マウンドの陽炎【掌編小説】

 僕がその男を見つけたのは町外れの草野球場だった。

 野球場といっても、そこはもう随分と前に現役を引退したグラウンドで、雑草に覆われたダイアモンドには申し訳程度にホームベースが置いてあるだけだった。夏の盛りの今は雑草も伸び放題で、ただの野っ原と変わらない有様だった。

 男は本来ならピッチャーマウンドのある辺りに立って、ホームベースではなく、ライト方向を眺めていた。その先に特に何があるわけでもない。ただ夏の空に夏の雲が浮かんでた。

 その男に目を留めたのは、なんと言ってもその格好が異様だったからだ。暑い盛りだというのに、真っ黒なスーツに身を包み、ワイシャツにネクタイまで締めていた。そんな人間が草ぼうぼうのグラウンドに立っている。不思議な光景だった。

 僕は自転車に跨がったまま、男を凝視していた。するとどうしたことだろう。男の足下の空間が滲んだように見えたかと思うと、陽炎のようにゆらゆらと揺らめきだしたのだ。そして男は、足下からスーッと消えていった。

 二度目の邂逅は、その数日後だった。同じグラウンドのピッチャーマウンドに男は立っていた。変わらず黒いスーツにネクタイを締めている。じぃっと見つめていると男がこちらを振り向き、視線がぶつかった。慌てた僕が目をそらす前に、男は口角をにやりと曲げ、鷹揚に手招きをした。

「そんなに俺が珍しいかい? 少年?」

 近寄っていく僕に男が声をかけてきた。すぐ側まで来てみて分かったのは、男が着ていたのが黒いスーツではなくて、喪服だということだった。

「いいなあ、少年は涼しそうな格好で。こっちは暑くて敵わん。暑くて敵わんが、おいそれと着替えることもできんしなあ」

 男は芝居染みた表情をつくり、四角い顎を撫でた。首筋を伝う汗が光っていた。僕の訝しげな目線に気がつくと、男は首をすくめポケットに手を突っ込んだ。中から出てきたのは汚れた野球のボールだった。

「少年は野球が好きか?」

 僕は首を縦に振った。

「好きだよ。あまり上手くないけど」

 僕が言い終わるのを待たずに、男は持っていたボールを空中高く、真上に放り投げた。反射的に目で追いかけたが、青空の光にボールは溶けこんでしまっていた。視線をふらふらと右往左往させる僕の隣で、男は落ち着いて二三歩後ろに下がり、右手を高く掲げた。渇いた音がして、男の手の中に落ちてきたボールが収まった。

「すごい」

 思わず口から言葉が漏れていた。それを聞いた四角い顔に微笑みが広がった。

「昔、甲子園に出たことがある。準決勝までいった。」

「本当に?」

「エースで四番。新聞にも載った。それも全国紙にな」

「ひょっとして、プロ野球選手とか……じゃないよね?」

 男は笑った。

「残念ながら、そうじゃないな」

 男の手を離れ、ボールがもう一度、空中高く飛んだ。緑のグラウンドを風が吹き抜けた。ボールは再び男の手に戻った。

「プロにはなれなかった」

「どうして? 甲子園に出たんでしょ?」

「俺たちは強かったよ……一番にはなれなかったけど強かった」

男は誇らしげにそう言った。眩しそうに目を細めたまま、続けた。

「あの夏はチーム全体に不思議な勢いがあった。全員のリズムが揃ってピークを迎えているような感じさ。全然負ける気がしなかった。誰にも、何処にも。俺たちは勝ち続ける運命を背負っている。そう確信した夏だった」

 八月の太陽は俺たちの味方だった。アルプススタンドも浜風も、俺たちの味方だった。マウンドに立つと津波のような歓声に飲み込まれた。金管楽器の奏でるコンバットマーチ、学友達が揃ってメガホンを叩く音、アナウンスで流れた俺の名前がどこまでも反響してスタジアムに染みこんでいく。例えようのない興奮が十代の若い体を駆け巡っていた。万能感が全身を満たし、マウンドを踏みしめるごとに力が湧いてきた。まるで自分が神話の巨人になったように感じた。

「でも俺は自分でそれをぶち壊してしまった。最終回で、俺はそれまで信頼していた仲間のサインを無視した。キャッチャーに対して首を振り続け、身勝手に投げた。でもそれは間違いだった」

