究のための方法論(29)大衆文化としての映画③——フレドリック・ジェイムソン「大衆文化における物象化とユートピア」

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト


見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」は2021年にスタートした。新聞記事や記録写真、当時を知る人へのインタビュー等をもとにして、鳥取市内にかつてあった映画館およびレンタル店を調査し、Claraさんによるイラストを通じた記憶の復元(イラストレーション・ドキュメンタリー)を試みている。2022年に第1弾の展覧会(鳥取市内編)、翌年に共同企画者の杵島和泉さんが加わって、第2弾の展覧会(米子・境港市内編)、米子市立図書館での巡回展「見る場所を見る2+——イラストで見る米子の映画館と鉄道の歴史」、「見る場所を見る3——アーティストによる鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」を開催した。

また2024年3月には、杵島和泉さんとの共著『映画はどこにあるのか——鳥取の公共上映・自主制作・コミュニティ形成』(今井出版、2024年)を刊行した。同書では、 鳥取で自主上映活動を行う団体・個人へのインタビューを行うと共に、過去に鳥取市内に存在した映画館や自主上映団体の歴史を辿り、映画を「見る場所」の問題を多角的に掘り下げている。(今井出版ウェブストアamazon.co.jp

佐々木友輔・杵島和泉『映画はどこにあるのか——鳥取の公共上映・自主制作・コミュニティ形成』(今井出版、2024年)

地方映画史研究のための方法論

地方映画史研究のための方法論」は、「見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」の調査・研究に協力してくれる学生に、地方映画史を考える上で押さえておくべき理論や方法論を共有するために始めたもので、2023年度は計26本の記事を公開した。杵島和泉さんと続けている研究会・読書会で作成したレジュメをに加筆修正を加えた上で、このnoteに掲載している。年度末ということで一時休止していたが、これからまた不定期で更新をしていく予定。過去の記事は以下の通り。

メディアの考古学
(01)ミシェル・フーコーの考古学的方法
(02)ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』
(03)エルキ・フータモのメディア考古学
(04)ジェフリー・バッチェンのヴァナキュラー写真論

観客の発見
(05)クリスチャン・メッツの精神分析的映画理論
(06)ローラ・マルヴィのフェミニスト映画理論
(07)ベル・フックスの「対抗的まなざし」

装置理論と映画館
(08)ルイ・アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」
(09)ジガ・ヴェルトフ集団『イタリアにおける闘争』
(10)ジャン=ルイ・ボードリーの装置理論
(11)ミシェル・フーコーの生権力論と自己の技法

「普通」の研究
(12)アラン・コルバン『記録を残さなかった男の歴史』
(13)ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』

都市論と映画
(14)W・ベンヤミン『写真小史』『複製技術時代における芸術作品』
(15)W・ベンヤミン『パサージュ論』
(16)アン・フリードバーグ『ウィンドウ・ショッピング』
(17)吉見俊哉の上演論的アプローチ
(18)若林幹夫の「社会の地形/社会の地層」論

初期映画・古典的映画研究
(19)チャールズ・マッサーの「スクリーン・プラクティス」論
(20)トム・ガニング「アトラクションの映画」
(21) デヴィッド・ボードウェル「古典的ハリウッド映画」
(22)M・ハンセン「ヴァナキュラー・モダニズム」としての古典的映画

抵抗の技法と日常的実践
(23)ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』と状況の構築
(24)ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』
(25)スチュアート・ホール「エンコーディング/デコーディング」
(26)エラ・ショハット、ロバート・スタムによる多文化的な観客性の理論

大衆文化としての映画
(27)T・W・アドルノとM・ホルクハイマーによる「文化産業」論
(28)ジークフリート・クラカウアー『カリガリからヒトラーへ』

フレドリック・ジェイムソン『目に見えるものの署名』(1990)

フレドリック・ジェイムソン(1934-)

フレドリック・ジェイムソン

フレドリック・ジェイムソン(Fredric Jameson、1934-)は、マルクス主義に基づく文化理論や文芸批評を牽引してきた、英語圏を代表する批評家である。アメリカ合衆国オハイオ州クリーブランドに生まれ、イェール大学で博士号を取得。ハーバード大学やイェール大学、カリフォルニア大学で教鞭を取り、現在はデューク大学の教授と批評理論研究所所長を務めている。

