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Tokyo Undergroundよもヤバ話●’70-’80/地下にうごめくロックンロールバンドたち第5話『Canon〜藻の月へ/中村清●登場!』

取材・文◎カスヤトシアキ
話/ジョージ(野月譲治)
話/中村清(ミュージシャン)
V T R◎Andy Shiono

V T R◎青山/月見ル君想フ

『The Ding-A-Lingを発見した日』


 何の前触れもなく、サミー前田(※1)から招待メールが届いた。

 2015年のことだから、もう8年も前のことである。

 その頃、前田とはご無沙汰だったので、久しぶりにもらった連絡であった。だから少しばかり嬉しかったのかもしれない。当日のLIVEへの招待だったので、客入りの目安に焦りでもあるのだろう、と思った。かつての経験から思い当たる節があったのだ。

 LIVE会場である『EARTHDOM』に着くと、見知った顔がたくさんあった。いや、知っている顔しかなかったのかも知れない。まるで同窓会のようだった。ここでの僕は“故・山口富士夫のマネージャー”だ。それ以上でも以下でもない。冨士夫亡きあともずっと続いていく“呼び名”だった。

 マネージャーをやりたいと思ったことはなかった。絵を描いたりデザインをしていたので、そっちの妄想だけで十分に欲求は満たされていた。だから、たまたま知り合った冨士夫が、それまでの人生の中での想定外だった。想像を超えた面白さがあったのである。

 冨士夫に関わるようになり、冨士夫を通して接する人たちには、少し苦手意識が先だった。コチラも若かったから、自分の立ち位置や将来に描くビジョンなどを、過剰に意識していたのかも知れない. “刹那的に今を楽しんでいる輩に巻き込まれないようにしなければならない”そう、胸の中で繰り返し呟いていた気がする。

 8年前のその日も、そんな仲間が集まっていた。しかし、少し驚いたのは、みんなの姿を見てホッとする自分がいることだった。単に歳を食ったといえば身もふたもないのだが、若い頃から感じていた苦手意識は、ほんとうはそうなりたいという欲求だったのかも知れない。そう気がつくのであった。

 その夜は4バンドが30〜40分ずつ演奏した。久しぶりのLIVE観戦だったので集中できた。3バンド目くらいでBarスペースのソファで休んでいたら、『藻の月』のジョージが来て、「もう、俺しかいねぇだろう」と、例の笑顔を向けてきた。一瞬、“何のことだろう?”と思ったら、マネージメントのことであった。考えてもいない、いや、考えられないタイミングであった。母親の介護の真っ最中でもあったが、冨士夫のことしかやったことのない自分は、いわばアマチュアである。自分がシーンにしゃしゃり出たところで、どうなるものでもないと思っていたのだ。

 さて、お目当てのバンドは4番目に登場した『The Ding-A-Lings)』であった。

 しかし、そこに現れたのは、驚いたことに、僕の認識ではボーカルがオスに変わった『ヌエイン(鵺院)(※2)』だった。あとのメンバーはそっくりそのままなのだ。しかし、サウンドは様変わりしていた。オスと耕太郎(※3)が交互にギター・ボーカルをとる様は『ウィスキーズ』のスタイルを思い出させた。しかもわかりやすい重厚なROCKである。久しぶりに心が持って行かれる自分を感じていた。期待以上の快感の中でサミー前田に礼を言ったのだ。

「これ、このバンドの新譜ですから」

 いつになくあっさりとした前田が、『The Ding-A-Lings』のCDを手渡してくれた。この夜は発売記念LIVEだったのだ。

“そうだったのか”

 改めて気がつく自分の能天気さを恥じた。こんなんだからマネージメントなんてとんでもないのだ。ポロポロと大事な物事を落としながら生きてきた、行き当たりばったりの人生の中で、楽しいと感じる想いは、いつも予期しない瞬間の中にあったような気がする。

 家に帰って『The Ding-A-Lings』のCDを聴くと、たとえようもない久々の歓喜の揺れが心の中で渦巻いた。

The Ding-A-Lings/CD/2015年09月16日発売/Voltage Records
伝説のロックンロール・ギタリスト、元ルージュのオス(尾塩雅一)を中心に2014年に結成されたThe Ding-A-Lingsのデビュー・アルバム。故・青木真一作詞作曲のナンバー「Funny Day」、元祖ガレージ・インスト「RUMBLE」、ルージュ時代の名曲「New York Baby」も収録。ゲストに元リップクリームのじゃじゃ岩城(THE SKULLABERRYS)がハープ、コーラスで参加。

 アイムソウリイ The Ding-A-Lings

 
 さて、ジョージの話もひとまずは今回が最後になる。『Canon〜藻の月』へのストーリーになるのだが、その人生に関わっている大切な人物として、今回はキヨシ(中村清)にご登場願おうと思う。キヨシ自身の人生を中心にジョージの横顔も垣間見ることができれば、こんなに愉快なことはないと思うのだ。

