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363.人生に悔いがない、なんて信じない!だって、悔いだらけなんだもの。

(16)人生に奇跡を呼ぶ方法

1.  もし、この世界から自分が消えたら


※この1.の部分だけ、昨年の終わりに書いたもの。少し季節外れだけれど、また、この7月に同じ思いで病院にいるのかな~と思いつつ 、振り返り。



もうすぐ寒い冬が来ますね。
冬が来ると寂しい、早く春が来てほしいと誰もが願う。
でも、この寒い冬をゆっくりと味わう時が必要なのかな。
 
coucouさんはね、子どもの頃に病院の窓からいつも外を眺めていた。

確かに花が無くなり、青々とした木々や葉っぱなどがなくなり、残された骨のような枝ばかりでとても寂しく感じていた。

でも、真冬の寒空の中にでも小さな青芽が一つ、それがやがて二つ、三つと増えていくことを楽しみにしてした。(枯葉の中の芽は素敵だからね)

小さな青芽は風雪や寒さにも耐え続けてやがて数多くの葉となる。

coucopuさんはその風景を、成長を毎日眺めながら、それが唯一の希望となって、いつこの世を去るのかと考えながら、日々の時間を大切に生きて来たことを想い出す。
 
手術をするとき、全身麻酔をする。
ほんの一瞬だけど時間が止まる。

止まるというよりも、パソコンがシャットダウンする状態で、
夢や幻など一切見ることはないし、感じる事ができなくなる。

まさに音もない真っ暗闇のシャットダウン状態。

その瞬間、coucouさんはこの世界から消えてしまうんだ。
 
この世界から消えてしまうというのは、どんな状況なのかといえば、
それは「無の世界」

完全なる「無」

人は死んだらあの世に行くとか、そんな世界は存在しない、あると思えばあり、ないと思えばない、というお坊さんの説法ではないけれど、coucouさんは、あると思うなら、あるという考え方なのだけど、この手術の場合は完全にシャットダウンしているため4時間~5時間ぐらい無の時間帯だった。

術後に目を覚ました時の時間意識は、わずか数分レベルだったので時間の感覚がない。(身体は動かず、声が出ない)
 
でもね、わずかな時間だけどcoucouさんはこの世から消えた。

人間は死ぬ時には、誰も死んだという自覚がなくこの世を去るために葬儀が行われお別れの儀式を行う。

まだ地上に残る魂(霊)に死を知らせるためだという。
死んだという自覚を与えるために7日間だけこの人間界に魂を残し、納得してあの世に向かわせる。


 
でも、無の意識、死んだと同じ意識のままcoucouさんの魂や霊体はそのまま身体の中で眠ったままで、術後に同時に意識として目覚めたようだ。
 
coucouさんがこの世界から消えたらどうなるのかな?

もちろん一部の人は悲しんでくれるかもしれないけれど、
もし、coucouさんが死んだことを誰も知らなかったらどうなのかな?

そう、何も変わらないよね、きっと。

あいつはどこかにいるのだろう、というレベルだと思う。

こんな世の中の去り方も素晴らしいかも知れないね。
 
でも、coucouさんがこの世界から消えたら、
coucouさんはこの世界を二度と見る事ができなくなる。

一億七千万人の人々が暮らすこの日本という世界に、一億七千万人が見ている異なった世界観、世界の一つが消えてしまうのだもの。

世界は他人から見た世界と、
自分が見ている世界はまるで違うものなのだけれど、
自分の世界を失うんだ。
 
まさに「時間=生命(いのち)」、「自分の世界=時間」なんだね。

©NPО japan copyright association Hiroaki

2. もし、目の前の世界が消えたら


 
何の気なしに過ごしている私たちの世界、
当たり前に思うこの世界、
毎日が同じようにたいくつで変化のないこの世界、
毎日同じ道を歩き毎日同じ人に会い、
毎日何かしら食べて、
毎日嫌な思いをして、
いつも寂しくて、
いつも不安な毎日を過ごす。
 
