かんたん、無知の知とポスト構造主義

無知の知とポスト構造主義

・ポスト構造主義はかんたん

 ポスト構造主義というと難しいものだというイメージがあるかもしれません。

 しかし実際にはすごく簡単です。

 例えばポスト構造主義は下のように表現されます。

 「自分が知らないことを知るべきだ」、これはソクラテスの無知の知と同じです。

 ソクラテスは「自分が知らないことを知っている」と人に吹聴して、他のみんなが知らないのに知っている気になっていることを暴いてうざがられて殺されてしまいました。

 何となくソクラテス、プラトン、アリストテレスの流れが西洋近代哲学と連続で繋がっているようなイメージを持たれがちですが、実際には不連続です。

 そもそもソクラテスとプラトンも不連続とも見ることができます。

・全ての考えは思想で仮説

 全ての言説や理論は思想で仮説です。

 誰かの哲学も構造主義もポスト構造主義も思想で仮説です。

 ニュートンの力学も量子力学も電磁気学も相対性理論も全て思想で仮説です。

 哲学に限らずいろいろな考えを押しなべて思想ないしは仮説と言いましょう。

 思想を研究する学問が広い意味での倫理学で倫理学に哲学が含まれるという見解があり現在は高校の社会科でも倫理に哲学が含まれているようにこちらの考え方が支配的かもしれません。

 逆に狭い意味の倫理は人の生き方や正しさを考える学問という見解があります。

古代哲学や近代哲学はたとえば哲学者のカントの三大著書が純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判と別れているように狭い意味の倫理も哲学者が扱う傾向にありました。

・思想は仮説

 宗教も思想ですし慣習的道徳も思想ですし科学理論も思想です。

 思想は同時に仮説です。

 ポスト構造主義は「全ての思想は仮説にすぎない」ということを言っています。

 思想というのは正しいか正しくないか、真か偽かは分からないというのがポスト構造主義の考え方です。

 これはソクラテスの無知の知も一緒です。

 ポスト構造主義はソクラテスを一般化して無知なのはソクラテスだけではなくみんなそうなのだからそれを自覚しよう、という考え方です。

「人間には所詮分からないことがあるのだ」ということです。

・ポスト構造主義自体も仮説

 「人間には分からないことがある」というのもまた思想で仮説です。

 ですからポスト構造主義自体も特に特別視するものではないと思われるかもしれません。

 同様に無知の知も仮説です。

 誰も無知の知が正しいとか正しくないとか結論できないというのがポスト構造主義の考え方でこれが現代哲学の基本になります。

 
・仮説は真偽が決定できない

 仮説自体は真偽が決定できない、というのがポスト構造主義です。

 まとめるとポスト構造主義では全ては仮説でありかつ仮説は真偽が不明であることを主張します。

・現代哲学はポスト構造主義の基盤に立っている

 全ての思想は仮説で仮説は真偽不明なので特別な誰かの哲学とか科学理論というものはない、というのがポスト構造主義の考え方です。

 ポスト構造主義の考え方自体も1つの思想で仮説に過ぎませんが、これに特別な位置付けを与えます。

 ポスト構造主義以外の思想をただの思想とします。

それに対してポスト構造主義の思想をメタ思想と名付けてみます。

現代哲学ではポスト構造主義の思想に対して特別な地位を与えて現代哲学の前提とします。

・メタとメタ認知

 「自分が知らないことを知っている」「語るべきことでないことは沈黙するべきである」こういう認知の仕方をメタ認知といいます。

 自分の認知に対する認知です。

 自己言及的という言葉を使うことがありますが、これは数学基礎論や論理学で使う場合に特殊なニュアンスを持ちます。

 そもそも1つの思想に対して特権的な地位を与えてそれを思想でも哲学でも理論でも考える際の前提にすると言うことは恣意的であると思われるかもしれません。

 自己言及的であること、恣意的に感じることという意味でポスト構造主義は特殊な思想です。

 別の観点からいうと、メタな思想、メタ認知というものは普通の思想やメタでない認知と分けて考えなければいけないというのがポスト構造主義、ないしは現代哲学の考え方です。