 キヨシが『コックサッカーズ』のジョージと出会うまでのいきさつを、まずは本人の始まりから語ってもらおうと思います。

 
キヨシ(中村清)プロフィール

 ■『The Ding-A-Lings』『GOD』『aka-jam』『LAPIZ TRIO』/Dr

1962年生まれ。北海道・釧路の出身。神奈川県厚木市で育つ。中学時代から『不正療法』のドラマーとして『東京ロッカーズ』ムーブメントで活動する。川田良と『ジャングルズ』を組んだのが17歳のとき、ジョージの『コックサッカーズ』に加わったのが20歳過ぎであった。その後、『GOD』→『GODOUT』→『OUT』→『Canon』→『WAX』→『ラブレターズ』→『森の月』→『藻の月』→『ヌエイン(鵺院)』→『The Ding-A-Lings』と活動を展開して、現在は複数のバンドでリズムを刻んでいる。ジョージとは40年来の友である。

 

中村清/談『俺は厚木や町田で育ったちょいとマセたガキだった』

 

生まれは釧路なんだよ。北海道の釧路。でもそこで生まれただけなんだよね。俺の中の記憶にはないんだ。両親は岩手の人。駆け落ちして北海道に渡り、釧路で俺が生まれたってわけ。でもさ、仕事がなかったらしい。それで親父が横浜の本牧に出稼ぎに行くんだよね。土建屋だったからさ、道路を作ったりする人。次に東名高速の厚木インターを作るって段になって、一家で厚木に引っ越すわけさ。そこからはずっと厚木だよね。だから俺の出身は厚木ってことになります。小学校から中学まで、厚木の学校に通う子供でした。

  そんなだから、家庭環境は複雑って言われれば、そうかな…。あまり意識しなかったけどね。でも、考えてみれば小学2年までは母親の苗字だったからね、俺。ここで苗字が変わるんだって、ちょっと驚きの展開だったのを覚えている。そう、だから、そこから中村なんです。単なる戸籍上の話だけどね。両親とも、もとの家庭に子供がいてさ、みんな姉さんなんだ。その姉さんたちがコッチの大学に通うからって上京したりするわけ。そこら辺は少し意識したな。

 そのせいかどうか知らないけど、俺はませたガキだった。小学校時代からつぎはぎのパンク・ジーンズはいて、中一の時にはドラムを始めていた。初めてバンドを組んだのもその時だよ。俺が住んでいたのは厚木だったんだけど、バンドを組んだのは隣の町田だった。町田っていえば『外道(※4)』だよね。暴走族が集まる不良の街。中学校の時から『外道』の練習を見に行ったりして、大好きなバンドだった。良ちゃん(中野良一/外道のDr/Vo(※5))が暴走族のリーダーだったから、あんなに暴走族がLIVEに集まっちゃうんだよね(笑)。スペクターとか相州連合とか、あと、なんだっけ? 暴走族ブームっていうか、そういう時代だったからね。だけど、俺は連中とは仲が良かったけど、暴走ヤンキータイプじゃなかったな。先輩から集会のパーティ券やステッカーを預かって売るんだけど、それに便乗して自分達のLIVEのチケットも売りさばいて、けっこう儲けたりしたよ。まだライブハウスなんかないから、地元の商工会議所を借りたりして、先輩に頼んでPA・照明も安くしてもらったりしてさ、「こりゃあ、いいや!」って調子づいたね。その時の俺は中2だよ。それが俺の想う厚木や町田の感じですよ。俺にとっては『外道』の遺産とも言える。だから、『タンブリングス』でマサ(青木正行/外道のBa(※6))が復活したときは、スンゲェ嬉しかった。冨士夫や青ちゃんが一緒のバンドっていうのもよかったね。だけど、俺にとっては『外道』のマサと良ちゃんのリズム隊が世界最強だと思っている。今だにそう思っているんだ。」

 外道・香り

山口冨士夫&タンブリングス ジャンプ ソー ハイ

 

『“不正療法”で東京ロッカーズ・デビュー』

 

「中3から『不正療法』ってバンドでドラムを叩いた。『不正療法』も町田の高校生バンドだったんだ。俺だけ厚木の中学生だったんだけどね。そこで、それまでとガラッと音楽のシーンが変わることになる。『東京ロッカーズ』に組み込まれたからなんだ。東京都下や神奈川の暴走族や不良相手に演奏していた俺たちの音楽シーンは、いきなり、ちょっとすかした先輩たちを相手にすることになるってワケ。原宿とか、六本木とかさ、『東京ロッカーズ』の舞台は、町田の少年たちにとっては全てが異質だった。原宿に『スマッシュ』というパンク・ファッションの店があって、そこが全てのブッキングをしていたから、俺たちはそのスケジュールに沿って演奏をしていくんだけど、毎月コンスタントにLIVEが組まれるんだよね。他にカズ(中嶋一徳/フールズ・TEARDROPS)のいた『8 1/2(ハッカニブンノイチ)(※7)』も一緒だった。『東京ロッカーズ』ってさ、『スピード(※8)』系と、『フリクション(※9)』系に分かれていてね、もちろんコレは、当時の中学生の俺から見た主観なんだけれど、『フリクション』系はちょっとストイックで酒も飲まないイメージがあった。『スピード』系は、その反対と言えばわかりやすいかな(笑)。どちらも大先輩たちだからさ、人気もあったし話題性も十分だった。だから、けっこう盛り上がった覚えがあるよ。なかでも『フリクション』には可愛がられた気がする。ツアーとかも一緒に行ったからね。ある時にフッと気がつくと、『フリクション』の皆さんは俺よりも10歳以上も年上じゃん。中学生の俺は心の中で小さく“おっさんじゃん!”って思ったりしたな(笑)。」

