【書評】『利休にたずねよ』を読む。自分の中の「毒」を大切に。
ロッシーです。
『利休にたずねよ』(山本兼一)を読みました。
面白かったです。
読み終わった後、緑茶を飲んでしまいました。
この小説で考えさせられたのは、
「人が持つ毒」
というものについてです。
誰しもが、毒をもっています。
仏法が説く「三毒」という概念には、
というものがあります。すなわち、「むさぼり、いかり、おろかさ」の三つです。
私もこれらの毒を自分が持っていることを自覚しています。
おそらくこの記事を読んでいる人だってそうでしょう。
でも、それでいいのだと思います。
「自分は毒など持っていないピュアな人間だ」
と思っている人のほうが、実は危険です。
キリスト教徒が、大航海時代に異国の地で残虐な殺戮をした歴史がありますが、彼らは「蛮族を偉大な教えのもとに教化してあげている」と思っていました。そして、自分達はピュアな存在だと思っていたのです。
それよりも、「自分は悪い人間だ」ということを自覚しているほうが良いと思います。
自覚していれば、それを露わにしないように気を付けるでしょう。
自覚していなければ、そういうことすらできなくなってしまいます。それは、ブレーキのない車で暴走するようなものです。
ただ、これはあくまでも「毒」を良くないものとして捉える発想です。
しかし、それでよいのでしょうか?
毒をもっと積極的な意味で捉えることはできないのでしょうか?
小説の中で、利休はこんなセリフを言います。
利休にとって、毒は単に避けるべきもの、抑えつけるべきものではありません。
「毒をもって、さらなる高みに至ること」と捉えていたのです。
毒も、結局は使いようなのです。
仕事がつまらないと思っている人が、不満を持ち愚痴を吐く。
それはそれでいいと思います。
でも、その愚痴を同僚に吐いてスッキリするだけでは、小さな毒で終わってしまうでしょう。
もしも、その不満や怒りが自分の仕事だけではなく、会社、社会とより大きな方向に向かい、その結果として世界を変えるほどの行動を起こすエネルギーになればどうでしょう。何かが変わるかもしれません。
利休は、お茶を飲むことを、「茶道」というものにまで高めました。
「お茶なんて形式ばらずに普通に飲めばいい」
「単なる器に高いお金を払うのはおかしい」
と考えれば、茶道なんて成り立ちません。
でも、そこに美学を見出し「道」にまで高めたのは、彼の功績でしょう。
自分の中の毒をできるだけなくすことも大事です。
あまりに強い毒は周囲も自分も傷つけてしまいますから。
でも、いくら頑張っても「消毒」はできません。
人が生きている限り、それは無理なことなのです。
どんな人だって、毒を抱えて生きていくほかないのです。
であれば、開き直って「大毒」を目指してみるのもアリなのかもしれません。
大きな毒を抱えることができるほどの器があれば、大きなことを成し遂げることができるような気もします。
「大毒は大善に通ず」
そんなことを考えながら、緑茶を一服しています。
最後までお読みいただきありがとうございます。
Thank you for reading!
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?