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印鑑みたいな恋をした

「おはようございます。早起き頑張ったね」

学校で使う紙よりは少し厚い紙に赤い丸が並ぶ。

日付で区切られた枠に押されたそのハンコは、毎朝のラジオ体操が終わると、帽子を被った優しそうなおばさんがぎゅっと力をこめて押してくれるものだった。

律儀に毎朝、校庭に足を運んでいたが、そのおばさんが持っているハンコさえ手に入れば、もう早起きせずとも厚紙に赤い丸を並べることができるのにな、と思っていた。

もっさんはそう、意外とずるいのである。

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汗ばむ季節だった。

バイト先に入ってきた細身の男の子、光一くんは、唇が分厚く、少し出っ歯な前歯と八重歯がトレードマークの明るい性格の持ち主だった。

好き嫌いが激しく、自分の感情をすぐ表に出すので、気の合わないメンバーとは衝突した。

一方、私のように存在感が薄く、争い事はとにかく避け続ける人たちとはゆっくりではあるが距離を縮めていった。

光一くんは自身の垢抜けた見た目とは裏腹に、大人しく自分の話をあまりせずに聞き役に徹するような、正反対の人たちと仲良くすることを好んでいるようだった。

誰とでもうまく働けるわけではない光一くんは、古参メンバーの中でとりわけ静かな私と一緒のシフトになることが多くなった。コンビニ店員というのは黙々と仕事をこなさないといけない時間帯がある一方、深夜から朝方にかけては補充さえ終わってしまえば意外と暇だったりする。その時間にポツポツと話すことが増えた。

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意外な共通点は押し花だった。

私の家では祖母がたくさんの花を育てている。その花たちは家の中に義務的に飾られた後、麻紐で吊るされてドライフラワーとなったり、分厚い辞書の間に挟まれて押し花となったりする。祖母は押し花を本のしおりに加工する。あまりにも大量にあるので、文庫や新書に挟むだけではなく、気に入ったものを長財布に入れたりしている。


バイトを終え帰り支度を整えたとき、カバンから財布がおち、少し空いていたチャックの間からしおりが顔を出した。

拾ってくれた光一くんは私の目をじっと見た。

「これ、フリージアですよね。押し花作ったりするんですか?」

「う、うん。まあやっているのは祖母だけどね」

「僕、花をよく買うんですけど、捨てるのが嫌で、雑誌とか本の間に挟んでおくんですよ。どうするわけでもないんですけど、一回読んだ本を開いた時に押し花が見つかるのが、なんだか宝探しみたいで嬉しくて。もっさんも押し花好きだと思うと、急に親近感湧きましたよ」

あ、今までは親近感とかなかったんだな、とちょっと苦笑してしまう。

でも、私にとっては当たり前のような祖母の押し花が、私と光一くんという正反対の存在を結びつけてくれたのだなと思うと変な気持ちだった。

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一緒に帰ることになった。

私は自転車を押しながらとぼとぼと歩き、光一くんは黒色のブーツをカツカツと鳴らしながら歩く。

たくさん話をした。
光一くんが大阪出身だということ。
家庭が貧しかった反動で、バイトをたくさんしていること。
奨学金を返すために大企業に入ろうとしたが、面接でいいスーツをきている面接官を見たらムカついてしまってフリーターをやっていること。
英語が好きで今も勉強していること。
好きな子が全く振り向いてくれず引きずり続けていること…


色々と遠回りをして光一くんの家まで歩いたが、その30分間はあっという間で、話し足りなかった。

「もっさん、うち上がっていきます?」

「え、あ、うーんと、じゃあ少しだけ」

いつもなら断るであろう私が誘いに乗れたのは、花が背中を押してくれたからだろうか。


銀色の鍵を差し込み開いた扉の先は、全く目にしたことのない世界だった。

1Kのその部屋は、ドアを開けて左手に1口コンロのキッチンがある。狭いシンクはまさに一人暮らし用だ。その対面には浴室。脱衣所がないところが、古い建物を象徴しているようだった。

7畳くらいの部屋にはセミダブルのベッドが一つ。中央にはローテーブルが置かれ、右手壁沿いにはテレビ、その隣に本棚がある。本はざっと、30冊くらいはありそうだ。結構読書家なのかもしれない。

脱ぎっぱなしの靴下とかジャージとかはあるが、床は思ったより綺麗だ。

本棚の上には透明のガラスの花瓶があり、紫色のドライフラワーがいけてある。その花瓶の下には、色とりどりの押し花が置かれ、しっとりと寝ていた。


「あ、本当に押し花たくさんあるね」

「本の中から見つかったらそこに置くようにしてるんです。ちょっと汚いかもしれないけど、そこに雑多に置かれてる押し花を見ると、見とれて時間が経っちゃう時もあるんですよ」

光一くんが八重歯を見せた。

「もっさん、お酒飲みます?」
「え?」
「だって夜勤明けで明日休みでしょ?僕、お酒好きなんで、家に結構あるんですよ、どうですか」

光一くんはプシュッとハイボールの缶を開ける。

「あ、じゃあもらおうかな」

私もハイボールの缶を受け取った。
ひんやりとした缶は、半袖で過ごせる時間が増えたこの時期にぴったりの冷たさだった。

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ローテーブルを挟んだわたしたちは、ささやかに乾杯と声を揃えた。

