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脳みそジャーニー【39】 キャンサーギフトを全身で感じた日

世界にコロナがやってくる少し前、
抗がん剤中の、体調がマシだったある日のこと。

筋力を落とさぬようにと、夫と二人で散歩に出かけたときのことです。

家から10分ほどの場所にあるドトールコーヒーまで、大好きなミラノサンドを食べるため、一歩一歩歩いていました。
夫にバッグを持ってもらい、腕を支えてもらい、脚を一歩一歩、前へ前へと動かしました。

少し前まで、当たり前にスタスタ歩けていたのに、今は脚を一歩前に出す、ただそれだけのことに、これほど集中しないではいられない。
鮮烈な体験でした。


お店に着き、夫に注文を任せ、空いている席に座って周りを眺めていました。

闊達に話をするビジネスパーソンの二人組、女子高生らしきグループの楽しそうな笑い声。静かに語り合う老夫婦。数十人いるお客さん達の中で、ウィッグなんか被って、ハアハア息を弾ませているのは私ひとりでした。

(……みんな健康そうでいいなあ)
しみじみと羨ましくなりました。

(……ちょっと前まで、私だって、みんなと同じだったのにね……)
脳みそのミソちゃんも寂しそうです。

(……おっと……ミソちゃん、私たち、また悲劇のヒロインになりかけてますぜ! はい、気づいた!)
私は気持ちが沈み込むのをどうにか阻止しようと、ミソちゃんを意識します。

 
ミラノサンドが出来上がったところで、夫がとりに行ってくれました。


ほんわり温められたソフトフランスパン。
食べやすいよう半分に切ってあるいつものミラノサンドです。
夫に促され、かぶりつき、もぐもぐもぐもぐ。
一回一回ゆっくり咀嚼をしながら、堪能しました。

「あーーーーおいしい!」
感動しました。

母の食道がんの抗がん剤とは違って、幸い私には味覚障害なども現れなかったため、味もいつもの通りです。

咀嚼をしていると、こめかみとウィッグが微妙にズレるのがわかります。人間って、咀嚼するとこめかみが一回一回動くんだなぁ……。長くつきあってきたはずの自分のカラダのことを、こんなにも知らないのです。

副作用で顔中が痺れ、口が切れ、指先が麻痺し、あちこちの不具合が不愉快極まりない。


けれどもこの瞬間、「ああ、おいしい!」と思えて、私はただただ幸福の絶頂にいました。


もう、糖質とか、発がん性とか、本当にどうでもいい。このミラノサンドだって、添加物だの、ガンには良くないものだって入っているのかもしれない。

だけど、それがなんだっつーんだよ。


お寿司だって焼肉だって、パスタもビザも、心からおいしいと思えるものを食べて、満足したらいい。
私の人生なんだから。



そして、同時に感じていました。


カラダのどこにも痛みがなく、普通に食べられたり、普通に誰かとおしゃべりできたり、普通に歩けたり、普通に荷物を持てたり……。


それらすべては、なんてなんてすばらしいことなんだろう。
その奇跡のようなありがたさを改めて知って、泣きたいような気持ちになりました。


夫が「ゆっくり食べな」と気遣ってくれ、私がおいしそうに食べる様子を見守ってくれます。このとてつもないありがたさをなんと形容したらいいのでしょうか。
たまたま小さな職場で知り合って好きになった相手が、一緒に人生を歩んでくれて、苦しみに寄り添ってくれる、このありがたさ。


夫にしてみれば、この若さで二度目のガンのパートナーです。自分の運命を呪うことだってあるのだろうに、グチひとつ言わない。

亡くなった彼女さんとともに味わったであろう、病という理不尽に対する怒りも、悲しみも、やりきれなさも、あらゆる苦しみを全部まるごと呑み込んで、それらすべてを、新しい栄養として消化し、血肉にして今日を生きる夫。

私はかねてより、この夫の生き様が好きであり、この人の哲学が好きでしたが、病気になったとき、それはより一層の輝きを放ちました。

「ありがとう」

そう口にするのは、どこか薄っぺらい気がして、ためらいがありました。
それでも私は、「ありがとう」としか表現できないのでした。

帰り道、また夫に支えてもらいながら、一歩一歩脚を動かしました。
「いつか元気になれたら、こんなにつらかったことも、忘れちゃうのかな……」

私がつぶやくと
「痛みも苦しみも、過ぎ去ると忘れるからね。そういうメカニズムになっているから」
夫がそんな風に答えます。

苦しかったこと、痛かったことを、忘れてしまえるからこそ、人間は長い人生をどうにか生きてゆけるのかもしれません。

私には経験はありませんが、出産する女性も、だからこそ二人目、三人目を産もうと思えるのでしょう。

過ぎ去った痛みや苦しみを半減させられる、場合によってはすっかり忘れてしまえる脳みそのミソちゃん。「忘れる」というのも、ミソちゃんの優れた機能と言えるのかもしれません。

でも、ミソちゃん。

もしいつか元気なカラダに戻れたなら、痛みや苦しみを忘れたとしても、このカラダが普通に動くありがたさを、絶対に、絶対に、絶対に、忘れないで生きていきたい。絶対に、だよ。

そのことを誓いながら、脚を一歩一歩動かしました。
(ミソちゃん、どうか忘れないでくれ! 普通に歩けるって、すごいことだよ。常に、そのことを思い出してくれ! ねえ、聞いてる?)

(……うん……分かった……記憶しておくよ)
ミソちゃんは、ミラノサンドに満足し、うとうと眠そうにしていました。

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