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万葉集の巻第五は著しく「漢風」が色濃い件

▼前号では、「令和」の出典となった舞台の「観梅パーティー」そのものが虚構であること、そして当時のエリートの集まりである万葉歌人たちは、その宴の虚構を明示することも含めて、歌を詠むことを楽しんでいた、という史実を紹介した。

▼小学館の『新編日本古典文学全集』については、2019年5月12日付の読売新聞で山本淳子氏が取り上げていた。山本氏は〈この「令」と「和」は事実ではなかったのかもしれない〉と述べ、〈皆で架空の宴を楽しんだ〉こと、そしてその虚構を明示したことについて、〈これは彼(大伴旅人)の寛容であり、さらなる風流とも言えるだろう。〉と鋭く指摘してる。

さらに続けて〈いつの世も、人は誰しも、令(よ)き和(なご)みを求める。それがこの序文の真意だったのだと思う。その思いは祈りと呼んでもよい〉と独創的な見解を示している。

▼「令和」について、すでに原典からは遠く離れた意味になっていることは、すでに触れた。そして「令和の時代」は、「解釈の時代」になるかもしれないと書いた。上記のような「令和」の解釈もまた、自由な解釈のひとつのあらわれである。

時が経つにつれて、解釈の種類は増えていくだろう。

▼せっかく日本最高峰の小学館の日本古典文学全集に触れたので、もう少しだけ紹介しておこう。

▼巻第五についての解説から。

この巻は万葉集二十巻のうち最も異色あるものである。〉として、五つの特色を挙げている。そのうちの二つめ。適宜改行。

〈その第二は、一貫して漢風が色濃く認められることである。万葉集が後世の数ある歌集のどれとも大きく相違する点の一つとして漢詩文が含まれている事実が指摘されている。中でもこの巻第五は、(中略)漢文の合間合間に歌がはめ込まれていると言ってもよいくらいである。

その漢文には筆録者自らの意識としては、かなりに高度の知識と技巧を凝らした文章と自認しているかのような気負いが認められる。〉(『新編日本古典文学全集7 萬葉集2』461頁)

▼たしかに、2019年4月1日以降、一躍有名になった「梅花歌三十二首」の「序」についても、小学館版万葉集では〈この序は、王羲之の「蘭亭序」や王勃・駱賓王などの初唐詩序の構成や語句に学んだとみられる点が多い〉(39頁)と注解されている。これはすでに広く知られるようになった情報と同趣旨のものだ。

▼初の国書を出典とした元号である令和は、それまでの明治、大正、昭和、平成との明快な違いがある。

それは、上記のような漢文の影響を、公式声明では認めない、という点であり、それと同時に現れたこれまでとの違いは、明治、大正、昭和、平成には、いちおうは「どういう政治を目指すべきか」という直接の「論理」があったが、虚構の宴の背景説明からとった「令和」の解釈に、それはない、といことだ。

出典の「令」と「和」の意味 令=〈佳き〉、和=〈風はやわらか〉

■「令和」の意味 〈人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ〉

近代以降、初めて「どういう政治を目指すべきか」という直接の論理なき元号になったのが令和の時代だといえる。そして、直接の論理はないのだが、そこには「美しさ」を求める安倍総理の政治的意志があり、「一億総活躍社会」を目指す安倍総理の政治的意志が色濃く認められる。

これは、法的には正統性のある話で、時の政権の意志が元号に反映されないとなれば、元号に最初に意志を込めるのが天皇自身になりかねず、そうなれば日本国憲法下の政治体制は崩壊する。

「とはいえ、安倍総理と中西進氏はしゃべりすぎだ」というのが、筆者の個人的な印象だ。先月から今月にかけての「令和」のにぎやかな出発を見聞しながら、わが社会がけっこう不安定な政治的土台の上に成り立っていることを、あらためて実感した。

また、「社会」の論理と「国家」の論理とは、まったく異なることも実感した。両者をうまく付き合わせるための「メディア」の役割の大きさも実感した。

▼もしかしたら、明治から令和までの元号史の変遷をたどると、その時々の政治権力のありかたをめぐる何らかの変化が見えるのかもしれない。(つづく)

(2019年5月15日)

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