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「心と心の間で直接的に結びつくことは良くないのだろうか」その他4項


1. 心と心の間で直接的に結びつくことは良くないのだろうか

心と心の間で直接にコミュニケーションすることは何らかの危険が伴うのだろうか。
心と心のつながりということで言うと、かなりそれは良いもののように見えることがある。ただ、心を心が直接に何も媒介とせずに結びつくとなると、相互に傷つけ合うことも増えるのではないか。テキストメッセージでも攻撃的な言い方を受けると、実際に対面で言われるよりも傷つくというか、対面では決して相手に言えないことをテキストメッセージという相手がそのメッセージを書く時には不在の様態のメッセージで、相手に伝えてしまうことがあるのではないか。実際に書く時にどういう仕方で書くのが良いのかというところで、自分は迷っているところがある。たぶん幾つかの仕方での書き方があり、その幾つかの仕方の書き方のなかで自分は逡巡している。自分にとって、その幾つかの書き方とは次のようになっている。
a)    「身体の性」としての男性として書くこと(Writing as man)
→ただし、ここには身体の性というものは何かという問いがある。自分自身、女性ホルモンを飲んでいるし、また胸にクリームを塗ったこともあったので少し以前より胸が膨らんでいるのも事実である。※自分が何を見て買ったのかは判明しなかったが、個人輸入で胸に塗る薬が買えるというのは確かで、例えば次を参照してもらえたらと。

「胸を大きくする薬!通販・個人輸入で市販されていない薬が購入できる!」https://iekarashop.com/bustup_kusuri(最終アクセス日:2023/06/19以下同様)

b)    「心の性」としての、つまり心・意識のなかでかなり容量が割かれているところの女性として書くこと(Writing as woman)
→ここには例えば、女性のアバターを使って、メタバースというテクノロジーを用いて、自分のその「女性として書く」というチャンネルを活かすということも含まれる。※この点については、『現代思想』のメタバース特集のなかに参考となる論文が掲載されている。

それ以外にも自分の身体に手を加えるということも考えられる。実際、GID(性別適合手術)は心の性に身体の性を合わせる仕方である。
少なくとも2つの仕方での書き方がある。b)について、自分は自分の隠れた可能性を解放するために書いていたのかもしれないが、自分は実際に文章を意識せずとも女性(woman)として書いていた時期があるのかもしれない。
そこに女性(woman)として文章を書くことの意味、男性とは異なる存在としての女性としての文章の書き方を私が採用することには確かにある程度の可能性がある。それは、現実にはしかし自分が男性としては抑圧せざるを得ない感情を解放させる書き方であった(ユング心理学におけるアニマを想起されたい)。その書き方が良かったのか良くなかったのか、そこは私には完全には判断できないところがあるのだが、もちろんその自分の出生時とは反対の性(心の性と言うべきか)として書くことには、何らかの規範的な女性像との間での交渉が必要かと思われるが、自分自身はその規範的な女性像というものをあまり体感できないでいたので、結果として脱規範的な仕方で文章を書くことになってしまったのではないかと思っている。※脱規範化された生についてはジュディス・バトラーが考察している。

その脱規範的な仕方で書いた文章について、自分でどうその文章を活かすことができるのかという点において、自分で当事者として思考できるところがある。つまりa)は男性として書くこと、またはb)はトランスジェンダーとしての可能性。
自分は自分のセクシュアリティについて、他の人のアウティングにつながるといけないので、あの有名人と近いかも、と思うことはあるのだが、ここでは言及できない。ただ、男性だけど、髪の長い人(髪が女性のように長い方が落ち着く人)とは相互に理解できやすいと思う。自分もすべての男性が女性のような髪型にしてはいけないことはないと思っている。女性については男性のようなカットができても、男性にとっては女性のようなカットはできないのかはどうしてかと思う。
さて、この前、自分は、実家の近くにできたスターバックスのトイレを見て、2つに分かれているのを観た。1つは、オールジェンダートイレ。もう1つは女性用トイレである。※オールジェンダートイレについては次のような記事があった。

オールジェンダートイレと女性用トイレに分けるというのは良いことのように思われる。私は女性の身体には男性からの(もちろん女性やそれ以外の性の方からの可能性もある)被害を受けやすい性質があり、そこには妊娠という事態に至ってしまうという女性の身体の傷つきやすさ(vulnerability)があり、女性には女性のトイレを用意することは間違っていないと思う。
※傷つきやすさについては、バトラー由来の概念である。可傷性や被傷性と訳されるものである。
「ジェンダー化された身体の被傷性」https://www.jstage.jst.go.jp/article/jasca/2018/0/2018_160/_pdf

