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おやさまたより

私の天理教修養科ものがたり  パート13


 私が一回目の修養科を卒業したのは、昭和57年の8月で21歳の時だったようです。「おかきさげ」に書いてあるのを先日確認しました。それから年月を経て、二回目の修養科に入ったのは令和元年の10月の事でした。

 この間の35年間についてここでは詳しくお話しするつもりはないのですが、私も人並みに社会の一員として家族のメンバーの自覚も持って、自分の信念のようなこと・或いは思い込みや拘りをもって毎日を突き進んでおりました。信仰の方もだんだんに熱心に教会の月次祭ひのきしんに励むようになって行きました。

 介護職としてそれなりの役割も果たして必要とされているように感じてはいましたが、だんだんに本来の癖性分が頭をもたげ本厄の頃には行き詰まり社会の一線から離れることにもなりました。

 家族の中にあっても子供の小さい頃は一緒になって面白がってもいましたが、娘たちがそれぞれに成長するにつれてだんだん家族の中での孤独を感じたり我が身思案の強い傾向で生活するようになって行きました。

 長い人生ですのでそういうことも当たり前であるとも言えますが、人間の思惑を超える事態が突然押し寄せてくるのも自然な流れなのでしょう。

 一回目の修養科のあと彦根で5年ほど老人ホームの仕事をする中で妻と知り合い双方の郷里が近かったこともあって、岐阜の恵那に戻り地元の老人ホームで仕事を25年ほど勤め、精神を病んでからは作業所に10年ほど通っていました。
 
 教祖120年祭三年千日に信仰に一心に取り組む中で、統合失調症を発症して入院した体験をもとに別の小説(「公衆電話」)にまとめたものがありますので、興味のおありがある方はご覧になって下さい。

 その後、どういうご縁か教外の精神世界の人々とのお付き合いが深まりそれは今までの信仰生活だけでは得られなかった安心立命の境地へと導いてもくれましたが、同時にお道の精神の素晴らしさを別の視点から見直させても貰えました。

 「通ってこそ道」と言うおやさまのお言葉もありますが、道はまっすぐには思えなくても常に親神様のお手引きを頂いているのでしょう。

 一回目の修養科の時に二回目の修養科に来ていた詰所の同期の人もいましたが、少しやり直ししているようで悪い因縁なんだろうなと勝手に判断していたのが正直な感想でした。

 私が二回目の修養科を決意した時は、このまま作業所で最後までお世話になって過ごしていこうと漠然と感じていたのに急に何もかもに嫌気がさして家族に黙って一週間ほど家出をした事情から戻って、我が身を振り返って反省していた時に心の中から「おぢば」での修養科での三ヶ月を思い付き、おやさまに呼ばれたような心地がしたことからでした。

 それはわが家の10月の7日の講社祭祭文を書いている時でした。その後はもう既にそれは規定事実だったかのように、事はどんどん進んでいきました。
 
 この現代は合理的で効率的な考えが主流で、私もそれが骨身に染み付いているのですが、時に回り道・寄り道・道草の方が大事になるタイミングというものがあるようです。学校の先生の話でも本筋の教えより、余談の方を後々記憶して影響を受けていることが多いのも経験してきました。

 この章もそういう閑話休題といったお話になりました。

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