 Friction (フリクション) - Crazy Dream Live 1979 [60FPS]

8 1/2(ハッカニブンノイチ) シティー・ボーイ

 

『“不正療法”から“ジャングルズ”へ移る、まだ高2だった』

 

それでも高校には行ったよ。小田原にあるマンモス私立高だけどね。だけど当然のごとく出席日数は足りなかった。スタジオやLIVEが詰まっているし、高校の時から半分は東京で暮らしていたから。小田原まではとてもじゃないけど通えないワケさ。東京での寝泊まりはケースバイケースで何とかしていたよ。知り合った人の家に泊めてもらったり、良(川田良)と関わってからは、彼の部屋にご厄介になったりしていた。ソレでも高校を卒業できちまうんだから俺って天才だよな、なんちゃってね、実は親父のおかげなんだ。通っていた高校のPTA副会長だった親父がブイブイ言わせて、俺の出席日数を瞬く間に埋めちまったってワケ。ラッキーだろ⁉ そんな子なんです、俺。『ジャングルズ※』に入ったのは高2のとき。結局『不正療法』は3年足らずで終わっちまった。と言っても俺はまだ17歳。吉祥寺の『マイナー』というライブハウスで、良の『午前四時』と対バンをしたらさ、その後に電話がかかってきたんだよ、“新しくバンドを作るからドラムを頼みたい”って。ソレが『ジャングルズ』だった。」

午前四時 - ト・ビ・ラ


「ジャングルズ』は良(Gu/川田良)と井出さん(※Ba/井出裕行)と俺のスリーピースバンド。活動していくうちにベースの井出さんが『EDPS(※10)』に移って、アミちゃん(もと『ガールズ』Ba/Asami Ami Tatsuoka(※11))が入ったんだけど、アミちゃんが産休になって活動が停止したから、良は『フールズ』に参加した。どうしようか? と思っている俺に、『自殺』をやっていたときの川上から電話がきたんだ。「バンドを一新するのでメンバーを探している」と言う。『ジャングルズ』のシングルをジョージと一緒に聴いて連絡したのだとか。ソレが『コックサッカーズ』に入るきっかけだよね。」

Jungle's (JPN Indies-Rock) - Break Bottle

E.D.P.S. - にがした・はじまり (Studio Live)


アミが在籍した、元祖・日本のガールズバンド『ガールズ』


『 “ジャングルズ”から“コックサッカーズへ、ジョージとの出会い”』


そこでジョージとも繋がることになる。だから、『コックサッカーズ』に入ったタイミングは『ジャングルズ』の活動が停止した時なんだよね。その時の俺は高校を卒業して、南阿佐ヶ谷に部屋を借りていた。そして、性懲りも無く、代々木にある『東京スクール・オブ・ビジネス』という専門学校に通っていたんだ。そんなとこ行って、広告屋にでもなるつもりだったのかしら? なんて当時の自分に問いかけます。はい。

 『コックサッカーズ』は何と言っても川上だからね。すごく面白かったけど、その分すごい面倒臭かった。俺が入った時はけっこう盛り上がっていたんだ。客も入っていたし、LIVEも良かった。でも、川上が何かをしでかす度にみんなして困惑した。何かって表現で理解して欲しいんだけど、なんかやっちゃう度に音を立てて積み上げていたものが崩れていって、客がどんどん減っていく。終いには、今では伝説になっちゃっている“良のギターぶん殴り事件”があって、ガタッ!っと、客が来なくなったんだ。川上はどんどん具合が悪くなっていくし、ジョージも「やってらんねぇ!」って見切ったんだな。そこまでだったよ『コックサッカーズ』は。でもさ、今思い返してみるとけっこう面白かった。実に楽しかった日々だったな。」

 「コークとスマック」:Cocksuckers(コックサッカーズ)


 『 “コックサッカーズ“から“GOD”へ、タツヤからキヨシへ』


「『コックサッカーズ』無き後、俺は『GOD』に入るんだ。達也(中村達也(※12))がいる頃の『GOD』は、それまでもちょくちょく観に行っていたんだけど、その時は対バンがハードコア系のことが多かった。そこで嫌がらせを受けるのよ、ハードコア系の客からさ、『GOD』はハードコアじゃないからね。缶ビールがステージにバンバン飛んできたりするんだ。ソレでもへこたれずに演奏する『GOD』が格好いいと思ったし、思わず気に入っちゃってたんだな、俺。もともと、『不正療法』やっている頃、『GOD』の良次雄(藤岡良次雄(※13))は『スタークラブ(※14)』をやっていて、その頃からの知り合いでもあった。その良次郎が『原爆オナニーズ』や『オキシドール』に移る時に、“スタジオに入ろうぜ”って俺から声をかけたんだ。でも、それについての音沙汰はなしで、再び、“この間のスタジオに入ろうって言われた話なんだけどさ”って良次雄が電話してきた時には、すでに1年も経っていたわけなんだよ。良次雄の“この間って感覚は1年かよ!”って思ったんだけど、まぁ、いいやって、寛大な俺は全てを飲み込んでスタジオに入ったんだ。まぁ、その理由はすぐにわかったよ。ドラムの達也が『スタークラブ』に移るタイミングで、ソレで俺が必要になったんだってね。」

