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進歩より衣食住を優先する社会のほうが結局進歩する説

ロッシーです。

ニュースを見ると、イスラエルとガザ地区の紛争について報道しています。こういうのを見ると、「日本に住んでいてよかった」と思うと同時に、「生きるか死ぬかの状況にいる人もいれば、自分みたいに部屋でゆっくりnote記事を書いている人もいるなんて、国ガチャだよなぁ・・・。」という気持ちになります。

「戦争はこの世からなくならない」とよく言われます。それが人間の本能に基づくものなのであれば、そうなのかもしれません。

しかし、本能に基づくものだから、というのも決めつけでしょう。例えば性欲は本能に基づくものですが、それをおおっぴらに開放してやりたいようにやる人はいません(やれば捕まります)。

人間の本能といっても、社会的な制度(慣習、倫理、法律など)によりコントロールできる部分があるわけです。もちろん、常に100%コントロールできるわけではありませんけど。

そう考えると、戦争だってもっとコントロールすることができる余地があるわけです。世の中から無くならないかもしれませんが、より効果的にコントロールすることは可能なわけです。

では、なぜコントロールができないのか。マクロ的に見れば各国の政治的な思惑があるのかもしれませんが、それらもミクロの視点に分解すると、結局のところ「安心して衣・食・住が確保できるようになっていない」ということが一番大きな要因になっていると思います。

「いやいや、先進国に住んでいる人たちは衣食住を確保できているじゃないか」という意見もあるでしょう。

ただ、ここで言いたいのは、週5日8時間働をせず「楽に」衣食住を確保できるようにはなっていないという意味です。

例えば、南の島の楽園で、生存に必要な食糧は狩猟採集活動を少しするだけで十分確保でき、あとは昼寝をするとか、木彫りの彫刻にいそしむとか、ダンスをするとか、気に入った相手と自由奔放な性生活を楽しむとか、そういうことが誰でも可能な状況を想像してみてください。

今の社会はそのようにはなっていないということです。それは先進国でも同様です。私達は働き続けてお金を手に入れなければなりません。月曜日になって「あ~今日は面倒だから1時間だけ仕事しよっと」ということは基本的に許されません。

そのような余裕を許すほどの資源が社会にないからです。

いや、本当は資源自体は十分にあると思います。無駄に廃棄される食品ロスなどを考えると、生存に必要な資源はあるはずです。しかし、その配分が不均衡になっているわけです。

ではなぜ配分がうまくいかないのか?

おそらく、それはもっともっと進歩したいという欲望のせいだと思います。

何をもって進歩と考えるのか定義の問題もありますが、一般的な意味での進歩と考えます。それは色々あるでしょう。火星に移住したい、自動運転を現実のものにしたい、絶対枯れない穀物をつくりたい、がんを治療する医薬品をつくりたい、もっと耐久性のある建物をつくりたい、今までにないデザインの衣服を創りたい、ネットの通信速度をもっと速くしたい、新しいiPhoneが欲しい、などなど・・・挙げればキリがありません。

それはそれで良いも悪いもありません。そうやって人類は進歩してきたのですから。

しかし、そういう風に「進歩」し続けるためには、特定の分野にリソースを集中させなければなりません。そして、そのためのシステムに私達は取り囲まれています。

幼い頃から集団生活をして学校に通い、組織の中で行動することを学びます。そして、青年期には高等教育を受け、その後多くは会社という組織で働くこととなります。そこでは蓄積された個人の知見を組織的に集合させ製品やサービスを生み出します。商業化に必要な資金は金融機関や株式により調達し、最終的に利益が出れば、国家は税金としてその上前をはねて、国家の運営および再分配を行う。これが今のシステムです。

そうやって特定の分野にリソースを集中すると、当然ながら集中されない部分がでてきます。

例えば、誰でも衣食住が確保できるようにするための財源を確保するなんていうのはまさにその例でしょう。

そんなことにリソースを使っていたら、他国との競争に負けてしまいます。国民は衣食住を確保できて「楽に」暮らせるかもしれませんが、他国がその間に経済力、軍事力、研究開発力をつけてしまえば、いつかきっと支配されてしまうかもしれません。

その「恐れ」があるからこそ、私達は進歩せざるを得ないわけです。自分から進歩したいと思っているというよりは、進歩という概念に追われ走らざるを得ないわけで、強制された進歩といってもよいでしょう。

でも、その恐れは本当なのでしょうか?