 男はもう一度空を仰いだ。ボールを握りしめたまま、ライト方向をじっと見つめていた。

「俺はバカな勘違いをしていた。強かったのは俺自身じゃない。俺たちのチームだったってことに気がつかなかった。今でも思い出すよ。あの金属バットの甲高い音を。俺たちの夏は終わった。それはいずれはやってくる終わりだった。だが俺は、大会が終わってもあの時サインを無視した罪悪感をどうしても拭いきれなかった。俺の限界なんてそんなもんだったってことだ。中途半端でどこにも行けない」

 そこまで言って、男は途端に僕のほうへ向き直った。

「すまん少年、湿っぽい話をしたな。いかんいかん、俺もガキだなあ」

 男は歯を剥いて笑った。僕にはなんだかそれこそ小さな子供のようだと思った。

 午後の日差しが容赦なく照りつけていた。アスファルトの上には陽炎が立っていた。話を聞いている間も、僕はこの前、男が突然消えたことを忘れてはいなかった。あれは決して見間違いじゃなかった。僕は意を決してこう口にした。

「おじさんは、もしかして、幽霊なの?」

 声に出してみると、その響きようはあまりにも間が抜けていた。自分がとても子供じみた妄想をしている気がして、頬が熱くなった。男は面食らった様子でじっと僕の目を見つめている。違うんだ、ただの冗談だよ。面白くなかった? 焦って弁解の言葉を探している僕に、男は意外な一言を言った。

「幽霊じゃない。記憶だよ。俺は”俺の記憶”さ」

 そしてこう続けた。

「そうか……他人から見れば俺は幽霊、というか生霊みたいなものなんだろうな」

 男の足下の空間がじわりと滲んだ。地面から陽炎のような揺らめきがメラメラと立ち昇ってきた。僕は驚いて男の目を見た。柔らかな眼差しがそこにはあった。陽炎は次第に大きくなり、男の胴のあたりまでを包んだ。

「監督の通夜で久しぶりにあいつらに会った。9人とも見事な中年になっていたよ。かつてのチームメイトは、今はそれぞれの人生を歩んでいた。十代の頃の挫折は、すでに過去の笑い話になり、すべては水に流されたものと思っていた。だがチームメイトの一人がはっきり言ったんだ。『俺はお前をいまでも許していない』とな」

 あの夏、俺たちは9人で一つの生き物みたいな、完璧なチームだった。あの最終回で、お前がサヨナラホームランを打たれるまではな。いいか、勘違いするなよ。俺は試合に負けたのを責めているわけじゃないぞ。お前は俺たちの絆を損なったんだ。青春時代に培われるはずだった、美しい絆を、永遠にな。俺は時々思うよ、あの時、お前がスタンドプレーに走らず、俺たちを信頼してくれていれば、例え負けて、挫折を味わったとしても、それにまさる価値のある誇りを手に入れられたのにってな。それはもう二度と手に入らない。どうしてだ? どうしてなんだ? どうしてお前は俺のサインに首を振り続けたんだ? どうして俺を信じてくれなかった?

「苦いものが喉の奥をつたっていった。そいつに何て言い返したのか、全く覚えていない。ただ俺はいたたまれなくなって、いや、自分が恥ずかしくなって逃げるようにその場を立ち去った。気がつくとここへ来ていた。子供の頃よく草野球をしたグラウンドだ」

 男の体はもうほどんど、陽炎に覆われていた。蜃気楼のようにゆらめく体の向こう側から、僕はアルプススタンドの歓声を聞いた気がした。

「マウンドに立つのは二十年ぶりだった。甲子園とは似ても似つかない場所だ。ぼろぼろで貧相なダイアモンド。だが一人きりで立っているのは同じだった。二十年経ってやっと、俺は俺が損なったものの尊さに気がついたんだ。そのことを俺は忘れまいと誓った。その時の俺の記憶が俺なのさ。あの頃と同じ夏が巡ってくる度に、俺はこうしてピッチャーマウンドに立つんだ。かつての栄光と挫折、そして痛みと後悔をグラウンドに刻み込むために。……もうここに来たのも随分昔のことだ。もう十年は経っているはずだ。今の俺はどうしているんだろうな。白髪も生えてきた頃だろう」

 男はもうすでに頭の先まで揺らめきに覆われていた。表情もよく見えなかった。陽炎はゆっくりと消えていく。いつしか男の姿も風景に溶けて無くなってしまった。ただ草の上に一つ、汚れたボールが転がっていた。

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