・ポスト構造主義はメタなもの、メタ認知を扱う

 ポスト構造主義の「分からないことは分からないとする」というのポスト構造主義は他の思想と区別して特別視します。

 ポスト構造主義のルールと言えますし、線引きでもあります。

 これは哲学の結論であるとともに哲学の開祖的な存在とされているソクラテスの結論でもあります。

 つまり最初にかえったわけです。

 ポスト構造主義や無知の知が特別であることを言い換えると「メタなものはメタでないものと分けなければならない」ということになります。

・現代哲学と線引き

 現代哲学ではメタなものとメタでないものを分けますが、知りえることと知りえないことも分けます。

 そしてはっきりと線を引きます。

 そのような線引きをするのがポスト構造主義の考え方です。

・知りえるものと知りえないものの線引き

 哲学をより確実な基盤の上に構築するという流れが近代より出てきました。

 その結果として出てきたのが「線引き」です。

 例えば現象学のフッサールは哲学で扱うのは現象のみで、現象以外の何かがあるとしてもそういうものは留保するべきだといいます。

 留保というのは保留でもよくてアポケーと言われることもあります。

 分からないものは置いておけというわけです。

 そういう意味ではポスト構造主義は不可知論と思ってもらって構いません。

 可知と不可知の線引きをするのがポスト構造主義です。

・哲学の不可知化

 哲学が可知、不可知の線引きをするようになったのは厳密には現象学からだと思いますが、それ以前にも可知、不可知をめぐる色々な考え方が生じてきました。

 それは現象学以外でもそうです。

 実存主義は知るとか知らないとかどうだっていいという考え方です。

 どう生きるか、どうあるべきかを問題にして、知るとか知らないとかは焦点にはなりません。

 ドイツ観念論もカントに対する批判を含んでいます。

 カントは物自体というものを仮定しましたが家庭に過ぎないのでそれを排除して哲学を構築します。

 ドイツ観念論では物自体を否定しているのであればポスト構造主義ではありません。

しかし物自体の存在は不可知とすればポスト構造主義を取り入れていることになります。

・観念論と唯心論

 最終的にはどこまでが哲学の対象かという議論が近代後期から現代初期に発生しています。

 この場合の哲学は存在論と認識論です。

 そこを自覚をもって厳密化したのが現象学のフッサールであったとも思われます。

 現象学以降の哲学はフッサールの土台の上に立っているとも言えます。

 観念論も唯心論も観念や心以外のとらえ方によっては不可知論になりえます。

 観念の外に何かがある、あるいは何もないと言ってしまうとポスト構造主義ではありません。

 観念の外に観念以外の何があるかは分からない、あるかもしれないし、ないかもしれないと言えばポスト構造主義的です。

 唯心論も心以外にも何かがあるとか心の外には何もないとか心の他の存在を肯定したり否定すればポスト構造主義的ではありませんが、心以外に何かある可能性があるがそれは分からないことだ、と言えばポスト構造主義になります。

