煙たい愛 後編

乱れた髪を、夕方の風が撫でていった。風の向かう先に目を遣ると、ネオンが輝き始めた通りの先に、赤く染まった空が続いていた。東京の空は横に伸びてゆく。
あなたがいないと生きていけないなんて嘘を言えたのなら、どんなに楽に生きられただろう。

大気圧の底で、気圧に負けないで生きるのは難しい。
宇宙空間では宇宙服を、危険区域では防弾チョッキを。人の感情がすぐ近くにある都会では、煙草とヒールで自衛しないと息苦しい。

「困ったもんだ」と呟き、立ち上がるために顔を上げた時、目の前に兄がいた。

彼は、案内表示板に寄りかかりこちらを見ていた。長い体躯をスーツに包み、黒々とした髪を年に似合わずオールバックに撫で付けた彼を、道行く観光客が振り返る。

あまりにも彼の目線に遠慮がなかったので、私はそれを受け止めてから、くいっと顎をあげた。

彼はその仕草を挑発ではなく、補助の依頼だと思ったらしい。私の方へ向かってきて、建物と地面の隙間に挟まったままだった靴を手に取り、私の前に置いた。

「履けますか。お嬢様」
彼の声色はつとめて平静だったが、下を向いた横顔が笑っているのが見えた。
私は地面についていた手を、はたくこともせずに彼の肩に置き、体重を乗せて立ち上がった。

「この靴は、日本で履くのには合いませんよ。よろしければお送りしますが」
慇懃な口調を崩さぬまま、彼はそう言って私を導いた。路上に停められたGT-Rの車内は、冷え冷えとしていた。

闇の色の躯体は、平日の首都高の入り口を、勢いよく駆け上がる。高層ビルに額装された狭い空が滲んで見える。

膝に乗せていた小さな鞄が細かく震えたのは、海の上に架かった橋の上を走っている時だった。

「車の中なのか」
受話器のこちら側の風切り音を聞きつけてか、電話の主は開口一番そう問うた。
「いいな。乗せてくれ」
悪びれもせずそう言う男の声は、兄のもとにも届いているのだろうか。兄は1台車をやり過ごすと、一番右の車線に移りアクセルを踏んだ。

「ごめんなさい。私の車の助手席には楽器が置かれているから、あなたの乗るスペースは無いわ。もしあなたがBMWのz4を買ったのなら、一緒に首都高を走りましょう。その時はオービスの位置の最新情報を教えてあげる」

昏れなずむ空の下をひとりとひとりが駆けてゆく。
二人の軌跡は平行で、永遠に交わることはない。 それでも、外界から隔絶された空間で、二人は記憶を共有し続ける。道路の果てには何があるのだろうか。

#短編小説
#恋愛

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