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少女A伝

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短編小説集です。
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#恋愛

方舟を見送る

旧約聖書のノアは、大洪水に襲われ方舟に逃げ込んだ際、自らの貧しい生き方を儚むことはしなかったのでしょうか。血の結束に囚われ種の存続ばかりを憂うだけで、心を許せる友人を得られなかった己を恥じたりしたのでしょうか。
洪水のあとに共に生きたいと思える友人と出会えなかった、己の哀れさを。

「僕は君のことがとても好きだ」
電話の向こう側は静まり返っていて、それが一層あなたの今いる空間を雄弁に物語っているよ

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石板掘れない私の哀しさ

11年前にもらったメールを何度も読み返し、携帯端末を買い換える度に新たに保存しクラウドにも保存していると言ったら、あなたは笑ったけれど、私にとっては非常に大切な宝物なので笑わないでください。
それでも私が死んでしまったら、あなたから貰った言葉は全て銀色の端末に閉じ込められたまま誰の心も震わせること無く永遠に沈黙の湖に沈むのだと思うと、私は苦しくなってしまう。
ああ、石板を掘る技術があったなら!

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巡り会う風

好意は持ち重りがするといっても、誰も信じてくれません。
その見えない重りは私の手足の先端に付けられるから、私は泣きそうになってあたりを見回し途方に暮れるのが常でした。
スカートとハイソックスの間に覗く膝の裏っ側に撫でるような感触を感じ振り向く度に、母親に結ってもらったポニーテールとアイロンを当てたブラウスの襟元の間に滑り込む生暖かい視線を感じる度に、付け始めたばかりのブラジャーの縫い目が、真っ白い

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ハレルヤジャンクション

ねぇ、17歳の夏の明け方の空気が澄んでいて冷たかったこと、覚えている?
レースのカーテン越しに届く静かな日差しは、誰も目覚めさせないように密やかに差し込んできていて、土鳩だけが低いところで喉を鳴らしていた。
顔を窓の方へ向けると、私の脇のシーツはあなたの形に窪んでいて少し湿った温もりを残していたから、私はそこに顔を押し付けあなたのシャンプーの香りを嗅いで、夕べのことが本当に起こった出来事なんだとゆ

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蛤吐いた蜃気楼

恋い焦がれていた御仁との念願叶った逢瀬の晩、食後に辿り着いた公園で躊躇いがちに私の手に彼の手が重なり、引き寄せられるように口づけをいたしました。
薄眼を開けると港には船、空には飛行機。きっと遠くの土地へ向かう途中でしょう。空気を震わせながら私達の周りを通り過ぎてゆきます。
そこにはなにも契約を裏打ちするような言葉も書面もありませんでしたが、
私はそれでも構いませんでした。
だって、彼が口移しで渡し

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初恋の呪縛

冬空のしたでフォーレのヴァイオリンソナタ2番2楽章を聴いていると、中学2年生の冬のことを思い出す。
とてもとても大好きな人がいて、でもその人にはもう半年も会っていなくて、連絡先も知らなければ、彼は私が自分を好いているということさえも知らなかった。
何一つとして伝達手段を持たなかった私ができたことは、夜空を見上げ、彼への気持ちを星に託すことだけだった。

彼と私はセックスなんてしなかった。
身体を使

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失恋は石鹸の香り

私の学校にやってきたその教育実習生が、学年中の男子の好意をひっ攫うまでに要したのは、ほんの数日のことだった。

「音楽の教育実習生、可愛いよな」
「あんな姉ちゃん欲しい」
「いや、彼女になって欲しいよ俺は」
「授業は下手だけどな」
野球部の賑やかな奴らはそう言って、いつもの如く意味もなく大声で笑う。その度に、彼らから湿った砂埃の臭いが漂ってくる。
彼らの発する野卑た空気が私は苦手だ。休み時間に

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美しい彼女

朝、教室の扉を開けると、髪をばっさりと短くした麻子が教壇の前の席に座っているのが目に入った。
思いつめやすい彼女のことだ。
大方、能天気な恋人の何気ない言動に傷つき、その突破口を求めて断髪という結論に至ったのだろう。
彼女の角ばった背中を眺めていると、世界のどんな汚れに対しても交わらないというような覚悟が透けてみえる。襟足の下に続く制服の襟は、彼女の母親の手によって綺麗に糊付けされていた。

麻子

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つつじの道

「気付いていないだけで、君の周りにはたくさんの恋心があるのかもしれないね」
この間貰ったその言葉に、胸から喉のあたりが痛くなった。
人の好意に気がつけない鈍感な人間だと言われた気がしたから。
ううん、そうじゃない。
気がつかない振りをしていた。
それで人を傷つけてた。
自分は悪くない。だって私鈍いから。
そんな言い訳をしていた。
人の好意に向き合うことは、とても重たい責任を伴う。ひとつひとつに向き

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煙たい愛 後編

乱れた髪を、夕方の風が撫でていった。風の向かう先に目を遣ると、ネオンが輝き始めた通りの先に、赤く染まった空が続いていた。東京の空は横に伸びてゆく。
あなたがいないと生きていけないなんて嘘を言えたのなら、どんなに楽に生きられただろう。

大気圧の底で、気圧に負けないで生きるのは難しい。
宇宙空間では宇宙服を、危険区域では防弾チョッキを。人の感情がすぐ近くにある都会では、煙草とヒールで自衛しないと息苦

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閨房の音楽

男が女の装飾品に目を止めるのは、なにも指輪の有無の確認だけでないことを私は知っている。

男は私を寝室に導くと、短く切り揃えられた爪先でワンピースの背中のボタンをひとつずつ外し始めた。
時折彼はその手を止めて、背骨のひとつひとつに舌を這わせる。指先は、乾いていて暖かい。私の背に浮かんだ汗の粒を吸って、その皮膚は間も無く豊かに語り始めることだろう。

寝室に入る少しばかり前、彼がキッチンで食後酒の用

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潮騒の恋人

男は海が七つあることを知らなかった。それなのにこれ程に海に愛されている。

「君の故郷のトーキョーには、海はあるのかい」と彼は尋ねた。
目の前には、彼の生まれ育った小さな街をずっと見守り続けてきた海が、日の名残りを受けて僅かに朱く染まっている。大航海時代、貿易港として栄えた街だ。旧市街の赤みのかかった煉瓦で作られた古い建物は、海に面して所狭しとひしめき合っている。
「あるわよ」と答えながら、東京の

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煙たい愛 中編

夜が明ける音がした。
一人で迎える朝は冷え冷えとしていて、世界の果てまで延びていく。
朝の便の飛行機が頭上を通過して飛行場へ向かうのが、屋上階の私の部屋の天窓から見えた。
残された飛行機雲を暫く私は眺めていた。雲はやがてほろほろとほどけ、空の色に紛れて消えた。
私の吐いた煙は、その雲に追随するように空に昇っていく。
私が今日乗る飛行機を、見上げる人はいるのだろうか。

飛行機から日本に降り立つと、

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世界の堰堤

泣きながらするセックスは随分と気持ちのいいものだなあと、ずいぶん後になって思い返した。大晦日のことだった。

私の肉体は、冷えきった巨大な肉塊に組み敷かれ、きしんだ音を立てた。
男は、まるで機械の状態を確かめるように私の体のあちこちをためすつがめつした後にゆっくりと体の中へ侵入してきた。

相手の顔も思い出せないのに、その性器とセックスの感触だけは思い起こされる。
二次元的な運動が繰り返される中で

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