THE GOD ゴッド 1984 No1 1/7

BLEACH ME - THE STAR CLUB

THE STALIN - 爆裂(バースト)ヘッド (1983)

※1983.5.2後楽園ホールTHE STALIN遠藤ミチロウ (vo)杉山シンタロウ (ba)良次雄 (gt)中村達也 (dr)


『 “さかな“の西脇を “GOD”へ誘い、自分は抜ける』


『GOD』に入った時点で『キャプテン・レーベル (※14)』からのリリースが決まっていたから、すぐにレコーディングに入ることになった。だから、いきなりで忙しかったよ。結局1年半くらいしか在籍しなかったんだけど、その間に2枚のアルバムを作ったんだから、期間の割には濃縮な時間だったと思う。『GOD』が『GOD OUT』に名前を変更したシーンは、『さかな(※15)』の西脇(※西脇一弘)が友達だったから、ギターで誘ったんだ。そうしたら、ある時に“『GOD』なんて名前は嫌だ”って西脇が言い出して、ほんと、困った奴なんだけど、“GOD”名が嫌なら本気で嫌なんだなって、妙に分かるよね。ソレで『GOD OUT』って名前にしたワケ。2枚目のレコーディングが決まっていたから、何とかしなければならなかったんだ。そうしたら、なんか俺も嫌になっちゃってさ、その後で辞めちゃうんだけどね。辞める前に『ジャングルズ』から『E D P S』に移って活動していた井出さんを『GOD』に誘ったんだよ。誘ってからしばらくして自分が抜けるというこの感じ。なんかグルグル回ってて可笑しかったな。」

 『さかな』の西脇さんはキヨシの紹介により、ジョージとも友人になっている。ジョージは『ウィスキーズ』のジャケット・デザインを西脇さんに依頼し、筆文字風のロゴタイプで『ウィスキーズ』唯一の作品を仕上げている。絵画や美術に興味のある2人は、共にパリを回ったこともあり、その友情の深さは現在も変わらない。

西脇さんデザインの『ウィスキーズ』のシングル・ジャケット

 
 余談になるが、先日、ジョージ、カノン、レンという『藻の月3/4』で、『さかな』のLIVEに駆けつけた。相手方のポコペン (富田綾子)さんの歌う世界には、どこか短編シネマのような響きがあり、聴きながらも脳の中で勝手に映像が広がるようであった。聞くとポコペンさんはガールズバンド『GO-BANG’S(※16)』のギタリストだったとか。SNSの中で、女性版ウィルコ・ジョンソンのようだと評判になっていた。

sakana / レインコート / 1990


GO-BANG'S / UNBALANCE (LIVE!)


『 ジョージの紹介でオスのバンド“OUT“に加入する』

 

「『GOD』を辞めてから、青ちゃんの歌じゃないけど“フラフラ”していたらさ、再びジョージが現れてオスのバンドを紹介してくれた。その時のジョージは『ウィスキーズ』をやっていたんだよ。紹介されたオスのバンドは『OUT』って名前だった。皮肉なことに『GOD OUT』を抜けて『OUT』に入ったってワケ(笑)。その時の『OUT』のドラマーは春日さん(春日博文/元『カルメンマキ&OZ』のGu(※17))だったんだけど、彼は韓国の『サムルノリ(※18)』にハマって韓国に渡っちゃったんだ。ソレでジョージの紹介で俺が『OUT』のドラマーになったというわけ。メンバーはオスがギターで、ベースがポリ(堀口隆之/元『ルージュ』のBa(※19))、ヴォーカルがハジメって言って、『ルージュ』の頃はツアー・マネージャーだった奴がフロントに立っていた。『OUT』は`88年の『命の祭り』にも出演したりして、`89年くらいまでやっていたかなぁ。その頃になるとジョージがちょくちょくスタジオに顔を見せるようになるんだよね。『ウィスキーズ』も終了していたから時間があったんだと思う。すると、段々と『OUT』が『Canon』へと変貌していくわけだ。そこらへんのジョージは意外と策士でね、実に巧みなんだよ。単純にジョージはオスとやりたかったんだと思うよ。ジョージは“この人と一緒にやりたい”って思うと、ちゃんとアピールする人だからさ、目的を果たしちゃうんだ。そこら辺は直球ありきで、変化球なしだね。同時に元キャロルのウッちゃん(内海利勝)にも声をかけようとしたんだけど、その時のウッちゃんは元気がなくてさ、成立しなかった。だから、『OUT』からオスと俺が引き抜かれた格好で『Canon』ができるというワケなんです。」

カルメン・マキ&OZ 私は風 '76


 

 さて、キヨシが無事に『Canon』まで行き着いたので、ジョージに登場してもらおうと思う。今回は(いつもと同じだが)高円寺の居酒屋で、酩酊しないよう気をつけて乾杯をした。

 