「もっさんは好きな人いますか」

「いないよ。気になっていた人はいたけど、もうやめてしまったから」

「え?うちにいたんですか」

「え、あ、まあ、でも…まあ光一くんは会ったことないから言うけど、昔働いていた人なんだよね。とってもかっこよくて社交的で、みんなからの人気者だったの」

「それって櫂くんですか」

「あれ、なんで名前」

「事務所に集合写真貼ってあるじゃないですか。それ店長に聞いた時に櫂くんの送別会だよって言っていました。それもっさんもいたから、『こういうの参加するんだ』ってちょっとびっくりしました」

「私だってたまには参加するよ。でも確かに、普通はあまりいかないかな」

「そんなにいい人だったんだ〜へえ〜」

光一くんはグッとハイボールを飲む。私も真似してハイボールをグッと飲む。冷たいお酒が胃に落ちると、なんとなく回っていない頭の動きがさらに鈍くなる。

「光一くんはさっき言っていた子、まだ好きなんだ」

「あの子を超える子はいないですね。
大学時代に同じサークルでずっと仲良くしてて、幼馴染のような存在なんですよ。でも、腐れ縁で何をしていても繋がっているみたいな関係じゃなくて、お互い人間的に好きで、思い合っていることが明白で。だけど、それが恋愛なのか友達なのかっていう違いがあるので、なかなか付き合うとかにはならなくて。
俺は付き合いたいし、もう2人だけの世界になってもいいと思っているくらいなんですけど、向こうは恋人を作って、親友の俺もいれば楽しいって言ってくれる感じで。結構辛いっすね」

純粋にわからないなと思った。好きな人ができたことはあるが、恋愛をしたことのないような私にとって、そこまで相手を強く思い、2人だけの世界でもいいと言い切れる感情を持ったことがない。


「そうなんだね。そんなに好きだったんだ。私はあまり経験がないからな〜」

「そうですか。どうですか、光一のことは」

「え?どういうこと?」

「俺、かっこいいでしょ?笑」

「うん、まあかっこいいなとは思うけど…」

「はははは。もっさん可愛いですね」

光一くんは笑っている。どんな真意があって私を可愛いと形容するのだろうか。恋愛対象になるような男性から可愛いと言われる日が来るなんて。それが相手の家でお酒を飲んでいる時だなんて。

私人生にこういう瞬間があるなんて全くもって想像していなかった。


私が黙っていると光一くんはカバンから1本タバコを取り出して火をつける。一瞬だけ甘く香り、すぐに苦味を感じるそのけむりは、部屋のどこかへすっと消えていく。光一くんはもう一度私の目を見て笑った。タバコを持つ中指にしているシルバーのリングが、鈍く光った気がした。

その後、なぜそういうことになったのかはわからない。私は光一くんの手招きでベッドへ座り、唇を重ねた。不快ではない苦さが体に入ってきて、それが光一くんの味なんだと覚えておくことにした。好きな人同士しかしない行為は、こんな快感や安らぎをもたらしてくれるものなんだな。

そこから先には進まず、お互いの唇を求めるだけで時間は過ぎた。自分のかいた汗に色がついているような気がした。とても暖かみのあるような色だったと思う。

光一くんは心なしか目尻が下がり、いつものかっこいい顔から可愛い顔へと変化していた。この夢はいつまで続くのかなと勝手に考え、少し寂しくなった。光一くんの胸に顔を埋めると、外からは雨音が聞こえ始めた。

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「もっさん、起きて」

「ん、あ、はい」

「ごめんなさい、俺これから飲み会行かなくちゃいけなくて」

「わ、ごめんなさい。私寝てたんだ。何時?」

「もう6時。うちに8時間くらいいましたね笑」

「ごめんなさい、ごめんなさい。本当に」

「いや、大丈夫ですよ。またきてください」

「お邪魔しました」

私は持ってきたもの全てをカバンに詰め込み、逃げるように扉をでた。「またきてね〜」という光一くんの声にも手を振るだけで、急いで自転車に乗った。自転車を漕ぎながら、まだ頭は混乱していた。

私、キスした?異性のベッドで寝た?何かの手違いで異世界へ飛んできたけど、意外と順応している自分がいて、脳みそだけついてきていないという感じだった。「可愛い」という光一くんの声が頭の中に響き続けていて、充足感に満ちていた。恋愛はこうやって始まるのかしら。

光一くんと週3回くらいシフトが同じになるが、夜勤明けの日は決まって光一くんの家に行った。何度行っても扉の向こうは異世界で、そこにはお酒とタバコがあって、光一くんの唇があった。世間のカップルはそれ以上の行為をすることを知っているけど、私と光一くんはキスをし続けた。光一くんの手招きでそれは始まり、唇を重ね、光一くんの味をあじわい続けていた。腰が砕け落ちそうになるこの感覚は、光一くんしかもたらすことができないな、と思っていた。

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3ヶ月ほど経った秋めいた日。

例によって夜勤明けに光一くんと帰っていると、光一くんの携帯電話が鳴った。

「あ、うん。今終わったよ。わかった、じゃあ12時に」

「何か予定あった?」

「俺、恋人ができたんですよ!ようやく、昔の子を忘れられそうです」



これが失恋ですかね?

