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「禧」に込めるもの

みなさん、こんばんは。禧螺です。

今日もnoteをご覧いただき、ありがとうございます。


みなさんは、もうバレンタインのチョコレートは用意されましたか?

私にとってのバレンタインは「創作うちのこの魅力を解放する日」だと思っているので、かわいいかっこいいバレンタイン絵をかいたり、うちのこイメージのチョコレートを食べたりして、楽しみます。


本日ですが、私の名前の一部「禧」について、少し語ってみたいと思います。



私の名前遍歴を、ごく簡単にまとめると、

「綺羅」→「禧螺」

で、読み方は「きら」から一切変更していません。

「どうして名前変えた?」と思われている方もいらっしゃるかと思いますが、詳細は下の記事にて紹介していますので、よろしければご覧ください↓


実用面から言えば

「きらさん、この漢字が変換できないので、ひらがなもしくはカタカナで書いていいですか?」

と、報告してくださる方が何人かおられました。

私が自分で書いた「禧螺」をそのままコピーして、辞書登録してくださった方もいらっしゃいました。
(辞書登録してくださった方、お手数かけました。本当にありがとうございます。)

特に「禧」は、訓読みでは「さいわい」と読むのですが、訓読みで漢字検索しても常用漢字ではないため、変換できる機器と出来ない機器があるようです。


そして、上記の記事の中で「禧」がなんとなく使ってみたかったと、書いているのですが、その部分を最近深く掘り下げてみました。

「禧」は「さいわい」の他に「よろこび」「めでたい」とも読める字です。

字の形は「しめすへん」に「よろこび」をあわせます。

これを、文字の学問的にどう表現するのかは分からないですが「独自解釈で良いから聞かせて!」と言われると

神をよろこぶ
 
神はさいわいなるかな 
 
神はめでたきもの 

と見ています。

肝心なことを申しておきますが、ここの「神」は、何かしらの絶対神を見ているのではありません。

この神は、

「わたし」であり

わたしに関わってくださる「あなた」であり

わたしとあなたが出会った「せかい」であると、思っています。

この時代、この世界で出会えたことを、お祝いしたいと思ってくださっている人と一緒に、お祝いしたい、喜び合いたい、支え合いたい、成長し合いたいと、思って出たのが「禧」です。


そうして暮らしていくためにも、まだまだ意識して

「自分がいただいてばかり、自分が与えてばかりの状態」をやめる方向に持って行きたいと考えています。

少なくとも、そう意識してしまうようになった関係や集団から、離れる勇気が必要です。

簡単なことではないですし、場合によっては、それで傷付いてしまうこともあります。

それでも、好きな人や、お世話になっている人に「与えたい」と思うならば、自分の与える配分、もらう配分を「調度良いところに調整する」ことは、私には必須課題です。


「先に自ら与えよ」といった文言を聞いたことがあるのですが、それを拡大解釈して

「心身をすり減らしてでも、先に自らを与えよ」

と思っていたところがあります。

はっきり言って、こう解釈している間は「生き地獄」と表わしても過言ではないです。

自分をすり減らして与えることほど、しんどくてつらいくてくやしいことはありません。

それを自覚していながら、なにかしらと関係を保ち続けようと思って必死に行動していた以前の私は、正真正銘のおばかさんです。

自分が、よろこべて、さいわいで、めでたい気持ちでいることが、大事です。


それが満たされつつ、わたしも、あなたも、せかいもいないと、よろこべないです。

どこかで別れることがあったとしても、どこかにいると思えるから、よろこべて、さいわいに思えて、めでたく感じられるのに。

私をほんの少しだけかすって行かれる方でも、きっとそれが「よろこび」が満ち足りる量なのだと思います。


少なくとも、私の「禧」で関わる人が、今日もよろこびでありますように。



みなさんからのスキに、今日も「禧」いっぱいに過ごせます。

この記事にお時間をいただき、ありがとうございました!


それでは、今日はここまでです。

みなさんが、穏やかに過ごせますように。


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