ジョーシ/談『“Canon“を始めたのは、“ウィスキーズ“の1年後だった』


●ジョージ(野月譲治)プロフィール

■藻の月/Vo・Gu
1959年生まれ。青森県三沢の出身。ドイツ人の父と青森県人の母を持つ。1979年頃、ヴォーカリスト川上浄と出会い、メンバーが流動的だった後期の『自殺』に参加。その後『コックサッカーズ』に改名してからは、ジョージのオリジナル作品でファンの心を掴んだ。そこで得た人脈とメンバーは、青木眞一(村八分・TEARDROPS)と組んだ『ウィスキーズ』、尾塩雅一(ルージュ)との『Canon』へと発展し、ロックンロールの伝説を生んだ。以前からのメンバーに加え、新たなメンバーと『藻の月』を結成。新メンバーの“若い魂”を注入し、過去と未来を繋ぐ“月の夜“を描いている。

  

●ジョージ 「『Canon』や始めたのは『ウィスキーズ』の1年後くらい。いや、すぐに始めたのかも。そこらへんは遠い景色の向こうだな。当時オス(尾塩雅一)がやっていたバンド『OUT』を観に行ってさ、そこからオスとキヨシ(中村清)をピックアップして『Canon』を作ったんだ。阿佐ヶ谷の居酒屋にメンバー全員を呼んでさ。“一緒に新しくバンドをやろうぜ“って持ちかけたのさ。『Canon』の最初のステージはコウのいない『フールズ』のステージアクトだったのを覚えているよ。それで、その時のLIVEテープを持ってケンちゃん(佐藤ケンジ/S・E・Xレーベル)をけしかけたんだ。「レコード作れないかなぁ」ってね。二つ返事でOKだったよ。すぐにシングルの録音に入ったのを覚えている。1stアルバムは『VIVID SOUND(※20)』、2ndアルバムは再び『S・E・Xレーベル(※21)』、3rdがチョコレートシティの『ナツメグ(※22)』っていうレーベルだった。LIVEのオムニバスも作った記憶があるけど、忘れちまったな(笑)。ベースは例によって宮岡。『コックサッカーズ』『ウィスキーズ』からの繋がりだよね。そこにシバイくん(シバイナオミ(※23))がサックスで参加して、けっこう盛り上がったよ。’89年くらいから’92年くらいまで活動したかなぁ? いや、’94年までやったかもしんねぇな。真ん中を取って’93年にしておくか、って、そんなもんだよ、今となってはさ(笑)。

 こう言っちゃあなんだが、『Canon』のLIVEには結構いい女が来ていた。客だよ、客のハナシ。『藻の月』のカノン(君島花音/Dr)の母親も観に来ていた1人で、そこから娘の名を花音(Canon)って付けたっていう話はどうだい? けっこう感動もんだろ⁉ 俺はこのストーリーを気に入っているんだよね。まぁ、娘の名前をバンドから取ったかどうか、その真意は別にして、『Canon』のオーディエンスであったことは確かみたいだ。」

□5月2日に『青山/月見ル君想フ』行われたジョージのバースデーLIVEで、花音のお母さんはステージのジョージに花束を渡していた。

Mec/monotsuki/2023:05:02/青山/月見るル君想フ

 

●ジョージ 「なんたって30年以上も前の話なんだよな、当然のごとく客たちにもそれぞれの人生がある。時々、今でも連絡をくれる人もいるよ。地方に引っ越したりして、全く違う人生を歩んでいる人も多いいと想うけど、今度の『ウィスキーズ』発売記念LIVEには何人か来てくれるらしい。ソレがずっとやり続けている俺たちの醍醐味でもあるよね。みんなが変わっても俺は変わんねぇ。って言うか、変わる必要もねぇしな。俺はココにいて、いつだって音楽を演っているってことさ。気が向いた時に観に来てくれればいいんだよ。

 バンドの始まりと終わりって難しいよね。俺たちはまだ若かったからさ、遊び盛りだったんだ。いつまで遊んでいるんだよって言うのも同時にあるんだけど、『Canon』の潮時はそんなこんなで、とっ散らかったのが原因かもな。やってられなくなるわけさ、音とは違うところで不協和音が生まれてくる。だけど、変な言い方かもしれないけど、『Canon』の頃は乗り切った感がある。それだけの貴重な経験もしたんだと想う。」

 『Canon』はジョージとオスの二枚看板である。1曲ずつヴォーカルを交互に取り合うスタイルは『ウィスキーズ』と同じと言ってもいい。どちらかというとジョージがファンキーでキレの良いロックンロールで、オスはストレートなアクの強いロックであった。そこにシバイナオミのサックスが絶妙なアクセントを加えている。

 オス作曲 「だから どうしたって」


Canon/I Like This/Record
S.E.X. Records/1989年
A1 今日の夢 (Song For "Stealth" Pilot)
A2 Same Old Story
B1 Dancin' Place
B2 I Like This


Canon/ハイダダイフィ島の真説
Vivid Sound/CD/1990年
1 午前3時
2 せんろの唄
3 もうしばらく
4 トゥ・ナイト・ザ・ナイト
5 秋の話
6 きをつけしてなよ
7 かわせみ
8 世界の果てまで
9 十字路
10 都会と駅GO-BANG'S / UNBALANCE (LIVE!)


