美しい彼女

朝、教室の扉を開けると、髪をばっさりと短くした麻子が教壇の前の席に座っているのが目に入った。
思いつめやすい彼女のことだ。
大方、能天気な恋人の何気ない言動に傷つき、その突破口を求めて断髪という結論に至ったのだろう。
彼女の角ばった背中を眺めていると、世界のどんな汚れに対しても交わらないというような覚悟が透けてみえる。襟足の下に続く制服の襟は、彼女の母親の手によって綺麗に糊付けされていた。

麻子の恋人である中島くんは、教室の中央で他の男子学生達の集団の中で微笑んでいる。この様子だと、麻子が髪型を変えたことに対して怪訝に思ったり、自分に原因があるなどという考えにまでは及んでいないようだ。
きっと、彼は彼女の肩に手を回したことも、その首筋に舌を這わせたこともまだないのだろう。そんなことしていたら、麻子はきっとあれほどまでに髪を短くすることはない。
そんな可愛いカップルの間に波風を立てたと噂の朋花の姿は、ホームルームが始まったというのに教室のどこにも無かった。

「あら、麻子さんったら髪の毛を切ったのね。似合うわ」
朋花は、1時間目の科学の授業の最中にするりと教室に忍び込んでくると、右隣の席に座っていた私に囁いた。廊下に一番近い列の最後尾に座る私は、朋花がそっと閉じた扉の隙間から忍び込む冷気に、身をすくませた。
朋花は椅子の金具を鈍くきしませてこちらに半身を寄せてくる。どうやら私の教科書を見せてほしいようだった。
私は彼女の席に机を寄せるついでに、逆手で扉をきっちり締めた。
「朋花もきっとショートカット似合うと思うよ」
私の呟きに彼女はくすっと笑って髪の毛をかきあげた。
「私はダメ。ほら、キスマークが隠せなくなってしまうでしょう」
彼女の首筋には赤い痕が浮かんでいて、それは彼女の呼吸に合わせて上下した。甘くて、しかし仄かに切ない香りが私の鼻孔をくすぐる。
「良い香り。同年代の子達がつける石鹸の香りや柑橘系の香りより余程良い」
私が呟くと彼女は
「あなたって、わかる人なのね。閨房って意味の香水よ」
とこちらを見つめてきた。彼女の体温が、目を通して移るよう。私は頰が赤らむのを感じた。

休み時間、洗面所で私は麻子に呼び止められた。
女子は洗面所が大好きだ。
冷え冷えとした緑色の合成ビニルの床に、いつ補充されたかもわからないショッキングピンクの液体石鹸。消臭剤の香りがする空気を、音姫が乱暴に震わせる。ここでどんな液体が私達の身体を通過し地下へ還るのか、皆が承知しているけれど、その色や匂い、温度がどんなものなのか、誰もが知らないふりをする。
「朋花と仲良くするなら、私はあなたのことを友達として認めない」
鏡に映る麻子の顔は、白いLEDに照らされて死人のように青ざめていた。
「ちょっと落ち着こうよ。私は今の席が朋花の隣だってだけで、別に仲良くなんかないけれど、まぁそれは置いておく。いったい何があったの。その髪型と朋花には関係があるの」
私の問いに彼女は唇を噛んでうなづいた。唇に切りたての髪が張り付いたのを忌々しげに払うと、麻子は息を吸って一息に
「あなたも噂は知ってるでしょう。彼女の本意を聞き出してきて」
と言った。
「何の」
実際に私は噂には興味がなかったため、朋花が何をして、中島くんがどう振る舞ったのかについては全く知らなかった。
「他校に恋人がいるくせに、中島くんに色目使ってどういうつもりなの、あの売女。...中島くんが、かわいそう」
自分ではなく恋人を憐れむふりをする彼女の心と、それを制御できない弱さが、曇ったガラスの中で苦しそうにもがくのが見えた。

昼休み、弁当のにおいの充満する教室を出て行こうとする朋花の後を追うと、彼女は非常階段の鍵を開け、するりと鉄階段の踊り場に足を乗せた。
閉じかけるドアに慌てて手をかけ体をねじ入れると、頭上からカンカンと足音が聞こえてきた。階段を登っていくと、屋上のソーラーパネルの隙間に、朋花が腰を下ろすのが見えた。
「どうして私が責められないといけないの。私と中島くんの関係は、麻子のこととは別よ。ついでに、それに対してあなたが口を挟むのだっておかしいでしょう」
私が遠回しに麻子の髪型に言及しながら提示した意見に、朋花ははっきりと反論してきた。
「でも、麻子は中島くんのこと大切に思っていて、心配してるんだよ」
慌てて返した言葉に彼女は呆れたようにため息をつく。
「そんなの嘘よ。彼だってもう子供じゃない。自分の後始末くらい自分でやるわよ、わかってるでしょ?」
彼女が牛乳瓶を手で上下する仕草に私が吹き出したのをみて、朋花は大笑いした。

麻子は中島くんとお似合いのカップルでいる自分が好きなの、と笑いながら指摘する朋花に、私は思わずうなづいてしまう。
文化祭のベストカップル賞に選ばれたり、SNSでお似合いのカップルとして紹介されることに、恥ずかしがりながらも嬉しそうにはにかんでいる麻子の脇で、中島くんはいつも居心地悪そうに立っていた。
まるで、おままごとのお母さんごっこにに引っ張り込まれた、お父さん役の男の子みたいだったかも。

「手を繋いだら、キスしたら、浮気 なんて莫迦莫迦しい説が流布しているけれど、
それなら私は頰を寄せ合い見つめ合うし、彼の唇を指でなぞるし、彼の指を口に含み舐り回すわ。
記念日を祝うのが恋人だというのなら、私は毎日毎日記念日を更新して、その度に彼に愛を伝えていく。日が昇るたびに彼に恋をするし、夜眠るたびに彼のことを思い浮かべて切ない気持ちになるのよ。記念日なんて覚えている余裕ないわ。
私の気持ちは日々変容していくし、それは他者との関わりの中で生まれるとても素敵な化学反応なの。
だから、中島くんに惹かれたことに後悔はないし、彼と寝て、その気持ちが冷めたことも受け入れる。貴方はそれを糾弾する権利はどこにもないよ」
やはり、朋花は中島くんと寝たんだ。
牛乳を飲む朋花の喉が上下に動くのを眺めながら、そんな考えが頭をよぎる。
セックスが下手だから別れるなんて、私達の常識からは程遠いけれど、きっと朋花にはセックスから彼の様々なことを理解することができたのだろう。無知な私達が立ち向かえる相手ではない。
「参りました、あなたのいうとおりよ」
体育座りをして拗ねたふりをする私を、朋花は笑って抱きしめた。
「私は、名前をつけて仕舞い込むことのできない関係性を大切に思うの。親友とか、彼氏、みたいなの、不自然だと思う。他者をそういうフォルダに分類したくないし、されたくない」
早く大人になりたいなあ、と朋花が呟く。
頭上を鳥が飛んでいく。そのさらに上の空で飛行機雲が解けていく。
自由になりたいなあ、呟いた私の隣で、朋花は
「自由には責任が伴うのよ」
と言って大きく伸びをした。

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