クロード・シャブロル監督 『いとこ同志』 : 僥倖を呼び込む才能
映画評:クロード・シャブロル監督『いとこ同志』(1959年・フランス映画)
シャブロル監督の2作目で、ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞した作品。しかしながら、第1作『美しきセルジュ』以前からあたためていたアイデアを、『美しきセルジュ』の評判を受け、ほとんど続けざまに撮られた作品だそうである。
「ストーリー」としては、次のようなものだ。
これが、物語の4分の1くらいまでのところだろうか。
下のサイトでは、「ストーリー」が最後まで紹介されているので、気になる方はそちらを参照していただきたい。
だが、結論だけを書いておくと、本作は「ハッピーエンド」ではない。
つまり、「真面目くん」のシャルルと「遊び人」のポールのお話なのだが、「最後は、シャルルの努力が報われました」(アリとキリギリス)とはならないし、さらには、シャルルの悲劇の煽りをくらって、ポールまで巻き添え的に酷い目に遭ってしまうという、なんの救いもない、いささか唐突で薄くBL臭すらただよう、アンハッピーエンドなのである。
で、私の感想はというと、『美しきセルジュ』に比べると、ずいぶん面白かった。
何が面白かったのかというと、「真面目くん」のシャルルは、まあ、当たり前に「真面目くん」なのだが、「遊び人」のポールの方は、よくある「嫌なやつ」ではなく、このクソ真面目な従弟のシャルルを、過剰なほどに大切に思い、可愛がっている点だ。
ストーリー紹介にもあるとおり、ポールは、孕ませた女性を口先三寸の優しさだけでさっさと捨てるし、かなりうさんくさい仲間ともつき合うという、快楽主義的な生活を送っている。
だから、普通なら、クソ真面目で、二言目には「母が」なんて言う、年下のマザコン青年を「こいつは馬鹿か」と見下げても良いところなのだが、しかしポールは終始、シャルルのことを「いい奴なんだ」と擁護し、さらには「(シャルルに)昔、説教されたことがある」なんてことを、ほとんど嬉しそうに話すのである。つまり、ポールはシャルルが好きなのだ。
これは多分、子供の頃に刷り込まれた感情を、そのまま素直に持ち続けているということであろうし、その意味では、ポールは見かけによらず「情の深い、いい奴」なのである。
だから、シャルルが、「尻軽女」として知られるフロランスに一目惚れし、フロランスの方も柄にもなく、シャルルに対して「精神的な愛」を感じて、シャルルの感情に応えようとした際に、ポールはフロランスに「お前はそういう女じゃないんだ。今はそんな気分なのかもしれないが、すぐに真面目なシャルルとの同棲生活が退屈になって、破綻してしまうのは目に見えている。また、そうなれば、真面目なシャルルが傷つくことになるし、あいつはそういうのに馴れていないんだから、なまじあいつの気持ちに応えようなんて、夢みたいなことを考えるんじゃない。おまえにお似合いなのは、むしろ俺の方なんだよ」と、おおむねこのようなことを言ってフロランスを説得し、さらにはフロランスを誘惑すると、なんともあっさりフロランスはポールに靡いてしまい、ポールの言い分の正しかったことが立証されてしまうのである。
で、面白いのは、普通であれば「なんだかんだ言って、結局はシャルルの想い人を奪った、酷いやつなんじゃないか。本音は、妬んで横取りしただけなんじゃないのか」という方向のお話になりがちなのだが、本作の場合は、そうではない。
ポールは、本気でシャルルのことを思ってフロランスを奪ったのであり、そのこと自体には罪悪感は持っていない。実際、フロランスは、自身の判断でポールを選んだのだから、別にアンフェアなことをしたわけではないのである。
ただ、そこまでクールに割り切っていながら、それでも、そのことでシャルルが、気を悪くしたり傷ついたりすることに対しては、申し訳ないという気遣いをするところが「本当にシャルルが好きなんだなあ」と思わせ、ポールを、一面的ではない「憎めないやつ」として立体的に造形し得ているのである。
一方、シャルルの方は、ジェラール・ブランのいかにも「真面目で、いい奴」といった外見のせいで、どうしても単なる「真面目くん」とは思いにくいところがある。
例えば、ポールから「俺たち、同棲することになったんだよ。気を悪くしないでくれ」みたいなことを言われ、フロランスの心変わりを知っても、「仕方ないさ、順番を待つよ」みたいな、異常なまでに物分かりの良いことを言って我慢してしまう。普通なら、二人に腹を立てても良いところなのだが、誰が誰を選ぶかは当人の問題だと言わんばかりの、フェアな「優等生」ぶりのだ。
そうして、シャルルは当初の目的どおりに勉強に励むのだが、ポールが例によって要領よくカンニングで進級試験に合格したのに対し、シャルルは落第してしまい、しかも、その結果に絶望してしまう。
そりゃあ、まだ若いのだし、努力が報われなかったということにショックを受けるのは当然なのだが、しかし、フロランスをポールに横取りされながら、ぐっと我慢してみせた「良識派」が、試験に落ちたという現実に耐えられなかったというのは、ちょっとアンバランスな印象を受ける。