Canon/仔供の領分

S.E.X./CD/1991年
1 モンマーのたたり
2 ドクターズ・ジョブ
3 アズテック・イン・ザ・ヘルス
4 よあそびしましょん
5 クレイジー
6 85才のジジイ
7 Zeit ist Geld
8 にげろ
9 ダンス・ヴァウ
10 なんてこったい90'リヴァーズ・エッジ
11 バトル・オブ・ラヴ
12 仔供の領分

Canon/ Soul Magazine
Nutmeg/CD/1991年
1 Owl Song
2 7発の弾
3 Fox Blues
4 だからどうしたって
5 Throw Away
6 夢をすてるなよ
7 Take A Baby Blue
8 チャンスがきたなら
9 Band Stand
10 目ざまし時計

●ジョージ 「その後、『WAX』ってバンドを5年くらいやったかなぁ。『WAX』の最後の方はテクノになっちゃったけどね。作ったアルバムにはヒゴさん(ヒゴ・ヒロシ/ミュージシャン、DJ (※24))がベースで入っている。あと、ノゲラ(※25)って言うクソ面白れぇ奴がパーカッションで参加しているよ。アルバムはキャプテントリップから出したんだ。」

□『ノゲラ(Nogera)』は、矢沢永吉のバックバンドのドラマーであり、日本を代表するドラマー/パーカッショニストであった。

Eplsode03 Echo&Nymph Uni & Nogera Drum session Live 2014

 

●キヨシ 「Canon』からオスが抜けるカタチで『WAX』になるんだけど、『WAX』でテクノをやろうよって言い出したのは俺なんだ。テクノって言っても『YMO』のアレじゃないよ。レイヴ系のやつね。クラブやD Jで鳴っているサウンド。(レイヴ(rave)は、ダンス音楽を一晩中流す大規模な音楽イベントやパーティーのこと)当時、俺は耕太郎(※小山耕太郎)と連んでしょっちゅうクラブで遊んでいたんだ。ソレでレイヴ系の音をジョージに聴かせて、“こういうのをやろうぜ”って持ちかけたんだけど、レイヴ系のLIVEをやる前に俺がバンドを辞めちゃったんだよね。辞めた理由? 遊ぶのに忙しかったんだよ。バイトも忙しかったんだけどさ。とにかくあの頃は遊んでた。そんなときって誰にだってあるだろ?」

レイブ (音楽)


 『M.M.Delight』という名で『レインボー2000』という野外レイブイベントを始め、成功させた日本での先駆者・森田氏(森田勝)は、かつて『セカンドライン』という事務所兼スタジオを中野に持ち、『フールズ』や『TEARDROPS』が随分とお世話になっていた。『TEARDROPS』が格闘技の殿堂・後楽園ホールでコンサートを開いたり、法政大学学館ホールでのイベントを行なった際、それを仕切っていたのも森田氏である。レイブ・イベントが各地で盛り上がっていく中、病により天上に召され、無念のときを迎えた森田氏の葬儀には、たくさんの関係者が参列する中、朝までドラムを叩き続ける『ノゲラ』の姿があったという。

M.M.Delightこと森田勝氏/おせわになりました

 

 『 “森の月“から“藻の月“へ』


●ジョージ 「『森の月』は、森圴(もりきん)っていうヴォーカリストがいて、俺とツインヴォーカルだった。あとのメンバーは、こうたろう(小山耕太郎)とキヨシ(中村清)。森圴は『風天(ふうてん)』というバンドに居て、俺と同じでヴォーカル・ギターだった。スゲェ酔っ払いでアル中だったぜ!(人のことは言えねぇか)」

 『風天』はロックというより、ファンクでレゲェ風だったという。ギターが3本、ドラム2台にパーカッション。さらにサックスとトロンボーンの管楽器が入ったステージもあったりして、ステージ上がぎゅうぎゅうだったのだとか。その中での森圴はクールな目をした親方風な人物であったという。『Canon』でサックスを吹いていたシバイナオミもこのバンドに参加していた。90年代半ばに解散している。

風天 / ニュース(1994レコーディング@曼荼羅)

 

●キヨシ 「『Canon』を演っている頃、『風天』とはよく対バンをしていたんだ。それを耕太郎がよく見に来ててさ、ジョージと森圴が一緒にやったらどうなるのか? ってイメージしていたんじゃないかなぁ? 俺はそう思っている。『森の月』は耕太郎がコーディネイトしたようなバンドなんだよ。ちょうど『WAX』が煮詰まっている頃で、宮岡も活動ができなくなっちまったから、森圴と野月ジョージから一文字づつ摂って、『森の月』ってバンド名にしたんだ。だから、ベースがいなくて、ジョージと耕太郎が交代で弾いたりしていた。そのうち安井がベースで入ってくるのかな? ノゲラが入ったり、トケイ(※)まで参加するんだけど、ちょっとルーズ過ぎたかな? って感じを通り越して、いよいよおかしくなってくる頃だった気がする。森圴が最終的にアル中になって、ギターの代わりに本気でホウキを持ち出した頃、だめだこりゃ!って終わった」

●ジョージ 「『森の月』から森圴がバンドを抜けて、代わりに大島がギター・ヴォーカルで参加したことにより『藻の月』となったんだ。その大島も『藻の月』の1stアルバム収録直後に『FOOLS』に参加したから、抜けているんだけどな」

THE FOOLS FILM & SESSION~「THE FOOLS 愚か者たちの歌」初公開!ライブ!


