つつじの道

「気付いていないだけで、君の周りにはたくさんの恋心があるのかもしれないね」
この間貰ったその言葉に、胸から喉のあたりが痛くなった。
人の好意に気がつけない鈍感な人間だと言われた気がしたから。
ううん、そうじゃない。
気がつかない振りをしていた。
それで人を傷つけてた。
自分は悪くない。だって私鈍いから。
そんな言い訳をしていた。
人の好意に向き合うことは、とても重たい責任を伴う。ひとつひとつに向き合って、時には傷つけざるを得なくて、それが私は辛かった。
15年も前からそうだった。もしかしたら、これからもそうかもしれない。

通学路と道路を隔てるように植えられたつつじは、長らく夏の日差しを浴びている間にすっかり色褪せて乾いた葉っぱを惰性で広げていた。排ガスとポイ捨てよる蹂躙にも関わらず野放図に展開するそれは、小柄な小学生だった私の身体を外界から隠してくれた。私は、学校への行き帰り、その道をひとりで歩く。その濃くて薄汚れた緑色の陰を抜けたら異世界が広がっていれば良いのに、と願いながら。
その日の夕方もやはり私はひとりでその道を歩いていた。茂みの中の蜘蛛の巣にトンボが引っかかっているのが見えた。翅を絡め取られたトンボは、それでも時折思い出したようにもがいていた。もがくほど逆効果だということくらい、私でも知っている。その振動を感知した蜘蛛がゆっくりと近づいてくるのが見えた。

後ろから、カタカタと、固いものが鳴る人工的な音が聞こえた。
振り向くと、隣のクラスの男子Aが歩いていた。サッカー部に所属するAは、雨の日も真冬の日でも毎日半袖半ズボンで登校するような典型的能天気男子で、マラソン大会や運動会になると俄然やる気を出すようなやつだった。
小柄で坊主頭で、浅黒い肌で、敏捷さだけが取り柄のような彼のことを、私はただの騒がしい同級生だとしか思っていなかったけれど、その当時、女子の友達がいなかった私は、同じクラスの男子たちに連れられて休み時間に缶蹴りなんかをするうちに、彼とも親しくなった。それが理由で更に女子にはいじめられたけれど。

彼は私の目線を受け止めると「やあ」と手をあげた。
「理科の宿題で星空観察出てたよね?俺のクラスも同じ宿題出ているから、よかったら今夜集まろうぜ。Bが、マンションの屋上の鍵持ってるらしいからさ」
空を見上げると、夕焼けが空の端から始まっていた。きっと今夜は晴れるだろう。風に運ばれて金木犀の匂いがした。
彼は、私がうなづいて歩き始めるのを確認すると、そのまま私の後ろを歩き始めた。
赤信号で止まったので振り返ると、彼はやはり斜め後ろで立ち止まっていた。
「今日はサッカーしないの?」
私が尋ねると、彼は
「今日は良いんだ」
と答えた。

その夜、約束した時間にマンションの屋上に行くと、クラスの男子数人とAがいた。「遅いぞ」「観察なのにノート持ってこなかったのかよ」「明日写させてくれ」いつ住人に苦情を入れられてもおかしくないくらい賑やかだった。
星空観察は、ほんとうは自宅のベランダからでも出来る。でも、それを指摘する者は誰もいなかった。星が幾つ見えるかなんて、重要ではなかったんだと思う。
確認できた星の数と、星座を書き込むと、宿題はあっという間に終わってしまった。
はしゃぐ気持ちに薪をくべたくて、私が鞄からパイの実を出すと、男子たちはたいそう喜んだ。
Aは1つめを食べ終えるとすぐに私のそばに舞い戻り、2つめを催促した。
クラスメイトが「あれUFOじゃないか?」などと騒いでいるのを横目に、私とAは通風口の縁に座った。
流石のAも夜は半袖半ズボンだと寒そうだった。薄暗いなかでも彼が身を縮めているのはわかった。母が持たせてくれたブランケットを渡すと、彼は礼を述べながら体に巻きつけた。暗がりで、お互いの表情がよく見えなかったから、その気になったのかもしれない。私は今日起こった出来事を話そうと決めた。
「今日ね、クラスの女子がアンケートを取って遊んでたの」
「うん」
彼の相槌が、静かなものだったので、私はあれ、と思った。
少し考え込んでから、彼は知ってるんだ、という考えに至った。

私が「嫌いな女子ランキング」の1位だったこと。
彼は知っているんだ。
強烈な恥ずかしさが体を襲う。今日の放課後に私がひとりで歩いている背中を後ろから見ていたのだ。惨めな姿に憐憫の目を向けられているのだ。情けなくて、消えてしまいたい。

「クラスのみんながそう思っているわけじゃないよ。俺も、あいつらも、そんなこと思ってない」
彼は静かにそう言った。実際は、騒ぎすぎて少しガラガラの声で。座っていたコンクリートの階段は、体温で少しずつ温められてくる。白い吐息が中空で混ざるのを見ていると、何故だか居心地が悪くなった。彼の目にも、同じ光景が映っている。それなのに、彼は平然としていて、私だけが感情を持て余している。

私が頭を抱え込んだのを、凍えているのと勘違いしたのか、Aはブランケットを私の肩にかけてくれた。彼の体温の残るブランケットに触れた瞬間、私の脳裏に映ったのは、クラスの女子の顔と、昼間に見た蜘蛛だった。
私は夜の冷気を吸い込むと、
「ブランケットにパイの実の食べかすが付いてるんだけど」
と答えた。
思いのほか大声が出た。Aは笑いながら、最後のパイの実を口に放り込むと、他の男子のところへ行ってしまった。彼が隣を去ってから、風が出てきていることに気がついた。

彼に本当は、ありがとうと言いたかった。「どういう意味?」と訊きたかった。その夜ベッドに横たわってじっと考えていた。その問いは、私の胸の底に凝ったまま、今でも残っている。

朝靄の中に浮かぶつつじの葉は、その産毛に水滴を纏わせてきらきらと光っている。トンボがどうなったのか確かめようと、茂みを覗き込みながら歩いていると、後ろから「おはよう」という声が聞こえた。立ち止まって口を開こうとした私の横を、Aは走って通り過ぎて行った。ランドセルの金具の鳴る音が遠ざかる。

私はいつも、にぶいのだ。立ち止まって考えているうちに、彼らは先に行ってしまう。言えなかった言葉が冷えて、心の澱となって重く沈んでいく。暗い闇に閉じ込められた山椒魚のように、山河に吠える虎のように、私はひとりで生きていくのか。
15年の間に、数多くの好意を示された。その中には見返りを求めないものもあったし、私が気がつかないことにして葬り去ってしまったものもあった。
山椒魚と虎のもとに迷い込んだ他者のことを思い出した。私は彼らにどう対峙するのだろう。

私は、周りの人の気持ちに気がつけない。
この間貰った言葉が、心の中で声を伴って再生される。
そうだ。その通りだ。愚鈍さを指摘されたはずなのに、不思議と心が暖かくなってくる。人の気持ちに誠実に向き合う技術を私は15年かけて漸く手に入れようとしているのかも。

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