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古井由吉関連の連載記事、および緩やかにつながる記事を集めました。
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#日本語

木の下に日が沈み、長い夜がはじまる

木の下に日が沈み、長い夜がはじまる

 本日、二月十八日は古井由吉(1937-2020)の命日です。

 樹の下に陽が沈み、長い夜がはじまる。机に向かい鉛筆を握る。目の前には白い紙だけがある。深い谷を想い、底にかかる圧力を軀に感じ取り、睿い耳を澄ませながら白を黒で埋めていく。

 目を瞑ると、そうやって夜明けを待つ人の背中が見えます。

 合掌。

※ヘッダーの写真はもときさんからお借りしました。
#古井由吉 #杳子 #夜明け

山の記憶、「山」の記憶

山の記憶、「山」の記憶

 今回は、川端康成の『山の音』の読書感想文です。この作品については「ひとりで聞く音」でも書いたことがあります。

◆山と「山」
 山は山ではないのに山としてまかり通っている。
 山は山とぜんぜん似ていないのに山としてまかり通っている。

 体感しやすいように書き換えると以下のようになります。

「山」は山ではないのに山としてまかり通っている。
「山」は山とぜんぜん似ていないのに山としてまかり通って

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とりあえず仮面を裏返してみる(断片集)

とりあえず仮面を裏返してみる(断片集)

 今回も断片集です。見出しのある各文章は連想でつないであります。緩やかなつながりはありますが、断章としてお読みください。今後の記事のメモとして書きました。

看板、サイン、しるし

 街を歩くと看板がやたら目に付きます。目に付くと言うよりも、こちらが無意識に探しているのかもしれません。無意識に物色しているとも言えそうです。

 たぶん、そのようにできているのでしょう。看板は人の目を惹いてなんぼだと

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蝶のように鳥のように(断片集)

蝶のように鳥のように(断片集)

 今回の記事では、アスタリスク(*)ではじまる各文章を連想だけでつないでありますので――言葉やイメージを「掛ける」ことでつないでいくという意味です――、テーマに統一感がなく結びつきが緩く感じられると思います。

 それぞれを独立した断片としてお読みください。

     *

 ない。ないから、そのないところに何かを掛ける――。

 何かに、それとは別の何かを見る――。これが「何か」との出会い。遭

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まばらにまだらに『杳子』を読む(02)

まばらにまだらに『杳子』を読む(02)


あらわれ
 たった一人で登山をして下山する途中に深い谷底にたどり着いた若い女性がいるとします。その人が「小さな岩を積みあげたケルン」を目にしたときに、どんな反応を示すでしょうか。

     *

 ところで、古井由吉作『杳子』の「一」という章では、杳子の見つめるケルンを形容するさいに石という言葉が使われず、「岩」とされています。私はやや不思議に感じるのですが、この点については別の機会に触れるつ

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まばらにまだらに『杳子』を読む(03)

まばらにまだらに『杳子』を読む(03)


しる、しるす、しるし
 谷底の河原で杳子が見つめていたのは、人が積んだ「小さな岩の塔」ですが、登山がおこなわれている山にある積み石は、道しるべや目印のようです。ただし、ケルンについて調べてみると山で石を積む行為には批判的な意見も多々あります。

『杳子』では、以下のように「誰かが戯(たわむ)れに積んでいった」という断定口調の形容がありますが、アイロニーなのかもしれません。

(『杳子』pp.8-

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まばらにまだらに『杳子』を読む(05)

まばらにまだらに『杳子』を読む(05)


ともにふれる、ともぶれ
 和語に漢字を当てる。文字がなかったらしいこの島々の言葉の音に、大陸から伝わったと言われる文字を当てて分けて、その文字列をながめる。

 すると、意味が重なっているさまが視覚的に迫ってきて(これが文字の力のすごさです)、意味をなす言葉の身振りがシンクロ(共振、共鳴、ともぶれ)しているように感じられます。

 私の場合には、小説を読みながら、頭のなかで漢字分けによる感じ分け

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まばらにまだらに『杳子』を読む(06)

まばらにまだらに『杳子』を読む(06)


たつ、たもつ、もつ
 古井由吉の『杳子』を読んだ人が共依存という言葉を口にするのを何度か聞いた覚えがあります。

 依存、たよる、もたれる、よりかかる。
 共依存、たよりあう、もたれあう、よりかかりあう。

 たしかに、この小説全体にそうした身振りが満ちています。そして、その身振りの象徴として、作品の冒頭で杳子の目に映ったケルンがあるのではないか。私にはそう思えてなりません。

     *

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「私」を省く

「私」を省く


「僕」
 小学生になっても自分のことを「僕」とは言えない子でした。母親はそうとう心配したようですが、それを薄々感じながらも――いやいまになって思うとそう感じていたからこそ――わざと言わなかったのかもしれません。本名を短くした「Jちゃん」を「ぼく」とか「おれ」の代わりにつかっていました。

 さすがに学校では自分を「Jちゃん」とは言っていませんでした。恥ずかしいことだとは、ちゃんと分かっていたよう

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