 『 “藻の月“は、ただ音楽を楽しんでいるだけのバンドなんだ』

 

●ジョージ 「俺たちは “生き方がどうこう” いうバンドじゃないし、そこに理屈をつけるつもりもないよ。ただ “音楽を楽しんでいる” だけなんだ。結局、残るのは音楽なんだし、ソレに関わった全ての人たちが俺たちと一緒に音を作っていると思っている。

 正直にいうと、俺は今がいちばん楽しい。音楽をやっていること自体にノっているんだ。もちろん、刺激的だったのは最初にやり始めた『自殺』のときだ。何もかもが初めてだったし、ヴォーカル相手にギターを弾くのはあの時だけだったからね。

 そんな足元を見ながら、周りに目を移すと、今はギタリストとしてのレンがすごく面白く映る時がある。だからさ、ついついソロを長く弾かせちゃうことになるんだよ。合図は出すんだけど、引っ張っちゃうって感じ。展開が止まらないんだ。そういった意味じゃ『ブラックカイト』なんか典型的なんだけどね。」

BlackKite/藻の月/月見ル君想フ/2023/05/02

 

●ジョージ 「音を構築するんだったらオスのギターなんかが良いんだけど、今はちょっと飛ばしてもらいたいから、レンに入れ上げているね(笑)。

 カノンにはシンコペーションを見直してもらっているところ。やたらに入れるとコッチは腰が砕けちゃうんだ。そこら辺の駆け引きがある。もちろん今のままでも十分に良いんだけどさ、どうせ俺たちとやるんだったら、もっともっと行こうぜってところかな。

 安井はバンドの要だね。あの独特で不思議なベースは、今や『藻の月』が回っていくのに欠かせないと思っている。

Close Gains/藻の月


 俺はさ、残していきたいんだよ、その時々の音をさ。ソレが俺たちが生きている証だと思ってもいる。俺の人生も先が短くなってきて、身体にも色々とガタが出てきてさ、描き出した想像力を現実が奪っていく場面もあったりする。ソレでも今の想いを伝えていきたいって想うとさ、レンとカノンの存在が必要になるんだ。

 そんな永遠とも想える一瞬の音を出すことができたら、ソレをみんなに伝えていくのが俺の役目ということに。まぁ、そうしておくか、なんてな(笑)。」

(第5話『Canon〜藻の月へ/中村清●登場!』終わり▶︎第6話に続く)

次回はキヨシ(中村清)の続編を予定しています。


●7月28日(金曜) 高円寺ShowBoat


【ウィスキーズCD発売記念】

出演:●藻の月●The Ding-A-Lings●まのけばJET

OPEN 18:30 START 19:00

ADV.¥2300  DOOR.¥2800

 

■INFORMATION 【WHISKIES/CD】 2023年7月12日発売!

※青木眞一(TEARDROPS)、ジョージ(自殺)、マーチン(フールズ)、宮岡(コックサッカーズ)による、ウィスキーズ唯一の音源であるシングルリマスターを初復刻!山口冨士夫のカバーを含む未発表ライブを2CDに収録!


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●カスヤトシアキ(粕谷利昭)プロフィール

1955年東京生まれ。桑沢デザイン研究所卒業。イラストレーターとして社会に出たとたんに子供が生まれ、就職して広告デザイナーになる。デザイナーとして頑張ろうとした矢先に、山口冨士夫と知り合いマネージャーとなった。なりふり構わず出版も経験し、友人と出版会社を設立したが、デジタルの津波にのみこまれ、流れ着いた島で再び冨士夫と再会した。冨士夫亡き後、小さくクリエイティブしているところにジョージとの縁ができる。『藻の月』を眺めると落ち着く自分を知ったのが最近のこと。一緒に眺めてはどうかと世間に問いかけているところである。

 

サミー前田(※1)/ボルテイジ・レコード主宰。GSにたけてる音楽評論家でもある。

ヌエイン(鵺院)(※2) /vo: 土肥ぐにゃり g: 小山耕太郎 b: 永田也寸志 drs: 中村清の4人のメンバーによるバンド。

小山耕太郎(※3)/町田康&北澤組、WAX、藻の月、aka-jam、The Ding- A- Lings等で活動したギタリスト。2017年没。

外道(※4)/1973年にデビュー、1976年に解散、その後メンバーの脱退や復活などを繰り返し、現在も活動中。ミッキーカーチスがプロデュースし、後にジェフ・ベックと共演した。

中野良一(※5)/オリジナルメンバー。2002年から2003年にかけてのオリジナル名義での外道に再加入。シングル『悪魔のベイビー』のボーカルを務める。

青木正行(※6)/オリジナルメンバー。普段のMCを勤めた。1981年に脱退。後に山口富士夫の『タンブリングス』に参加。

8 1/2(※7)/1978年に千葉で結成。結成当初はボーカル、ギター、ベース、ドラムスの4人構成であったが、程なくギターが抜けてキーボードの上野耕路が加入。キーボードを前面に出した上野の音楽性によって、バンドのサウンドに独自性がもたらされた[。

