【短編】『慎重に、そして大胆に』(中編)
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慎重に、そして大胆に(中編)
この仕事を始めてかれこれ20年、犯罪者に出会すことが稀にあることは噂で聞いていたものの、いざその状況に置かれてみるとどうしようもなく恐ろしく腰が引けてしまうほどだった。後ろを振り返れば撃たれかねないと思い、バックミラー越しに男の様子を観察した。運転席にはわずかに鉄の匂いが漂い鼻先を刺激した。すでに雨は止んでいたが男の服はまだ湿っていた。姿勢をずらして男の隣に置いてあるものを横目で見た。先ほど車に乗り込むときに何か大きなものを持っていたが、中身は何であろうか。銀行に行ったとするなら現金だろうか。いや、銀行はこの時間ATM以外空いていないはず。
「どこに行っていたんだ?」
「なんだって?」
「銀行に行ったのか?」
「うるせえ」
「お金は下ろせたのか?」
「黙ってろ!」
車内に響き渡る男の罵声に背筋を凍らせながら、次に何を話そうかと思案していると男が口を開いた。
「さっき来た道を戻れ」
「は、はあ」
「さっさと車を出せ!」
運転手は慌ててハンドルを握り一目散に車を走らせた。赤信号で停車すると、男は言った。
「お前俺が今何をしているかわかるか?」
「いや」
「逃走だよ」
一瞬男は間を開けてから続けた。
「だから安全運転で走れ。だが極力早くだ」
「わかった」
「妙な気を起こすなよ?ちょっとでも変な真似をしたらお前を殺して車を乗り換える。わかったな?」
「わかった」
男はハンドルを堅く握りしめてネオンに溢れるダウンタウンを走り抜けた。
目が覚めると、オレンジ色の大きな風船のようなものに体を包まれ身動きが取れなかった。先ほどの衝撃でベルトに備えつけられていたエアバックが開いたようだった。エアバックから抜け出してあたりを見回すと日用品があちこちに散らばって浮いていた。システムが故障したせいか機内の明かりは点滅し続けていた。近くに相棒の姿はなかった。すぐに機内の壁を伝って操縦室の方へと急いだ。すると、扉が若干開いており中からは電波が途切れるときのノイズ音が一定間隔で響いていた。扉を開けると相棒が操縦席にいた。
「目が覚めたか?」
「ああ。どうなってるんだ」
「まあ、見てみろよ」
相棒がモニターの方を指すとそこには銀灰色に輝く巨大な惑星がありありと投影されていた。
「着いたのか?」
「ああ、我がニュープラネットにな」
元夫は意外にも元妻の顔を見ても表情を変えなかった。彼は深刻そうに背中を傾けながら呟いた。
「君か。担当は」
「ええ」
「そうか、良かった。君なら信頼できる」
「大変なことになったわね」
「ああ」
と一言呟いて男は黙った。
「精一杯尽くすわ」
「ありがとう」
「きっと大丈夫よ」
と言って自分の手をそっと元夫の手の上に重ねてからすぐに準備をしに手術室へと急いだ。すでに患者の体は手術台に乗せてあり、あとは麻酔を打ってオペを開始するだけだった。即座に事前情報を頭に叩き入れて助手全員に手術の方向性を伝えた。患者は脳卒中で倒れたようだった。超急性期に静注療法ができていないため外科手術で強制的に治療を施す必要があった。血管の中に血栓を回収する機材を入れてその血栓を取り除くことができれば手術は無事成功となる。きっと大丈夫と元夫に告げたものの成功率は高くはなかった。助手全員への伝達事項を話し終え手術を開始した。
「とうとうたどり着いたか」
「ああ」
「これで地球の未来も開けそうだな」
「ここが次の拠点に最適だといいが」
男の座る操縦席の後ろからモニターに映る惑星の美しさを目に焼き付けていると、突然岩のようなものが機体を擦ったような音がした。
「なあ、今の音聞こえたか?」
「どの音だ?」
と男が言った次の瞬間、機体のすぐ横を巨大な岩が通り過ぎるのをレーダーパネル上で確認した。
「デブリの大群だ!」
操縦席に乗り込むと再びレーダーへと視線を送った。
「機体から見て前方右上から約300立法メートル」
男はその言葉を元にハンドルを左右上下に移動させあらゆるボタンを指で打ち込んだ。
「前方中央約500立方メートル」
「前方左、約100立方メートル」
「前方右、約80立方メートル」
「なんてこった。これじゃあ前に進めないぞ」
「進むしかない」
「進むったって」
「僕はこう思う、銀灰色は惑星そのものの色じゃない」
「まさか、惑星全体がデブリに覆われてるわけじゃないだろうな」
「ああ、そのまさかだよ」
男はあたかも自分の宇宙科学理論を超えた現象に驚きを隠せずにいる様子だった。
「そこの交差点を右折しろ」
「わかった」
「突き当たりを左だ」
「ああ」
男の顔は真剣そのものだった。下手に道を間違えでもすればこの男に殺されかねない。そう本気で思えたのだ。
「しばらく直進しろ」
「あんた一体どこに向かってるんだい?」
「うるせえ!いいから言う通りに走れ」
拳銃を片手に男はそう言うと、一瞬不安げな表情を見せた。
「左に0.6ミリ」
「はい」
「そのままゆっくり入れていって」
「はい」
「そこで止めて」
「右に0.2ミリずらして」
「はい」
血栓はなかなか見つからなかった。あと1時間以内に取り出さなければ命が危ういだろう。そう思うとじわじわと焦燥感が頭の中を漂い始め、先ほどの頭痛を再び引き起こした。しかし、手術を止めるわけには行かなかった。冷や汗を垂らしながらも集中力が途切れぬよう絶えず血管の内部を映すモニターを凝視した。
「何が映ってる?」
「そこら中岩だらけだ。下手したら俺が見たのは惑星じゃなかったんじゃないか?」
「いいや、あれは惑星だった。僕もこの目で見た」
「じゃあどうやってこの岩を切り抜ける?」
「前に進むしかない。前方左上、約500立方メートル」
男は話をする間もないと言った様子で再び黙り込んではハンドルを動かし続けた。
そろそろダウンタウンを出ようとしている頃だった。後ろから一つの赤い明かりが光ったのを一瞬確認した。その光がダウンタウンに灯る街の明かりにも見えたがそれは徐々に近づいてきた。
「クソ。逃げきれなかったか。このまま走り続けろ」
「ああ」
「ここまで来たら安全運転なんてもうどうでもいい。とにかく全速力だ」
「わかった」
運転手は嫌な汗が背中を伝うのを感じながら、サイレンの音を聞いてアクセルを強く踏みつけた。
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