でもね。大切な人と別れるのは辛いけれど、
目の前のこの世界と別れるのも寂しい事だよ。

世の中って、たいくつでとてもつまらない世界だけど、その世界は何かしら私たちに語り掛け続けている気がする。

道端に咲く名もない花たち、いつも刈られてしまう雑草たち、鳥の鳴き声、煩い近所の野良猫や犬の声、虫たちの泣き声、風の音、暑さ、寒さ、雨、風、雪と何も見えなくなるのはとてもつまらない。
 
こんなに、つらく寂しいことはないよね。

coucouさんの全身が動かせなくなったあの頃、coucouさんの唯一の希望がこの世界だった。

ラジオやテレビもなく夏は冷房設備のない病室だったけど、窓から入る花の匂い、木々や草花の香り、毎日同じ角度でしか見れない景色でしたが四季の素晴らしさ、夜空の美しさ。

子どもたちの遊ぶ声や車の騒音などが私にこの世界を伝えてくれた。
冬の寒い風などは、かなりインパクトがあり感動と寒さに震えた。
 
目の前の世界が消えてしまったら、
何よりも大好きな人と会えない、
姿が見えない、声が聞けないというという寂しさもある。

誰とも会えない、話せない世界では人恋しくなるのですね。
 
みなさんはどう感じますか?

©NPО japan copyright association Hiroaki

3.  もし、大切な人がいなくなったら


「時間=生命(いのち)」は自分だけではありませんね。

自分以外の他の人にも時間があるよね。

時間は決して自分だけのものではない。

自分がこの世界からいなくなっても、自分がいなくなるだけのことだけど、大切な、かけがえのない人がこの世界からいなくなったならどう?

今までは、いて当たり前、
傍にいてくれて当たり前、
何かしてくれて当たり前だったけど、
その人がこの世界からいなくなり、自分だけが残される訳だから、
またそれは別の世界に変わってしまう。
 
その人がいた世界と、
いなくなった世界とでは、
まるで別世界のような感じがしてしまう。

それは、大切でかけがえのない人は、
みな自分と共有する何かがあるからなんだ。

その共有とは同じような考えであったり、
同じような思いであったり、
理解し合う関係、支え合う関係のようなものさ。
 
今まで一緒に暮らしていた夫婦であったり、子どもであったり、両親であったり、大好きな人がこの世界からいなくなってしまったら、ただ悲しい、ただ悲しむだけで終わりなの?

人の寿命(時間)は無限ではなく、有限な限りあるものだものね。

 
どんなにお金持ちであっても、
貧乏人であってもその時間はある意味平等かもしれないけれど、
(有限だという点)。
ただ、若くしてこの世を去る人もいれば、
長寿を全うする人もいるけれど、
その限りある時間を誰も決める事ができない。
 
自分の人生に悔いなく生き切ることも大切だけれど、
その大切な人とも悔いなく生きる事も大切なことだよね。
 
人生は悔いのない人生などありえないという人がいるけれど、
それって、本当?

確かに悔いは必ず残るのと思うけど、
全力を尽くし、努力をして、あらん限りを尽くした場合、
その悔いを超える事ができると、coucouは心から信じているんだ。

悔いなど残らない、
悔いなど残さないという生き方もできるはずだ。


 
丁度マラソンランナーがいて、一位になった選手がもう少しばかり時間を縮める事ができたらと悔いを残した。

でも、最終ランナーの選手が、全力で走りましたので悔いはありません、というコメントを残しました。

これって何?

このように、悔いというものは、
全力を尽くしたかどうかで決まるような気がするよね。


 
さて、大切な人、かけがえのない人、
その人たちにも時間と世界がある。

その人がいなくなれば世界観が変わる、毎日見ている風景だって変わってしまう。場合によっては違う世界になる場合もあるよね。

逆に、嫌な世界にいる人が、
その世界を離れて別の世界に行くと素晴らしい世界、
別の世界で生きれるように、
世界とはその世界で拘わる人たちで構成され作られていることがわかる気がする。
 
自分の悔いというよりも、大切な人、かけがえのない人に悔いを残さないようにしてみない?