ジェイムソンの研究・批評の対象は文学作品に限らず、モダンアートや絵画、映画、建築、ポストモダニズムや消費社会論など幅広い。主な著作に『サルトル——回帰する唯物論』(論創社、1999年、原著1961年)、『弁証法的批評の冒険——マルクス主義と形式』(晶文社、1980年、原著1971年)、『言語の牢獄——構造主義とロシア・フォルマリズム』(法政大学出版局、1988年、原著1972年)、『政治的無意識——社会的象徴行為としての物語』(平凡社、1989年/平凡社ライブラリー、2010年、原著1981年)、『のちに生まれる者へ——ポストモダニズム批判への途1971-1986』(紀伊國屋書店、1993年、原著1988年)、『時間の種子——ポストモダンと冷戦以後のユートピア』(青土社、1998年、原著1994年)、『カルチュラル・ターン』(作品社、2006年、原著1998年)、『近代という不思議——現在の存在論についての試論』(こぶし書房、2005年、原著2002年)、『未来の考古学 第一部——ユートピアという名の欲望』(作品社、2011年、原著2007年)、『未来の考古学 第二部——思想の達しうる限り』(作品社、2012年、原著2007年)など。映画批評集としては、今回紹介する『目に見えるものの署名——ジェイムソン映画論』(法政大学出版局、2015年、原著1990年)と、『地政学的美学——世界システムにおける映画と空間 The Geopolitical Aesthetic: Cinema and Space in the World System』(未邦訳、インディアナ大学出版局、1992年)がある。

『目に見えるものの署名』(1990)

フレドリック・ジェイムソンの『目に見えるものの署名 Signatures of the Visible』は、1990年にイギリスの出版社ラウトレッジから刊行された。2015年には、邦訳『目に見えるものの署名——ジェイムソン映画論』(椎名美智、武田ちあき、末廣幹 訳、法政大学出版局)が出版されている。

同書の「序論」冒頭においてジェイムソンは、「映像とは、本質的にポルノグラフィである」と言う(p.1)。なぜなら、映像は頭で思考するのに先立って、匂いや味のように肉体的な体験として記憶されるものであり、世界をまるで一つの裸体であるかのように見つめさせ、鑑賞者の我を忘れさせるからだ。資本主義社会は、この世界を視覚によって収集・所有可能な身体として私たちに提供しようとする。そこでは、視覚の対象をまなざしによって支配することが、人間の権力と欲望を巡る闘争の中心を占めており、視覚以外の感覚は削ぎ落とされている。

映像として提示される世界は、もちろん現実の世界とは異なるものであり、あくまで人間によって構築された人工的世界に過ぎない。だが映像として提示される世界は全方向的に増殖・拡大し、隅々に浸透しているため、最早それを考慮することなしに現実世界を考えることは難しいだろう。視覚中心主義的な感覚を道徳的な批判によって切り捨てたり、映像として提示される世界は人工的に作られた偽物だと指摘して、それ以前の世界に戻ろうとしたりすることはできないのである。

それゆえジェイムソンは、映像が提示する世界が生まれてきた歴史的経緯を把握することが必要だと主張する。個々のイメージや音声がどのような背景のもとに現れてきたのか、その来歴を探ることによって、映像が提示する世界を自律した世界と見做すのではなく、現実世界と地続きのものとして扱うこと。そうしなければ、全方位的に映像に媒介されたこの世界を適切に理解することはできないのだ。 

「大衆文化における物象化とユートピア」(1979)

大衆文化における物象化——フランクフルト学派の文化理論

目に見えるものの署名』の第1章「大衆文化における物象化とユートピア」は1979年に執筆され、アメリカの学術雑誌『ソーシャル・テクスト』に掲載された。この論文では、はじめに大衆文化mass culture)について語られてきた従来の理論や議論の再検討が行われる。

大衆文化はしばしば、高級文化high culture)との対立関係を前提として論じられてきた。例えばエリート主義を批判する議論の多くは、単にその文化に関わる人数が多いことを根拠として大衆文化の優位性を主張し、高級文化よりもテレビや映画のほうが、はるかに社会的価値があると語る。だがこうした大衆主義(ポピュリズム)の推進者は、否定のための否定をしているだけであり、高級文化はもちろんのこと、大衆文化に対しても、その内実を詳しく解き明かす方法を持ち合わせていない。

こうした立場の対極にあるのが、フランクフルト学派文化理論である。テオドール・アドルノマックス・ホルクハイマーといった思想家たちは、マルクス主義における「物象化」の理論を、大衆文化が作り出した作品の分析に援用してみせた((地方映画史研究のための方法論(27)「T・W・アドルノとM・ホルクハイマーによる「文化産業」論」)。