ショックとか悲しいとかじゃなくて、純粋にわからなかった。私と光一くんが付き合っているとは思っていなかったけど、お互いに思い合っていると考えていた。それが勘違いではないと思うけど、私が光一くんとゆっくり築き上げていたこの関係が、ある日突然出てきた人に負けてしまうような弱いものだとは思っていなかった。

「あ、そうなんだ。どこで知り合ったの?」

「飲み会で。友達の友達って感じですね」

「へぇ〜そうなんだ」

「この後、家に来るようで笑 まだ時間あるんでもっさん送っていきますね」

「え、うん、でも大丈夫だよ。私自転車だし」

「そっか、足手まといになるかもしれないから、じゃあこの辺で。また!」

「あ、さようなら〜」

足手まといじゃないよという言葉を挟む余地もなかった。自転車に跨ってしばらく空を見る。曇り空が眩しい。今私の目の前では何が起こっていたのだろう。


家に帰ると祖母がちょうど、庭で花の手入れをしていた。

「ただいま」

「見て、あやか。金木犀がそろそろ咲きそうだよ。今年もいい匂いがするんだろうね」

「おばあちゃん金木犀大好きだもんね。早く満開になるといいね」

「そうね。リビングにはリンドウが飾ったからね。また押し花にするね」

「はーい、私は寝るね」

リビングのリンドウを一目見る。青と紫の色が鮮やかで綺麗だった。そういえば、光一くんの部屋にあったドライフラワーも紫色だったな。まあ、いいか。

部屋のベッドに入る。夜勤明けのベッドはなぜこんなに気持ちいいんだろう。温かくてサラサラしていて全身を包んでくれる。不意に口にタバコの味を思い出したけど、目をつぶる。時間がたてば、きっと、きっと、きっと、大丈夫だ。右目から涙が溢れ、こめかみを濡らす。まあ、それでも、きっと、きっと、きっと私は大丈夫だ。疲れというのは良いもので、私を夢の世界へと連れて行ってくれた。

心に痛みを感じながらも、ぬるぬると毎日を生きていた。

相変わらずシフトは光一くんと一緒だし、向こうからたくさん話しが飛んでくる。私もそれに答え、バイトが終われば一緒に帰る。ただ、そこにないのはキスだけだった。

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秋も深まってきた頃、家に帰ると押し花がラミネート加工され、本のしおりとなっていた。祖母が置いておいてくれたそのしおりにはリンドウが挟まれている。光一くんから恋人ができたと報告を受けたその日、リビングに咲き誇っていたその花からは水分がなくなり、真空パックのように時を止められていた。

私に似ていると思った。

私の中にあった驚きと呆れと悲しさが混ざった光一くんへの感情は、分厚い日々の生活に押しつぶされ、色だけを保って心の中にあった。

それを思い出という入れ物に真空パックにした。ずっと大切に持っていることもないと思うが、とりあえず一時的には保存しておこうと思っている。たまに思い返しては寂しくなったり、切なくなったりして、でもいつかきっと忘れてしまうのだろう。

祖母が作ったリンドウのしおりを見た時、光一くんを思い出すのだろう。
だけど、このしおりもいつかどこかに忘れたり、捨てたりするだろうから、きっと光一くんのことを思い出すきっかけも無くなっていくのだろう。

夜勤シフトが被り、仕事と同じような真面目さで唇を重ね合った日々。それが私の唇に印をつけて、心を満たしてくれていた。お互いの心にあった寂しさの枠にハンコを押して埋めあった日々は、きっといつか風化していくのだろう。

あの唇さえ手に入れば私は満たされ続けていたのかもしれないけど、そうじゃないのだろう。唇を持っている光一くんが、私の唇に印をつけてくれるという行為が私にとっては大切だったのだ。

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もっさんはぎゅっと下唇を噛んだ。乾燥した唇からは少し血が出た。

この傷も少したてば治る。

タバコの味はもう思い出せなくなる。



<環プロフィール> Twitterアカウント:@slowheights_oli
▽東京生まれ東京育ち。都立高校、私大を経て新聞社に入社。その後シェアハウスの運営会社に転職。
▽9月生まれの乙女座。しいたけ占いはチェック済。
▽身長170㌢、体重60㌔という標準オブ標準の体型。小学校で野球、中学高校大学でバレーボール。友人らに試合を見に来てもらうことが苦手だった。「獲物を捕らえるみたいな顔しているし、一人だけ動きが機敏すぎて本当に怖い」(友人談)という自覚があったから。
▽太は、私が死ぬほど尖って友達ができなかった大学時代に初めて心の底から仲良くなれた友達。一緒に人の気持ちを揺さぶる活動がしたいと思っている。
▽将来の夢はシェアハウスの管理人。好きな作家は辻村深月

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