©NPО japan copyright association Hiroaki

4.  それでも世界は動き続ける


coucouさんとあなたが、この世界からいなくなってもこの世界は動き続けていく。

私たちは30年後にはこの世に存在していない。
現在、若くて元気に生きている人たちにはこのことを理解することはできないだろうけれど、それでも人は誰でも、残念ながらこの世界から離れていく。
 
私たちのいなくなった世界はどうなるのかな?

戦争が起きて人類が破滅してしまうかもしれない、
温暖化現象によって地球自体が滅んでしまうかも知れない。
貧困や差別などなくならない。
世界中が壊れてしまい、止んでいる、と人は嘆く。

でもね、私たちはもうこの世界からいないんだよね。

そう感じたら、なおのことそのことを真剣に捉えて最後の人生を送るのも良し、これからの未来の子どもたちを信じるのも良し、私たちにはまだまだたくさんの役割が残されているのかもしれないのさ。
 
でも、この世界から離れるまでにまだまだ時間が残されている。
あと5年、10年生きれれば、たっぷりと時間があるほうだよ。
 
あと、20年~30年なんて贅沢なおまけだよね。

問題はあと100年生きたとしても時間を大切に、
時間に感謝できなければその100年は意味を失う。

 
coucouさんの師豊澤豊雄会長は102歳のときに、
「ワシの1年は10年分だ。1日は1月分ぐらいある、人は生きている以外に何が欲しい。生活が苦しいだの、お金が足りないなど、ヒトリで生きて行くのは寂しいだの。ワシは妻も兄弟も子どもたち、みんなあっちの世界に行ってしまった。ワシはのう、みんなの分の時間を大切にして味わっている。それに欲しいものなど何もないけど、恋はしてみたいなあ!」
 
「そうだあ、あと1年生きて見たいなあ!」
と最後にしみじみと、言ったことを覚えている。

わずかに1年、彼にとってのその1年は10年、素晴らしい有限時間。
 
そうだね、まさに時間はいのち。

時間は長さではなく中身、濃厚な時間は時間を大切にしているということ。時間を大切にするということは自分のいのちと人のいのちを大切にしているということなのですね。
 
みなさんは濃厚な一日を過ごしていますか?

©NPО japan copyright association Hiroaki


©NPО japan copyright association 


人生って、まさに奇跡の連続といえるね。

ただ、無限の奇跡が空から無限に降り注いでいてもそれに気づかない人たちは数限りなく存在している。

日々の時間を意識するだけで、奇跡を感じる事ができるようになる。
意識するというのは時間を大切にして、
時間は与えられた生命だと感じることなんだよ。
 
本来は「時間」というものは存在していないものだけど、これは人間が生み出したもので神さまが創り与えてくれたものではない。

時間というのは人によって違う、ある人にとっては1時間と感じる事でも他の人には数10分と感じたり、数時間と感じたりするわけだから、その人の主観で時間が決定されているもの。

宇宙から地球の時点を見ればまったく時間が違うように、他の場所、他の環境から見た場合さらに時間差があることがわかるよね。
 
でも、人間には時間がないと何の記録も残せないし、時期や期間、歴史などにも影響を及ぼしまう。
つまり、時間計算によって長短がわかるようになっているわけだから、これは人類が発明した素晴らしい財産かもしれないと思う。
 
蝉は地上に出て1週間鳴き続ける、それを見て人はわずか1週間の命に同情を覚えるけど、本当の蝉時間は蝉自身に聞いてみないとわからないけれど、1週間は10年くらいに匹敵するとしたらどうなの?

すると、蝉は10年間必死にあらん限りの声を出してこの世界から去っていくことになる。
もしかすると、蝉からすれば素晴らしき、哉、人生なのかもしれないね!
(猫さんや犬さん、動物たちの時間の長さも違うと思う!)
 
人生を謳歌するとはまさにこのことかもしれない。


みんな~
毎日、読んでくれて、うれしい~
ありがとう~
こころから~

また、あしたね~




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