物象化」の理論に拠れば、資本主義のもとではあらゆるものが商品化され、交換の対象となる。個々の商品は本来備えていた固有の目的や価値を失い、すべてが「消費」という唯一の目的のための手段に成り下がってしまうのである。同様に、伝統的な人間の活動も断片化され、効率的かつ合理的なモデルによって再構築される。フランクフルト学派が「道具化」と呼ぶ事態——すなわち、人間の活動の「手段」と「目的」とを切り分けた上で、目的や価値の側面よりも手段や道具としての側面が前面に押し出されていくのである。

文化の商品化の例としてしばしば取り上げられるのが「ツーリズム」だ。アメリカ人旅行者は、目の前の風景をただ眺めるのではなく、それをスナップ写真に撮り、空間を物質的な映像に変換して個人の所有物にする。ジャン=リュック・ゴダールは『カラビニエ』(1963)において、こうした変換行為を鮮やかに描き出した。戦争から帰還した若い略奪者たちは、ピラミッドやパルテノン神殿、ベルサイユ宮殿など各地の絵はがきを戦利品として、まるで猥褻写真を持っているかのように見せびらかす。ギー・ドゥボールが指摘するように、現代の消費社会における究極の商品の物象化形態は「イメージ」そのものなのだ(地方映画史研究のための方法論(23)「ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』と状況の構築」参照)。私たちは機能よりもコンセプトを求めて自動車を購入したり、CMに登場する俳優のイメージを求めて煙草を吸ったりするのである。

ジャン=リュック・ゴダール『カラビニエ』(1963)

道具化された物語

文化商品化および道具化は「物語」に対しても行われる。例えば探偵小説や昔風の冒険小説を読む際、私たちは事件の解決や大団円の結末に辿り着くことを求めてそれらを読み進める。終わりに向かうことや消費することの満足だけを目的とし、物語の残りの部分は、そのためのつまらない手段に貶められているのである。こうした読書のあり方は、エーリヒ・アウエルバッハが『ミメーシス』(1946)で述べる詩のあり方——各段落とイメージはそれ自体で永遠的かつ内在的であるべきで、その前後に来る段落やイメージとの必然的もしくは不可欠な結びつきはないとする考え方——とは対照的だと言えるだろう。

加えてジェイムソンは、例えば家庭小説における運命観や、様々なサーガ(長編の英雄物語、大河小説を指す)における地球規模・歴史的規模の大変動が生み出す叙事詩的なリズムのように、メインプロットと並行して断続的に描き出される「感情のトーン」(p.17)があることを指摘している。感情のトーンもまた物象化された商品の一つであり、語りはそうした商品を消費するための道具にすぎない。このことは、小説が映画化される際に感情のトーンが「映画音楽」として表現され、物質性を持つ——つまりは所有の対象となる——ことからも明らかだろう。

大衆文化と高級文化の相互依存関係

以上のように、ジェイムソンはフランクフルト学派による大衆文化の分析を高く評価し、自らの研究の基礎に据えている。だがジェイムソンは、フランクフルト学派が大衆文化の価値を測る際に、伝統的なモダニズムの高級芸術の「自律性」を評価基準に据えていることについては不満があると言う。「自律」した高級文化を定点に据え、そこからの距離を測ることによって大衆文化の「堕落」した状態を明らかにするという二元論的な発想では、実は高級文化と大衆文化は相互浸透し合っているという事実を適切に取り扱うことができないからだ。

ここでジェイムソンは、普遍的な美学的判断ではなく、歴史的・弁証法的アプローチをとるべきだと主張する。すなわち、高級文化と大衆文化は共に、資本主義のもとに生まれてきた美的な生産物であり、二方向に分裂してはいるが、完全に切り離すことのできない弁証法的な相互依存関係を結んでいるものと捉えるべきだと言うのである。この考え方に従うなら、高級文化とはすなわちモダニズムであり、資本主義の隆盛以前に書かれたギリシャ悲劇やシェイクスピア、『ドン・キホーテ』などを高級文化と呼ぶことはできないということになる。また同時に、古くから様々な民族集団が作り出してきた民衆芸術も、大衆文化とは区別して捉える必要があるだろう。 

大衆文化における「反復」

ジェイムソンは、大衆文化とモダニズムの双方が直面し、対照的な方法で解決を図っている社会的・美学的な状況の分析こそが、カルチュラル・スタディーズが取り組むべき新しい研究分野なのだと語る。そして、その一例として取り上げるのが「反復」の概念だ。