仮にどこかの国が衣食住の確保にひたすらリソースを集中させたとしましょう。一方で、これまでどおり一生懸命頑張って経済力、軍事力、研究開発力をつけた国があるとします。

後者の国は前者の国に軍事侵攻して支配し、その国民を奴隷化してこき使ったりするのでしょうか?もしくは間接的に前者の国の主要な企業の株式を保有するなどして、間接的に搾取をするのでしょうか。

歴史的な見地からその可能性は捨てきれない、と考えるのであれば、やはり私達はその「恐れ」が現実化しないよう進歩し続けなければなりません。

その場合、他国は潜在的には仮想敵国ですから、隙あらば相手が保有する資源を獲得したり、別の国と同盟するなどして、自国の優越性を最大化するように動かなければなりません。自国内では、引き続き経済力、軍事力、研究開発力に邁進しなければならないでしょう。


これまではそうやってきました。しかし、昨今の様子を見ていると、そういうことを続けること自体が難しくなってきたようにも見えてきます。

結局、そうやって進歩し続けることにリソースを集中して「衣食住の確保」をなおざりにしてしまうと、「いや、もう子供を産んで育てるの無理!」という現象が増え、結果として人口が減少し、国力も衰退するというループに入ってしまうからです。

どこの国とは言いませんが、すでにそういうループに入ってしまっている国も見受けられます。

進歩しようとすると、退歩が始まるというのは逆説的かつ皮肉ではありますが、現実にそうなのだとしたら、これまでと同じこと、つまり「強制された進歩」を続けることは、打ち手としては悪手なのではないでしょうか。

でも、そう思っても、進歩という線路を走る私達は、その強い慣性を止めるのは難しいかもしれません。走っている列車は急には止まれませんから。

しかし、いつかその列車が止まる可能性はあります。そうなれば、これまでの
「進歩 > 衣食住の確保」が、
「進歩 < 衣食住の確保」に切り替わる可能性はあります。

そしてさらにいえば、衣食住の確保がなされた世の中のほうが、より社会は進歩する可能性もあります。

「進歩せざるを得ない」状況下におかれた人間よりも、衣食住が確保された状態で本当に自分のしたいことに没頭する人間が多い社会のほうが、画期的な発明は増えるかもしれません。

何やら北風と太陽のお話に近いものがありますが、一度私達は立ち止まることが必要なのではないでしょうか。

立ち止まれないほど慣性が強いのであれば、少なくとも立ち止まる必要があると認識することが必要なのではないでしょうか。まずは認識がないと何も始まりませんから。

もう生活に必要なたいていのものはあります。もちろん改良の余地はまだまだあるかもしれませんが、例えば「人工知能が足りない食材を知らせてくれる冷蔵庫」の開発にリソースを割くのであれば、衣食住の確保にリソースを割くほうが良いのではないでしょうか。

私達はたくさんの便利なものやガジェットに囲まれています。テクノロジーも爆速で進化しています。でも、それでハッピーなのでしょうか。長時間労働し続けないと生活を維持できない社会はハッピーなのでしょうか。両親が幼い子供を他人に預けて会社で働かないといけない社会はハッピーなのでしょうか。ほとんどの時間を仕事に使い、あまった時間で消費をする社会はハッピーなのでしょうか。

これは価値観の問題ですが、本音では皆「もういい加減に進歩なんて止めてくれ!」と思っている部分もあるのではないでしょうか。

あらゆる人の衣食住が確保されている社会であれば、わざわざ戦争をする必要はないでしょう(断言はできませんが)。自分の資源が余っていたら、ほかの足りない人に分けてあげればいいでしょう。

それはジョン・レノンのイマジン的なユートピアなのかもしれません。

しかし、私達がユートピアを想像できるのであれば、実現はできると思うのです。

「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる」by ジュール・ベルヌ


最後までお読みいただきありがとうございます。

You may say I'm a dreamer. But I'm not the only one.

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