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おやさまたより

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私の信仰する天理教の二度にわたる修養科の体験をエッセイにしました。
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私の天理教修養科ものがたり パート1

 私は熱心な天理教信者だと思うのですが、その始まりは全く関心もなく逆に否定的なものでした。
 

 母方の在所に曽祖父母の代から伝わる信仰ですが、実際には私の記憶は祖父母の暮らしぶりに根付いていたものからでした。祖父は片方の目を失明していたのですが、全盲にならずに済み普通の暮らしができることをいつも感謝していました。
 母の話によれば、祖父は山仕事をしながら

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私の天理教修養科ものがたり パート2

 私は生まれつき目に見えない存在に根拠なく親しみを感じ、深い崇敬の念も持っていたことは確かなようです。
 正月には初詣に行き、涅槃会にお寺から配られる花草餅を喜んだり、葬式で坊さんの読経に腹を抱えて笑ったこともありました。直前に絵本で読んだ「なむからかんのんトラヤーヤー」って言うお経が聞こえてきたのを妹と顔を見合わせたら思わず吹き出してしまったのでしたが。

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私の天理教修養科ものがたり   パート3

 天理教本部は奈良の北部、山の辺の道に沿う所にあり古くから豊かな営みを重ねてきた土地柄にあります。立教当時は庄屋敷と言われ「おやさま」中山みきさんは富農の家の一主婦でした。

 「足達金持ち 善兵衛さん地持ち」とも言われ雇人もいるような家に14歳で嫁がれましたが、幼いころから信心深く結婚するより浄土に憧れ念仏三昧の女性だったようです。それでも一家の大黒柱

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私の天理教修養科ものがたり パート4

 現在天理教団の組織は、真柱と言われる中山みきさんの血筋の人がその任に当たり信者を束ねています。その下に表統領・内統領といってそれぞれに下部組織が配置されて全国にネットワークされてもいます。
 
 また、その信仰の広がりは「おやさま」が現身を隠されて以後、先人である高弟の人々が夫々に我が身・一家の都合を捨ててその教えをそれこそ田地田畑を売り払うような猛烈な信

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私の天理教修養科ものがたり パート5

 元一日というのがあります。
 

 卵が先か、鶏が先か、それは知りませんが・・とにかくこの世は始まり、人類が誕生し歴史が流れています。
 天理教・お道では、最初は泥海だったのを味気なく思われた親神が人間を作って陽気暮らしする様を見て共に楽しもうと思いつかれたのがその始まりとされています。

 そしてまた、その人間を宿しこまれたのが「ぢば」と言われる地点

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私の天理教修養科ものがたり パート6

 私が20歳そこそこで天理教修養科に入った一回目の年は、教祖百年祭の三年千日お打ち出しの旬で本部神殿の東西礼拝場が完成した時期でもありました。
 甘露台は人間宿仕込みの目標(めど)でありますが、それを囲む神殿で最初に造られたのは大正3年に出来た北礼拝場でした。
 その後、昭和初期になって南礼拝場が出来たのですが、修養科に入学するのに同行してくれた私の所属する

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私の天理教修養科ものがたり  パート7

 修養科棟の教室は昔懐かしい雰囲気のする部屋でした。机も椅子も二人用の長いもので、特に椅子は畳表が敷いてあり休憩の時などは横になる人もいました。
 別席の時も同じ椅子で背凭れがないので、居眠りしてひっくり返りそうになることもありました。

 その教室に集まっている人も話に聞いていた通り、若い人もいれば年老いた人もいて雑多な夜間中学のような雰囲気でした。男女

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私の天理教修養科ものがたり  パート8

 修養科で最初に苦痛を感じたのはやはり朝の早いことでした。聞いてはいたしそれなりの覚悟はあったのですが、慣れない習慣にはしばらく戸惑いました。
 修養科の一日は洗顔などの支度と整えると朝の挨拶を済ませて、修養科生全員で列になって歩いて詰所から本部神殿に朝勤めに参拝することから始まりました。先頭の人が拍子木を叩くのに合わせてみ神楽歌を唱和して行きました。
 

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私の天理教修養科ものがたり パート9

 このエッセイを書いている今現在は、令和5年の4月18日ですが、おやさまの225回目のお誕生日です。

 おやさまが「かみのやしろ」になる以前に、亭主が手を付けた女中に毒殺されそうになったのを許し大事にしたことは先に紹介しましたが、その他にも近所で預かった乳飲み子が黒ボウソウという難病になった時に願掛けして自分の子供の命と引き換えに願いをかなえてもらったり、

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私の天理教修養科ものがたり パート10

 日にち薬と言います。また、郷に入っては郷に従えとも言います。いやいや入った修養科であっても周りの人と気心が知れ、事情に明るくなり始めると次第に毎日の波を楽しめるようにもなって来ました。
 それは初めて聞く天理の教えもそれなりに耳に入って来るようになったせいであったのかもしれません。

 ドストエフスキーの作品で神の存在に触れた私にしてみると、キリスト教の

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私の天理教修養科ものがたり パート11

 二期目で少し天理教を見直し修養科の生活に真剣に向き合うようになってくると、急に時間の流れが速まりました。胸の名札が注意の黄色から安全の青に変わると三期生になりました。
 6月スタートだったので8月・夏本番の季節になっていました。詰所でも後輩の期の世話をしたり何かと気忙しくなってきました。

 おぢばでは、夏休み期間中「子供おぢば帰り」が毎年恒例で催され

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私の天理教修養科ものがたり パート12

 三期生もそろそろクライマックスに近づいて来て私の身辺も急に修養科後の展望が開けてくることになってきました。
 先にも言いましたが、私の所属する美恵分教会は湖東大教会の部内で彦根分教会・付知分教会を経て教えが伝わってきました。子供のころ母の在所に行って、彦根分教会からの郵便を目にしていた記憶があるように彦根市にある彦根分教会が私の人生の転機の上級教会になり

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私の天理教修養科ものがたり  パート13

 私が一回目の修養科を卒業したのは、昭和57年の8月で21歳の時だったようです。「おかきさげ」に書いてあるのを先日確認しました。それから年月を経て、二回目の修養科に入ったのは令和元年の10月の事でした。

 この間の35年間についてここでは詳しくお話しするつもりはないのですが、私も人並みに社会の一員として家族のメンバーの自覚も持って、自分の信念のようなこ

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私の天理教修養科ものがたり   パート14

 天理教修養科第931期は令和元年11月から翌年の1月までの三ヶ月間でした。一回目の時と比べて人数が極端に少なく私の入った1組は付き添いの元教会長さんを含めても15名でした。他に男子2クラスと女子1クラスの3クラスでしたが、コロナ禍を経た今でも歴代の最低人数レベルだろうと思います。

 湖東詰所からは同期生はおらず一人でした。詰所の修養科生は三期生が若

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