ジャン・ボードリヤールは、「シミュラークル」の反復構造こそが資本主義社会・消費社会の商品構造の特徴であると述べた。シミュラークルとは、起源となるもの(オリジナル)を持たないコピーの再生産が反復されることを指す言葉である。私たちは無数のシミュラークルに囲まれ、虚構であったはずのそれがむしろ現実を規定し始めるような世界に生きているのであり、この状況への2通りの対応、もしくは反発の結果として現れてきたのが、大衆文化とモダニズムなのである。

一方で、「反復」は大衆文化に決定的な影響をもたらした。大衆は同じものを何度も繰り返し見たがるものであり、そのため「ジャンル」という構造と記号が要請される。SFやミステリー、伝記やポルノグラフィーといった特定のジャンルの作品を鑑賞するとき、私たちは紋切り型の型式が「反復」されることを期待してそれを見る。極論を言えば、ジャンル映画であれポップミュージックであれ、大衆文化においては「初めて」見る映画も「初めて」聴く音楽も存在しない。「反復」によってオリジナルはきれいぱっさり消滅させられており、それゆえ大衆文化の研究者は、研究すべき一次資料を持たないのだ。

ジェイムソンによれば、映画の世界では、アメリカ映画と外国映画の区別が制度化されているという。アメリカ映画ではジャンルの「反復」が徹底されており、観客もそれを期待して鑑賞するが、外国映画を鑑賞する際には、観客は高級文化的な言説や芸術映画を受容すべく、「期待の地平」をギアチェンジすることが習慣づけられているのである。

モダニズムにおける「反復」への反発

他方のモダニズムは、こうした「反復」に反発する方向に向かう。古典的な英米のモダニズムの理論枠組みに基づいて、過去の様式と断絶した革新性や目新しさを追求したり、ガートルード・スタインアラン・ロブ=グリエのようにあえて「反復」を盗用することで、毒をもって毒を制す戦略に出たりすることもある。そこでは、「反復」というスキャンダラスで耐え難い刺激物を美学的なプロセスに引き込むことによって、それを徹底的に調べ上げ、象徴的に中和することが試みられているのだという。

アラン・ロブ=グリエ去年マリエンバートで』(1961)

またモダニズムは、例えばマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』(1913-1927)やジェームズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』(1939)のように、再読されることを前提とした本の制作においても「反復」を模倣している。ただしそうした難解なテクストは、何度も繰り返し回帰することができる安定した実体(オリジナル)を持つ点で、大衆文化の生産物とは大きく異なっていると言えるだろう。

大衆の操作手段としての文化、真正なる文化的創造の困難

ここでジェイムソンは、フランクフルト学派が提起した、もう一つの大衆文化へのアプローチを取り上げる。それは、例えばアドルノとホルクハイマーが『啓蒙の弁証法』(1947)で論じたような、文化産業が大衆を「操作」し、支配体制に隷属させるのだという見方である。

フランクフルト学派を僅かな例外として、マルクス主義の伝統は現実の社会生活を問題にする際、政治的・イデオロギー的・法律的な問題を重視する一方で、文化的な契機は軽視してきた。だがジェイムソンは、「文化」は消費社会そのものだと指摘する。現代社会ほど映像が遍在し、記号やメッセージに溢れた社会はない。ギー・ドゥボールが指摘するように、実業家のハワード・ジャーヴィスであれジミー・カーター元大統領であれ、カストロであれ赤い旅団であれ、ベトナム戦争であれストライキであれ、すべてのものは映像——つまりは文化的な表象——に媒介されて、私たちのもとに届けられるのである。

このように、私たちの生活の隅々にまで浸透したシステムを打ち崩し、その外部に出ることは容易ではない。大衆文化とも高級文化とも異なる、資本主義社会以前の「真正なる文化的創造」(p.34)を実現させるためには、物象化ないしは道具化の影響が及んでいない真正なる集合生活、有機的な社会集団の生命力がなくてはならないが、そうした条件を満たせる場は、今やあまりにも稀有なものになってしまった。今日、「真正なる文化的創造」と言えるのは、黒人の文学やブルース、イギリスの労働者階級のロック、女性文学、ゲイ文学、ケベック・ロマンス、第三世界文学など、資本主義システムの周縁に位置する孤立地帯で、集団的経験を活かして作り出されたものだけだろうとジェイムソンは言う。だがそれらが成立するのも、あくまで彼/彼女らの集団生活が市場や商品のシステムに侵されきっていない間だけだ。

