パーマカルチャーがどうして農業ばかりなのか
パーマカルチャー
permanent:永続的
agriculture:農業
culture:文化
の造語
ぐるぐる回れるような生活を目指すもの。
というネット記事に納得がいく半面、
農業にばかり視点が移る活動が多くて
それは違うんじゃないか。
とモヤモヤする。
ケース①
飲食店に携わっている人が食べ残しの食料廃棄を見て、
このゴミはどうなるんだろう、
と思って問題意識を感じて
コンポストを利用して有機農法で野菜を作り
無農薬野菜のレストランを開業
ケース②
海外に行った経験から
自分の生活を見直すきっかけと気付きがあり
ノントレー食材の購入をして
家庭では野菜の端から端まで使ったお料理を
作ることを習慣にしている。
ケース③
SDGsの活動が周知される影響で
自分も何か取り組みたい!とワークショップを開いて
自然に近い生活の中で
作物を育てる大切さを地元から発信。
どれも理にかなっているから
素敵な活動だと思う。
間違いもない。
でも最適解でもない。
永続できる、循環出来る文化を目指そう!
と提唱が始まった概念にも関わらず
cultureがagricultureを通らなければ
話が成り立たないような結論がどうして多いんだろう。
私は毎日畑を耕したくない
私は毎日炎天下の下で作業したくない
私は毎日虫と格闘する自然に埋もれたくない
私は泥まみれになってまで収穫をしたいと思わない。
あなたは暑い中毎日作業をして
ピーマン一つとれる生活を
望みますか?
都会の生活に慣れてしまったからこその意見ではない。
環境がどうでもいいからこその意見ではない。
実家の稲作から米穀店の営みまで
20年以上かけて見てきたから思うこと。
ご近所の農家さんの事を知っているから
思うこと。
田畑を持たない生活スタイルが悪いとかそういうのではなく
私の食生活の野菜のルートは幼い頃から
スーパー→調理→食べる
ではなく
畑→調理→食べる
だった。
社会勉強で
「あんたら知らないだろけど野菜はスーパーで買えるんだよ」
「お米もこうやって売ってるんだよ」と
母が毎日スーパーに連れて行ってくれたほど。
入り口が違うだけ。
世間ではスーパーで野菜を購入して調理することに
便利過ぎる世の中が生み出す闇に問題意識を覚えて
色々調べて行きつく先が
農業になるんだと思う。
一つ一つ手で育てて食べ物をいただく
そういう取り組みに行きつく。
私の中の食べ物の流通経路の入り口「畑」に辿り着くんだと思う。
反対に私はみんなの食べ物の流通経路の
入口「スーパーマーケット」に行きつく。
農業って大変。毎日畑の様子を見に行くの大変。
だからこういう卸業者が合って
スーパーで売って
分業してみんなの手元に食材が届くようになるのか。
と、農業の苦労に問題意識や闇を感じて
行きつく先がみんなが体験している
便利なスーパーマーケットのシステムになった。
卵が先か鶏が先か。
農業→販売→購入→調理→消費→廃棄→農業→販売→購入→調理...。
視点が動いていっているだけのようにも感じる。
農業しか見ていなかった人が
実は販売→購入の経路をうまくすれば
農業の苦労が半減するんではないか。
購入することしか見ていなかった人が
廃棄→農業→販売の経路をうまくすれば
消費→廃棄で生じる問題を
うまく解決できるんじゃないか。
今いる位置から少し先で起こっている問題を解決して
丸く収まる。
そういう風に思いついてしまうのかもしれない。
そう考えるともう社会は循環していて
視野が狭いから問題ではないところに問題意識を持っているかもしれない。
逆に視野が広いから問題ではないところに問題意識を
持てるのかもしれない。
これがもやもやの一つ。
あと二つある。
↓二つ目のもや
。。mina。。