そして、男性用トイレではなく、オールジェンダートイレというものをもう一つのトイレとしたことも、今ジェンダーのあり方は多様で、ノンバイナリージェンダーの人もいるし、自分みたいに男性寄り(少なくとも自分の性役割は男性である)の人(ただ本当は少し男の人、規範的な男性つまりマッチョな男性に対して少し恐怖感がある人)に対しても男性用トイレという響きよりは、オールジェンダートイレという響きの方が自分が包摂されているような気持ちになり、良いと思う。それは今の時代のあり方ともマッチしていると思う。
ここまで文章を書いてきた。自分の文章はそれほど面白くないかもしれない。また、こうした文体で良いのか、少し逡巡しているところもある。自分はその逡巡のなかで、至って何も実際には考えていないのかもしれないが、そのなかで、自分の「分化してきた人格」(分人主義におけるコミュニケーションによって人格が分化するという議論がある)によってこうして文章を書くことができている。※(コミュニケーションの反復を通して)人格が分化していくことについては、次の動画で平野啓一郎が語っている。39分20秒頃から。また、彼の『私とは何かーー「個人」から「分人」へ』を参照のこと。

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000210658

それはとりあえずのものでしかないかもしれないが、とりあえずの仕方でこうして自分の輪郭を仮固定(千葉さんの議論を参照のこと)していくことができるのかもしれない。※この議論については以下のあとがきを参照のこと。


2. 「ありのままの私」と「なりたい私」

自分は安冨歩さんという人の生き方を見ていて、すごく参考になるところもあると思っているし、また彼女のハラスメントに関する議論も非常に洗練されていると思っている。安冨歩さんはある時まで「男装」して生活していたが、ある時から「男装」を辞め、トランスジェンダー女性として生き始めた。それが彼女にとって「ありのままの私」として生きる術であったのだろう。※安冨歩の「ありのままの私」については次を参照のこと。

「ありのままの私」と「なりたい私」。実はこの両者は私が見る限り、それぞれ異なる種類の言説として存在しているように思われる。例えば、はあちゅうさんの本では「なりたい私」を設定して、その「なりたい私」として生きていくにはどうしたら良いかということが問われていた。※はあちゅうさんの本については次を参照のこと。

いわば自分のアルターエゴを設定して(「本当の私」とは異なるキャラ設定で)生きていく方法について書いているのである。そして、またたとえばひなちゃん5しゃいさんという美容整形アカウントを運用している人が書いた本でも「なりたい私」というのは言及されている。
※ひなちゃん5しゃいさんの本については次を参照のこと。

「ありのままの私」については先程引用したように安冨歩さんの本のタイトルになっている。
この「ありのままの私」と「なりたい私」というものがそれぞれ異なるタイプの生き方として存在しているのだと思われる。この点については、それぞれどのような可能性と限界があるのかを探ることができるのではないかと思われる。

3. フォームを見直したい

私は実際、今、精神的にかなり脆い状態になっており、疲れが溜まりやすい状態になっている。この状態のなかで、まず必要なのは、野球選手が自分の打撃フォームや投球フォームを試行錯誤するように、自分も自分のフォームをまた取り戻す必要があるのではないかということである。実際に自分のアルターエゴの可能性はあるにせよ、またアルターエゴを設定して生きること自体には私は善も悪もないと思っているので、ここで価値判断は避けたいが、自分自身の文章を書くフォームを以前のように書ける方法を取り戻したら、また文章を書く仕事ができるのではないかと思っている。それは楽観的な見方かもしれないが、実際にはそれはできるのではないかということを思っている。実際に自分は論文を書くということをしていたが、自分の症状の影響はあったのではないかと思う。そのことも含めて、自分が置かれている状況とどのようにしたらここからまた自分の(自己中心的なことかもしれないけれど)フォームを見直したうえで、また苦労することなく文章を書くことができるようになるのか、という問題があるように思われる。

4. 嫌われたとしても良い

今回は箇条書きで書くことをまとめてきた。自分は自分のこれまでの半生を思い返すと、自分は模範的な生き方ができたかというと決してできていなかったところがある。そこには自分の弱さがあったのだと思う。そうした弱さを抱えていたことは、自分にとって情けないことであるのだが、そうした弱さを抱えてしまっていたことから、どのようにしてそこから自分の反省を踏まえたうえでの再出発をしていくことができるのか(それはわがままなことかもしれないが、自分自身はあるフランスの哲学者の考えを受けて「健全な自己愛」は必要だと思っている)ということを考えたいと思う。
※そのフランスの哲学者の本については次を参照のこと。