・線引きとルール

 「語るべきことでないことは沈黙すべきである」というのはウィットゲンシュタインの言葉です。

 彼は思索の範囲に線引きを行っています。

 この様な線引きとルール設定を行うことが哲学が科学と伍すためには必要でした。

・科学の場合

 科学の典型例として自然科学を上げましょう。

 これは実証と理論化で成り立つ世界です。

 理論を実証する、あるいは実験や観測した結果に整合性が合うように理論を作るを繰り返します。

 この場合の理論は全て仮説です。

 自然科学の理論というのは原理的に、ポスト構造主義に言えば全て仮説です。

 たとえ実証されたことを全て説明できる理論ができたとしてもそれでもその理論は仮説です。

 あらたにその理論では説明できない事象が観察されるかもしれません。

 あるいはその理論以外にも全ての実証データを説明できる理論があるかもしれません。

 観測や実験で得られたことを説明する方法などいくらでもあります。

 例えば、「デウス エクス マキナ」という言葉がありますがフィクションなどでのご都合主義の意味で使います。

 古代ギリシャの劇で問題や状況の混乱したときにかごに乗った神様が上から降りてきてすべてを解決してくれるという演劇の技法をいいます。

、神様や宗教はそれを導入すれば世界の成り立ちでも分からない疑問も全て説明したり解決できる装置となります。

 ただ神さまは実証できないので科学的な問題ではなくなります。

・ポスト構造主義は無神論ではない

 ポスト構造主義はあくまで不可知論、分からない、分からないものは問題にしないという考え方であって、分からないものを肯定したり否定したりする考え方ではありません。

 宗教にあてはめるとたとえば神の存在を肯定したり否定したりする考え方ではありません。

 神が存在するかしないかは分からないので問題にしないという考え方です。

 
・理系の数学、文系の言語学

 構造主義は最初に数学と言語学から生まれたようです。

 科学や学問は数学と言語から成り立っています。

 理系では数学、文系では言語の比重が大きいかもしれませんがどちらも使います。

 数学を使わない人文系の学問もあるかもしれませんが、この場合は言語が重要な武器です。

 学問の最も大切な道具である数学と言語の基礎を考える過程から構造主義が生まれたことに注目です。

・構造主義の実用性

 数学の構造主義は現代のコンピュータや計算機科学に直結しました。

 つまり新しい産業革命を起こしました。

 構造主義は手段であり思想とは言えますが哲学と言っていいのか分かりません。

 ただ構造主義を使って哲学の問題、例えば存在論や認識論を構築すると構造主義的存在論や構造主義的認識論になって哲学になります。

 この構造主義の哲学の導入して実在論と認識論の理論を作ったことにより哲学が現代化されました。

・ポスト構造主義の実用性

 ポスト構造主義が自由や平等、人権の基礎になっています。

 特に思想や信教の自由です。

 また主体性や自主性の基礎にもなっています。

 現代のメタ認知や自覚や覚悟、信仰観などへの基礎になっています。

 自然科学などの諸科学によっては永久に真理というものには到達できない、ということの根拠ともなっています。

 総じて現代哲学が近代、現代の啓蒙思想や自由主義思想の根拠になっています。

 どの思想も宗教も道徳もそれが正しいのか間違っているのかは分からない、ということをポスト構造主義は保証します。

 ですから総じて倫理というもの、社会思想、科学哲学、道徳、個人の自主的、主体的生き方などを支えるものであり、その理論的な根拠になっています。

概して真面目な人が現代哲学的に生きようとすると現代思想化ではありませんが実存主義者のサルトルのようになります。

人間が絶対的な自由で個人は自分で個人的な信条、社会的な信条を選択して自覚的におその決を持ちます。

逆に不真面目、と言ってはいけないのかもしれませんが、奔放な人が現代哲学的に生きようとするとドゥルーズ=ガタリの提示したような生き方になります。

その都度個人的、社会的思想をころころ変えていくわけです。

・いわゆる現代のリベラルは現代哲学とは別物

 いわゆる政治的、経済的、社会的な自由主義とポスト構造主義でいう自由は違うものです。

 ポスト構造主義では思想は2つに分かれます。

 メタな思想と普通の思想です。

 メタな思想、メタ思想、メタイデオロギーは「無知の知」「知らないことを知っている」「分からないことは沈黙すべき」というポスト構造主義の思想です。

 これは別格で普通の思想やイデオロギーを扱う際の原則でレベルというかクラスが違うものです。

 この原則であるメタイデオロギーの下で(上でもいい)普通の思想やイデオロギーを扱います。

 これは科学の理論や法則も一緒です。

 全ての普通の思想やイデオロギーは仮説に過ぎない、ということです。

 この様に分けることでメタな認知、メタ認知の視点から色々なイデオロギーを眺めます。

 メタ認知が分かっていなければ現代哲学は使いこなせません。

 ここをごっちゃにすることでよく混乱しがちになるのは政治的、経済的な自由主義でひっくるめて社会的な自由主義です。

 ポスト構造主義のいう自由はサルトル風の完全な自由で人を殺すのも主体の決断として自由、という方向に行きやすいものです。

 それゆえに個人的な主義や信念に向いています。

 社会的な個人の勝手気ままな自由を許すイデオロギーは現実的ではありません。

 社会的なイデオロギーは人間関係を安定なシステムとして保つために設計するのが現実的です。

 そのため、「何かの自由が何かの不自由」「誰かの自由が誰かの不自由」と言うことになります。

 つまり普通のイデオロギーの社会的な自由は相対的な自由です。

 ポスト構造主義によって普通の思想やイデオロギーは相対的なものとなります。

 ポスト構造主義の基では何かの思想が正しいとか正しくないとかは不可知なものであるためにどちらが優位とかの順位付けはしないかしても恣意的なものか何かの意図に基づいてするだけのものに過ぎません。

