閨房の音楽

男が女の装飾品に目を止めるのは、なにも指輪の有無の確認だけでないことを私は知っている。

男は私を寝室に導くと、短く切り揃えられた爪先でワンピースの背中のボタンをひとつずつ外し始めた。
時折彼はその手を止めて、背骨のひとつひとつに舌を這わせる。指先は、乾いていて暖かい。私の背に浮かんだ汗の粒を吸って、その皮膚は間も無く豊かに語り始めることだろう。

寝室に入る少しばかり前、彼がキッチンで食後酒の用意をしている間に、私は半開きになった書斎を覗き込んだ。
彼の机に、執筆中の本のゲラや資料が乱雑に机に積み上げられているのを眺めるのが、私は好きだった。
暗がりの中で乾いた紙を繰り、水分を失った彼の指を想像すると、身体の奥が鋭く窄まる。
彼の指先を汚すのは、赤ペンだけではない。
彼が雄弁に語るのは、書籍の中だけではない。
これから起こる情事に頰を緩め、キッチンへ戻ろうとしたまさにその時、卓上に置かれたランプの足元で、月明かりを受けて指輪が光るのが目に入った。
脂で曇った銀色の輪は、薄闇の中で鈍く輝いていた。

男は、丁寧に私の服を脱がせると私をシーツに横たえた。
真白いシーツは柔らかく私の身体を受け止め、身体の下で豊かな皺を作る。
糊の効いたシーツより、昨夜から交換していないシーツの匂いの方が私は好きだ。
シーツから立ち上る匂いの中に、彼の匂いが淡く立ち上り、私の体を包み込む。その瞬間、私は自分が戻る巣を得たような安堵感を覚える。それが時間の狭間に設けられた淡い幻だと知っていても、私の目からは透明な雫が湧き出す。
糊の効いたシーツがベッドを包んでいた日には、昨夜、別の女がこの巣に潜り込んでいたのではないかと要らぬ想像力が働いてしまう。
頭の中であらゆる事象が結びつき、現実に依拠しない世界が広がっていくことを私は怖れている。
さらさらと、シーツと肌が擦れる音が耳に入った。私の脚と彼の脚が絡み合うと、そこに幽けき糸のような繋がりが生まれる。その糸が同じ温度に溶け合った瞬間、彼が動きを止めた。

「これはなんだい」
身を起こし足下を覗き込んだ彼は、私の踝の上を光る金鎖をつまんだ。
「アンクレットよ。知らないの」
私はサイドテーブルに置かれたミネラルウォーターを口に含むとそう答えた。
ベッドの上で身体を離すと、途端にそこには外気が入り込む。溜め込んだ熱が冷えていくのがわかった。
「誰から貰ったんだ」
初めは戯れだと思い甘えた声で答えていたが、彼の言葉が怒りを孕んでいるのに気がついた。
「自分で作ったの。美しいでしょう。シーツの上で、小さな音を奏でている」
私の言葉を彼は黙って聞いていたが、やがて彼はその鎖を引きちぎり、ベッドの下に落としてしまった。
そして、私に覆い被さると、無理矢理に冷えた身体に熱を注ぎ始めた。
摩擦によって産まれた熱は、空気に触れるととたんに醒めてゆく。
身体の内側から溢れ出すものは、もう前のような熱を孕んではいなかった。

私は男の薬指に嵌められた指輪を咎めるような無粋な真似をしなかった。
男が「愛しているのは君だけだ」と何度も囁く度に、私は黙って頷いた。
男の悪評を耳にしても態度を変えない私に、彼は「噂を信じない君は美しい」と囁いた。
私の踝を彩っていた、か細い金鎖。
あなたはどうして私の心を全て所有しようとなさるのだ。
白魚の如き心よりも、陽炎の如き噂よりも、手錠の如き契約よりも、二人にしか聴こえない音楽を求めることのどこが、あなたには耐えられないのだろうか。

私は噂を信じない。
同じように、あなたのことも信じない。

あなたは私の心の中まで支配しようと躍起になり、存在しない敵に嫉妬し雷神のように荒れ狂う。
雷の落ちた空は真空だ。
彼が絡め取られた世界には、風も吹かぬ黒々とした闇が続くのみだ。

残月の明かりが煌々とシーツを照らす。
真白き雪原には、もう誰の足跡もつかない。
#短編小説
#恋愛

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