すべての人に対して自分は好かれることはないと思うし、『嫌われる勇気』という本にあるように、自分自身、「嫌われる勇気」を行使することで少し自分に対する精神的拘束(自分で自分を拘束していたのかもしれない)が楽になっているような気がする。※『嫌われる勇気』については次を参照のこと。

その点を踏まえて、自分にできることを探したい。

5. ファーストおよびセカンド、または「存在者としての私」と「眼差しとしての私」

柴山雅俊さんの解離に関する議論で「眼差しとしての私」と「存在者としての私」という議論がある。※何度も引用しているのが柴山雅俊さんの本には次がある。

自分のなかで「眼差しとしての私」というのは、そこには今存在していないように見えるけれども、内側から見る視線として存在している自我であり、意識である。「眼差しとしての私」についてはきっと女性の意識ではないかと思う。自分は以前髪を伸ばしていたことがあった、それはその時は「眼差しとしての私」寄りに自分が生きていたかったのだということになる。また「存在者としての私」は自分のなかで意識が安冨歩さんの議論で言われている仕方のように複数のパッケージに分かれているとすると、男性の意識になっていると思われる。※ここで言う安冨歩さんの本については次を想定している。

ただ、この男性の意識は自我というものがほとんどなく、実際にはほとんど意識を言語として展開することができない。なので、自分が自分の頭で考えて言葉を発する時は「眼差しとしての私」寄り、つまり女性の意識を働かせて自分の頭で考えたことにして、人とコミュニケーションをすることが多い。社会人というのは、自分の頭で考えることができなければ厳しい世界だという実感を持っている。自分はその意味で社会人としてはトランスジェンダー女性になるのだと思う。ただ、それまで学生として論文を書いたり、その他の文章を書いたりしていた時は男性の規範に合ったつまり男性として書く(Writing as man)方式としての文章になっていたので、フォームとしてはそちらを自分の物書きとしての文章としてみなして良いのではないかと思っている。そこに自分のなかで社会人としての、そして(今はもう学生ではないが)学究の徒としての意識のあり方、言葉の使い方の違いがある。それはファーストパッケージ、セカンドパッケージという言い方で言うと(安冨歩さんが紹介していた言い方だ)ファーストパッケージは男性、セカンドパッケージはトランスジェンダー女性ということになる。そして、以前紹介した牧野篤さんの議論でも同様のことを説明できる可能性はある。※ここで想定している牧野篤さんの議論は次に所収されているものである。

意識というのは言語という他者によって構築していくものであって、自分の魂がある意味で、「トランスジェンダー女性」としての意識によって「植民地化」されていくことを私は感じている。ここに私は「魂の植民地化」、そして安冨歩さんの研究テーマであるところの「魂の脱植民地化」という問題があるのだと思われる。※「魂の脱植民地化」については例えば次を参照のこと。

生まれつきは男性であったが、そこでセカンドパッケージとしての「トランスジェンダー女性」としての意識によって自分の魂がある意味で書き換えられていく。それはたぶん自分自身が家のなかでは男性だったけど(私生活では男性であったけど)、公的な場面では脱男性的で元からあった(特に学校という場においてはそうであった)という自己分裂的なところが元からあって、その問題を自分はずっと感じていたということ、そして今も意識におけるこのキャラには(キャラと書くが)還元されない働きがあるので、いわば自分が「二重化」していることになるのだが、「二重化」した自分の男性の意識と女性の意識が、複層的になっているなかで、自分は今は男性として仮固定することによって文章を書くということができているのだと思われる。そしてその点について未だに逡巡がある。書くことで自分の思考を外部化していくことができるので、とりあえず今は外部化しているということに他ならないが、それによって何が可能になるのかという点については未だに分からないところがあるということがある。確かに自分自身はそうした問題を抱えている。そうした問題を抱えているなかで、自分は精神的には別に男性であることに拘りはなく(その意味ではりゅうちぇるさんとも近いところはある)、自分に対しても今の時代においてそれが正しいのなら、トランスジェンダーとして生きていくこと自体も受け入れても良いのではないかと思っている。そこには受容の問題がある。自分自身がトランスジェンダーの可能性があることを受け入れるということ。そしてそのなかで自分のセクシュアリティのあり方も考えて行って良いのではないかと思う。



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