真正なる文化的創造

ジェイムソンは、一方で、大衆文化の中から「真正なる文化的創造」が生まれる可能性について悲観的な見解を示しつつも、他方では、その外部に出ることが容易ではないという条件も踏まえ、あくまで大衆文化の内側に、システムを打ち崩すような集団的実践——より具体的には階級闘争——の萌芽を見つけ出そうとする

そこでジェイムソンが注目するのが、文芸評論家のノーマン・ホランドが『文学的反応のダイナミックス』(1968)で提唱した、芸術作品に関する「修正された」フロイトのモデルだ。そこでは、商業的な芸術作品がどのようにして大衆を操作するのかを説明するために役立つ枠組みが提示されている。具体的には、芸術作品の心理的な機能には、①願望を充足させる機能と、②象徴を作り上げることで、実現することも消し去ることもできない欲望や願望を瞬間的に鎮め、管理する機能の二つがあるという。

ジェイムソンはこのモデルを踏まえて、大衆文化を虚しい娯楽や単なる虚偽意識として捉えるのではなく、「社会的、政治的不安や幻想を変形する作業」(p.38)として捉えることを提唱する。大衆文化は、社会的な不安や政治的な不安といった問題を想像の上で解決する語りを作り出し、社会の調和を幻想として見せるイメージを提示することで、それらの不安を抑圧する働きをする。ジェイムソンは、そのような大衆の無意識を分析することを通じて、既存のシステムを打ち崩す集団的実践を可能にするような、人びとの共同体への志向を見つけ出そうとするのである。

高級文化やモダニズムの作品であろうと、大衆文化や商業文化の作品であろうと、現代の芸術作品にはすべて、その基礎に流れる衝動として、しばしば歪曲され、抑圧された無意識のかたちではあるが、わたしたちが現在生きているような社会と、社会はこう生きるべきだとわたしたちが直感的に感じている社会の、両方の意味での社会生活の本質についての痛切なる幻想がこめられている。商品にとりつかれ、大企業のイデオロギー的なスローガンに攻めたてられている状況で、私有化され、心理学的に作用している社会のまん中で、いかに微弱でわずかであろうとも、モダニズムの古典的な作品においてと同じように、大衆文化の堕落した作品のほとんどに確実に感じられる、共同体を志向する根深い衝動の感覚を再びよびさますこと、これこそがまさしく、現代文化にマルクス主義を意義深く介入させるために絶対に必要な前提条件なのである。

フレドリック・ジェイムソン『目に見えるものの署名——ジェイムソン映画論
椎名美智、武田ちあき、末廣幹 訳、法政大学出版局、2015年、p.52 

イデオロギー的機能とユートピア的・超越的機能——スティーヴン・スピルバーグ『ジョーズ』(1975)

ジェイムソンは分析の実例として、スティーヴン・スピルバーグの『ジョーズ』(1975)と、その原作であるピーター・ベンチリーのベストセラー小説を取り上げている。

スティーヴン・スピルバーグ『ジョーズ』(1975)ポスター

ジョーズ』の公開当時、同作の鮫が何を象徴しているのかについて——共産主義や第三世界といったアメリカ社会を脅かす他者であるとか、誕生や性交、死といった人間の生物的な問題や精神分析的な不安といったように——様々な解釈が行われた。それらのいずれも間違いとは言えないが、より重要なのは、こうした複数の解釈が出てくること自体であるとジェイムソンは言う。象徴的な媒体としての鮫は、特定の観客が持つ固有の問題だけに関わるのではなく、性質の異なる様々な不安を吸い上げ、まとめ上げる能力を持っている。社会的・歴史的な種々の不安を、人間に害を及ぼす生物の襲来という、見るからに自然な不安に置き換えて表現することで、本来の不安をその中に押し込んでしまうという意味で、『ジョーズ』の多義性は強力な「イデオロギー的機能」を備えていると言えるだろう。 

スティーヴン・スピルバーグ『ジョーズ』(1975)