そしてさらに、その絶望の挙句、ポールの回転式拳銃の弾倉に弾を1発だけ込めて、ロシアンルーレット風に弾倉を回転させてから、眠っているポールに向けて引き金を引くのだが、運良く(?)弾は出なかった。
つまり、シャルルは、五分の一の確率でシャルルを射殺し、そうなれば自分も続いて自殺するつもりだったのだろうが、弾が出なかったので、自分も生きることを決めたということなのだろう。だが、その拳銃をリビングのソファーの上に置いたまま寝てしまったために、翌朝、拳銃に弾の込められていることを知らないポールによって、誤って射殺されてしまうのである。
当然、ポールはこの望まなかった事態に呆然とし、哀れにも項垂れることしか出来なかった。
一一で、他人事として言えば、シャルルの一人相撲につき合わされたポールには、「いい迷惑だよな」と、そう言ってやりたいところなのである。
そんなわけで、本作の面白いところは、すべてにおいて、それまでの「ドラマ的な定式」がズラされているところであろう。
ポールは「遊び人のワルだけれど、従弟にだけは面倒見のいい奴」だし、シャルルは「観客の期待を裏切る、まんま愚かな真面目くん」だし、フロランスも「真の愛に目覚めることもなければ、かと言って、自身の現実を受け入れるというところまでの賢明さも持たず、いつまでもシャルルの気を惹こうとする困った女」である、といったようなところだ。
これは、「これまでのドラマ的な定式」としての「キャラクター造形」を外してみせたところで、「斬新なリアリズム」作品だということになるのだろうし、それがあるから「リアルな青春とその葛藤を描いた」作品ということにもなるのだろう。
したがって、作品公開当時、多くの映画ファンに「新しさ」を感じさせたというのは、完全に納得のいくところなのだが、一一しかし、今となっては、こうしたパターンも、さして驚くほどのものではない。
「映画.com」のカスタマーレビューで、「津次郎」氏が、そのレビュー「非倫理」で、次のように書かれているが、まったく同感である。
「津次郎」氏が、それこそ、さりげなく『アンハッピーエンドでさえなかった。』と書いているのは、けっこう重要なポイントである。
私は最初に、本作を「アンハッピーエンド」だと書いたけれど、その意味するところは「ハッピーエンドではない」というほどの意味であり、より正確にいうなら「バットエンド」と書くべきだったかもしれない。
というのも、本作における「不幸な結末」は、それまでの「ハッピーエンドの定式」を「裏返した」ものではなく、「定式」そのものを「廃棄」したものだからで、そこには「定式」としての「ハッピー」も「アンハッピー」もなく、「たまたまそうなっただけ」という意味での「無意味」にこそ、「リアリズム」があるからだ。
だから、「津次郎」氏がレビューのタイトルを「非倫理」としているのも、「反倫理」という意味ではなく、ドラマ作りとしての「非論理(論理的一貫性が与えられていない)」という意味なのであろう。そこで語られているのは、「作り手の倫理」としての「一貫した論理」ではなく、現実のこの世には、そんな「倫理」や「論理」は働いていない、という意味での「リアリズム」である。
さらに「津次郎」氏は、上に引用した部分に続けて、次のように書いている。
ここで、ポイントとなるのは、
という部分であろう。
つまり、本作における、卓抜な「リアリズム」は、綿密な計算のもとになされたものではなく、シャブロル監督が直感的に選んだ結果のものであり、それが本作ではズバリと的を射た、という性格のものだったのだろうということだ。言うなれば、半ばは「まぐれ」であり、同じことを「狙って再現することはできなかっただろう」ということである。
私たちは、「ハッピーエンド」が「嘘っぽい(リアルではない)」と思えば、それを否定するために、どうしても反対の極に振れてしまう。つまり「アンハッピーエンド」を選んでしまいがちなのだが、しかし、こうして「殊更に選ばれたアンハッピーエンド」というものもまた「意図的」であり「恣意的」なものでしかないから、その意味では決して「リアル」ではない。あくまでも「方法的な逆張り」に過ぎないのだ。
だが、本作の場合は、そうした「作為」や「方法意識」がほとんど感じられず、「たまたまそうなった」というような感じの「非統制感」があるからこそ、「ユニークにリアル」であり得たのではないだろうか。
これはもちろん、本作を「まぐれあたり」だとしているのでもなければ、シャブロル監督の手腕を否定しているのでもない。
なぜなら「まぐれあたりに見える僥倖」を呼び込むのもまた「作家の才能のうち(天啓の器)」だからだ。それがいつでも(主体的に自在に)発揮できる性質のものではないとしても、なのである。
(2023年7月5日)
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