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おやさまたより

私の天理教修養科ものがたり パート6

 私が20歳そこそこで天理教修養科に入った一回目の年は、教祖百年祭の三年千日お打ち出しの旬で本部神殿の東西礼拝場が完成した時期でもありました。
 甘露台は人間宿仕込みの目標(めど)でありますが、それを囲む神殿で最初に造られたのは大正3年に出来た北礼拝場でした。
 その後、昭和初期になって南礼拝場が出来たのですが、修養科に入学するのに同行してくれた私の所属する美恵分教会の4代目の会長さんは大工としてその神殿の建築にひのきしんされたことがあり、教会に写真が飾ってありました。
 私が修養科に行った昭和も終わる時代に東西礼拝場が出来、甘露台を囲んで四方から信者同士が拝み合う形になりました。
 親里やかたと言われる天理の宗教施設も、おやさま在世当時からすでに中山みきさんはその景色を見られていたようで、度々そうした予言をされていたのが逸話伝などに記載されています。

 訳も分からないままに修養科という学校?研修?に飛び込んだ私は破れかぶれの心境でした。
 三ヶ月の間、年齢も性別も学歴や経歴の区別や信仰の有無も問われない人々が信者詰所に寝起きし、本部の親里やかたの中にある修養科棟に通い教理や鳴り物などを学んだり、ひのきしんと言う生かされている喜びを態度に表す行いを実践するというのが、修養科を勧めてくれた母方の伯父や所属の美恵分教会や上級の付知分教会の会長さんから聞かされた説明でした。

 そうはいっても、おやさまの話を取り次ぎの先生から九回に分けて同じ話を聞く別席と言うのを受けて「おさづけの理」を満席のあと授けて頂くというのが条件のようで、「別席の誓い」というのを取り合えず行うことになりました。
 抵抗はあったものの、そうするより自分には先の見通しがなかったこともあり、パンフレットに書かれた文章をそのまま輪唱するより仕方ありませんでした。

 その後知ることになるのですが、修養科には人生に行き詰ってホームレスまがいの人や暴力団を抜けるために息を潜めているような人もいるという話でした。それより圧倒的に多かったのはやはり人生に迷った私のような若者や病気を抱えてすがる思いで来ている人たちでした。
 人生の吹き溜まりだという人もいたし、病院や監獄だという人もいました。

 湖東詰所はその当時は教内でも有名な立派な近代建築でその一番奥の棟にある修養科生の宿舎も綺麗でしたが、三年千日お打ち出しの時旬で大教会部内の教会長子弟が集められていあたこともあって百名近い人がいました。特に4月から入った三期生は多く、次いで二期生で私の入った6月から始まる一期生は男女合わせて20名ほどでした。
 部屋に案内されて荷物を運びこむと畳一畳分が私のプライベート空間になりました。

 湖東大教会は琵琶湖畔の八日市にある教会でしたが、そこから伝わった教えの流れは東北や北海道に多くまた九州や私の住む中部地方にも部内教会を抱えていました。
 系統と言うのは大きくなると枝分かれして別の新たな大教会になることもあったそうで、湖東大教会は京都にある河原町大教会会のから独立していましたし、湖東大教会からも幾つかの大教会が生まれていて河原町大教会関連の教会を斯道会と言うというのも後になって知りました。

 私を修養科に導いた伯父は私の理の親となると聞きました。確かに実の両親より私の本質を見抜いていたようにも思います。小さい頃遊びに行くと
「もっと外交的にならなあかんぞ」
などと、引っ込み思案の私をよく見ていてくれアドバイスしてくれたいました。その時、私にはそれを受け止めるだけの器量はなかったですけれど。

 伯父は田舎の人で多少ほら吹きなところもありましたが、面倒見がよく何組かの仲人をしたのが自慢だったりしたような人でした。家族の中では意外に否定的に思われていたようで子供である従兄たちには信仰は伝わりませんでした。
 母方の親戚の中でも私の世代で信仰するようになったのは私だけだったので、私が変わり者だったのかもしれませんし宗教離れする時代だったと言えるのかもしれません。

 修養科時代にはよく本当に一人の人にでもしっかり信仰が伝われば立派な理の親だと聞いたことがあるので、伯父はそういう人だったと言えるかもしれません。

 


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