映画でも原作小説でも、人喰い鮫に立ち向かうのは海洋学者フーパー、島の警官ブロディ、鮫ハンターのクイントの3名である。だが小説では、上流階級出身の退廃的なプレイボーイであるフーパーと、島民であるブロディとヤンキーのクイントの間の階級闘争が明白に表現されていたのに対して、映画では、そうした階級に関する意味合いが意図的に無視ないしは抑圧されている。フーパーは若く温厚な科学技術の専門家、ブロディは都会出身の引退した警察官に変えられて、両者の結託は、多国籍企業の新たな技術主義社会と法と秩序の権力が手を組んだことの寓意(アレゴリー)となっている。また、原作ではさほど重要でない役柄であったクイントは、第二次世界大戦の回想録を書き、アメリカの遠い過去と自分自身とを重ね合わせている人物として描かれる。そんなクイントの死と、フーパーおよびブロディの生還は、古く伝統的なアメリカのイメージの終焉と、それに代わる新たな権力体制の誕生を伝えるユートピア的ヴィジョンを観客に提示する

このように、大衆文化の作品が「イデオロギー的機能」を発揮するためには、暗示的であれ明示的であれ、同時に「ユートピア的・超越的機能」を備えていなければならないのだとジェイムソンは言う。大衆の無自覚な不安を呼び起こすだけではなく、その共同体の深層にある根源的な希望や幻想を描き出さなければ、大衆文化はその役割を十全に果たすことはできないのだ。 

Jaws Movie Scene for Universal Hollywood Backlot tour

フランシス・フォード・コッポラ『ゴッドファーザー』(1972)

フランシス・フォード・コッポラゴッドファーザー』(1972)におけるマフィア神話の「イデオロギー的機能」は、アメリカの資本主義社会の問題をマフィア社会の問題へと置き換えることだと解釈できる。すなわち、自らの日常生活が、利益のためには生態系の破壊や非人間的な行いも厭わない大企業や多国籍企業に頼りきりになっていることへの不安が、不正行為や犯罪行為を犯すマフィアの物語として描き出されるのである。

こうしたマフィア神話は、アメリカの日常生活の退廃は経済的な問題ではなく倫理的な問題であり、規範からの逸脱こそが犯罪なのだというイデオロギーを植え付ける。革命のように規範そのものを取って代えることではなく、清廉潔白や誠実さ、犯罪の撲滅、要するに法と秩序の遵守こそが社会的矛盾の最良の解決策だと提案するのだ。

また同作の「ユートピア的・超越的機能」は、映画のタイトルにも示されているように、「家族」という共同体をユートピア的な憧れの対象とする見方に表れている。アメリカにおいて支配的立場にある白人中流階級の共同体が崩壊し、家族の堕落、自由放任の増大、父権の失墜といった諸問題に直面する中で、マフィア家族の密接な絆とゴッドファーザー(カトリック世界における「名付け親」の意。転じてマフィアのボスを指す)の安全保障の力は、家父長制的・権威的な家族による社会の再統合というユートピア幻想を見せてくれるのである。

フランシス・フォード・コッポラ『ゴッドファーザー』(1972) 

フランシス・フォード・コッポラ『ゴッドファーザーPART2』(1974)

ゴッドファーザー』では、イデオロギーとユートピアの2つの次元が、共にマフィア映画というジャンル構造の内部で表現されており、ジャンルの約束事自体が破られることはなかった。それに対して続編のフランシス・フォード・コッポラゴッドファーザー PARTⅡ』(1974)では、マフィア映画の構造を崩壊させることで、その裏に隠されていた「イデオロギー的機能」の実態を暴露するという、自己批判的な試みが行われているとジェイムソンは言う。

フランシス・フォード・コッポラ『ゴッドファーザーPARTⅡ』(1974) 

第一作では、マフィアという題材が企業によるビジネスの代替物として機能していたのに対して、二作目では、マフィアの活動がビジネスそのものになっていく様が描かれている。この物語は、現実のマフィアが合法的なビジネスを偽装しているうちに本当のビジネスマンになっていくという歴史の流れと連動したものとして見ることができるだろう。映画においても現実においても、アメリカのビジネスは国内勢力を伸ばし、国外にまでその規模を広げていこうとするが、キューバ革命という真のユートピア的展望によって拡大を遮られてしまうのだ。

さらには、第一作に描かれた家父長制的・権威的なマフィア家族という「ユートピア的・超越的機能」もまた、その背後にある性差別や暴力の存続が描かれることによって、正体を暴かれることになる。 第一作のゴッドファーザーであるヴィトー・コルレオーネの跡を継いだマイケルは、父親のように安定したマフィア家族を形成することができない。父権を発揮し、強力な権威を守ろうとすればするほど裏切りに遭い、次々に家族を失っていくのである。


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