・ポスト構造主義に必要なもの

 メタ認知が必要になります。

 これは人間なら持っているのが当然と言うことは全然ありません。

 例えば統合失調症では機能低下しますし、理解していないと知能や教養があってもメタ認知能力があるかどうか疑わしい場合が多く見られます。

 例えば数学で言う独立の概念すらなくて、関係ない者同士を勝手に関係づけてしまったりします。

 そうなると詭弁に騙されやすくなります。

 不可知論や健全な懐疑主義を持つことも大切です。

 二元論や二項対立的な思考から離れる能力も大切です。

 正しいの反対は正しくないではなりません。

排中律的な論理学の初歩的な考え方にとらわれている人が多く見られます。

 正しいか正しくないかだけでなく、正しくも正しくなくもないことがあるかもしれませんし、正しいか正しくないか分からないこともあるとポスト後構造主義では考えなくてはいけません。

 ポスト構造主義を理解してない場合の二元論は危うく暗いのと同様に、ポスト構造主義を理解してない場合の一元論の思想もやはりそれに絡めとられてこんがらがる場合があります。

 観念論では観念しかなく観念以外には何もないと考えがちです。

 しかしポスト構造主義を分かっていれば控えめに言って観念の他に何かがあるかないかは分からない、程度しか主張できないと謙虚になれるでしょう。

 唯心論も同様です。

 心しかないと言ったら言い過ぎです。

 「心こそ世界で世界は心である」そうかもしれませんがそうでないかもしれません。

 我々の心の知らない心の外の世界もあるかもしれません。

 これも正しいとも正しくないとも言えないくらいに弁えておくのが無難です。

・教養、言語、数学

 中世自由7科、いわゆるリベラルアーツは大きく分けて言語と数学からなります。

 この2つが現在でも科学の記述言語であることは今も変わりません。

 奇しくもこの2つの学問の研究、数学と言語学から構造主義が生まれたのも面白い符丁です。

 構造主義が生まれたから実在論が相対化できたのであって、その相対化からポスト構造主義が発生します。

 そして哲学の原則になります。

 この原則は哲学を含めた各種の学問や現代思想などでは生じつつあったのですが、最終的にポスト構造主義としてまとめられました。

 ポスト構造主義を別のとらえ方をする場合もあると思いますがここではそう定義します。

 リベラルアーツは基礎だからどんな専門科目、例えば中世なら神学、法学、医学、哲学(ここでは雑多な学問をひっくるめたものとする)を学ぶ際の必修として大学の教養で学ばれました。

 これは今も同じようなものです。

 ポスト構造主義的な見方ができなければ教養の必要条件を満たしていないといえます。

 仮に現代哲学やポスト構造主義を知らなかったとしてもソクラテスの無知の知を知っていれば十分です。

 ソクラテスの無知の知は中学で学ぶかは知りませんが、高校で社会科の専門科目に進む前には文理に関係なく全員学ばされることでしょう。

 ということでポスト構造主義を知ることは少なくとも高校卒業レベルでは必須と言えます。

 逆にポスト構造主義を知らなければ(無知の知でもよい)、高校を卒業していたとしても高校で何を学んでいたのだと言われても仕方がないかもしれません。

 ポス後構造主義は構造主義と比べて中学卒業レベルの学力があれば、つまり高校に行くことができる学力があれば子供でも理解できるものと考えられて高校1年生で学びます。

 社会科で選択する前に全員が学ぶ、おそらく文部科学省のカリキュラムの高校の必修課程のはずです。

 ですから大方だれでもメタ認知を持てる芽はもっていますし、特に勉強したわけでなくともポスト構造主義が身についている人は多いと思います。

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