スピード(※8)/Vo.ケンゴ、Gu青木真一、Ba江口、Drボウイの4人のメンバーにより結成。川田良が在籍していた時期もあった。東京ロッカーズでありながら、アウトサイダー的な存在感を示していた。

フリクション(※9)/1970年代後半の「東京ロッカーズ」ムーブメントの中心的存在であり、その後もメンバー交代や休止期間を経て現在も活動中。レックを中心メンバーとする。

EDPS(※10)/1982年から1984年の前半までの活動した3ピースバンド。『フリクション』に在籍していたツネマツマサトシ(Gr/Vo)が中心となり 骨太なロックを核としたサウンドを放っていた。

アミちゃん(もと『ガールズ』Ba/Asami Ami Tatsuoka(※11))/立教女学院出身のあみちゃんは、ユーミンの後輩にあたる。川田良と結婚して楽しくやっていたが、大変なんだろーなーと、いつも思っていたのだよ。

達也/中村達也(※12)/ドラマー、俳優。1987年から2000年までBLANKEY JET CITYのドラマーとして活動し、2013年までソロプロジェクトのLOSALIOSで活動。富山出身。

藤岡良次雄(※13)/1978年頃THE STAR CLUBの2代目ギタリストとして活躍。インディーズ盤のレコーディングの最中に脱退し原爆オナニーズを結成。しかし原爆オナニーズを脱退し、元オキシドールの中村達也とともに、スターリンに加入するがスターリンは解散。そして元オキシドールのノンと中村達也とともにTHE GODを結成。

キャプテン・レーベル (※14)/サブカルチャー誌であった雑誌「宝島」が1985年に発足させたレーベル。80年代後半の日本インディーズ界を語るに避けては通れないシーンである。

さかな(※15)/ポコペンと西脇一弘が中心となって結成されたバンド。1983年夏に西脇、本間、林の3人で「さかな」を結成。本間と林が脱退し、西脇は『GOD』のサポートを4年続ける。1987年末ポコペンと出会い意気投合。以後数回のメンバーチェンジを経て、デュオで活動を続けている。ゆらゆら帝国の坂本慎太郎やクラムボンの原田郁子などから、高い評価を得ている。

GO-BANG’S(※16) 1980年中期から1990年中期にかけて活動し、2013年から森若香織のソロユニットとなる、ガールズバンドである。

春日博文/元『カルメンマキ&OZ』のGu(※17)/東京都出身のギタリスト、音楽プロデューサー。1970年代に、カルメン・マキ&OZのリーダー。OZ解散後は、ギタリスト、音楽プロデューサーとして、仲井戸麗市、RCサクセション、ソウル・フラワー・ユニオンなどの活動に関わった。1980年代後半以降は、韓国・ソウルに活動の拠点を移し、ミュージシャンのプロデュースを数多く行っている。またRCサクセション活動休止の大きな原因になった人物であるが、本人にはその自覚が全くないようである。

サムルノリ(※18)/朝鮮の伝統楽器であるケンガリ・チン・チャング・プクを用いた韓国の現代音楽のひとつ。プンムルノリと呼ばれる農村地帯の伝統的な農楽をもとに、1970年代末に舞台芸術としてアレンジされたパーカッション・アンサンブルである。

堀口隆之(※19)/元『ルージュ』のBa

VIVID SOUND(※20)/東京に本社を置くレコード会社ヴィヴィド・サウンド・コーポレーションによるインディーズレーベル。おもに1950年代 - 1970年代のソウル、ブルース、ジャズ、ワールドミュージック等のコレクタブル・アイテムのリイシューを手掛けている。

S・E・Xレーベル(※21)/ID Japanが主催するインディーズレーベル。

ナツメグ(※22)/代々木のライヴハウス“チョコレート・シティ”が母体となり、1989年12月に設立したインディー・レーベル。KING ZABBYがプロデューサーとしてかかわる。一部の作品は、キャプテン・レコードで流通。 1993年以降は、コロムビアTRIAD内に設立したトライアドZからのリリースに注力していく。

シバイナオミ(※23)/サックスプレイヤー、ギタリスト。ボーカルもできるラスタマン。

ヒゴ・ヒロシ(※24) /ミュージシャン、DJ。1978年、日本初のインディー・レーベル、ゴジラレコードを設立。ミラーズ解散後80年にチャンス・オペレーションを結成し、ヴォーカル&ベースを担当。現在は自身のバンド、イハールコネクト、アンノジョウ、MAJIKA~NAHARUをはじめ、渋さ知らズ、のなか悟空と人間国宝周辺などでも長年に渡り活動を続ける他、多数のセッションを企画、参加している。また92年よりDJを開始すると同時にハードコア・レイヴ・WATER、ダンス・パーティーDip Aura等を主催し、ミュージシャン、DJ共に既成の枠にとらわれない活動を続けている。

ノゲラ(※25)/矢沢永吉のバックバンドのドラマーであり、日本を代表するドラマー/パーカッショニストであった。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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