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小説 桜ノ宮

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大人の「探偵」物語。 時々マガジンに入れ忘れていたため、順番がおかしくなっています。
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#おうち時間を工夫で楽しく

小説 桜ノ宮 ⑮

小説 桜ノ宮 ⑮

「いってらっしゃい」
穏やかな眼差しで手を振る紗雪を前にして修は戸惑った。
履きなれたスニーカーがなかなか足におさまらない。
「靴ベラ、使う?」
紗雪が靴箱を開けようとした。
「いや、大丈夫」
つんのめりながら、手早く解錠しドアを開けて外に出た。
「いってらっしゃい」
再び紗雪は言った。
さっきよりもにこにこしている。
「い、行ってきます」
修は紗雪と目を合わすことができなかった。
「また、来てね

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小説 桜ノ宮 ⑭

小説 桜ノ宮 ⑭

修はカレーを平らげると、お盆に食器を載せて流し台までもっていった。続けて、食器を洗いにかかった。
「そのままにしてくれていいのに」
「ごちそうになったから」
手早く洗い物を済ませると、修はまたもといた席へと戻ってきた。
昔より分厚くなった胸を張って紗雪を物憂げに見ている。
「探偵って、何をする気なん」
「うーん。わからへん。何となく考えているのは、芦田さんの奥さんを尾行したり、友達になったりとか」

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小説 桜ノ宮 ⑬

小説 桜ノ宮 ⑬

緊急事態宣言が発令されたことにより、紗雪と広季の母が入所する老人ホームは勤務している関係者以外は出入り禁止になってしまった。
テレビやネットが、買い物など生きていくうえで必要な用事以外は家から出るなと国民に警告してくる。
仕事もなく一緒に住んでいる家族がいるわけでもない紗雪は本当に暇になってしまった。ぼーっとテレビを見ているだけで時間が過ぎ、お金も無くなっていく恐怖から目をそらしたり、対峙したりし

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小説 桜ノ宮⑫

小説 桜ノ宮⑫

インターホンが紗雪の部屋にお気楽な音色を奏でたのは、夜11時を回ったころだった。
紗雪はちょうど風呂からあがったところで、タンクトップとパジャマのズボン姿で濡れた髪をタオルで拭き取っていた。
胸の奥にいきなり落ちてきた不安の塊を抱き、警戒しながら画面を見ると、修の顔があった。
僅かに肩が揺れ、貧乏ゆすりをしている。
久しぶりに会ったあとでこのような行動をとられると非常に気持ちが悪い。しかも、こちら

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小説 桜ノ宮 ⑪

小説 桜ノ宮 ⑪

「でも、俺、市川さんの連絡先知らんねん。秘書の福井さんやったら知ってるかもしれんけど、それだけで連絡しづらいしなあ」
「もしかして、市川さん、まだホテルのあたりにおるかもしれへんで。とりあえず、ホテルまで戻ってみよう」
再び背中を叩くと、スリムはそのまま広季の体に入り込んだ。
「走るで」
広季は胸のなかがじんわりと温められる想いがした。
それをかみしめる間もなく、自分の足は走り始めていた。
「うわ

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小説 桜ノ宮⑩

広季がビジネスホテルから出ると、スリムが待ち構えていた。
「泣きそうな顔して」
スリムは慈愛に満ちた表情で広季に近づいてきた。
ビアホールを出てビジネスホテルへ来るまで、スリムはずっと広季の横に並んで歩いていた。時折、広季に話しかけ、顔を歪めながら反応する姿を笑っていた。
その間、どれだけうっとうしかったことか。
それが嘘のように今は目の前に立つスリムにすがりつきたいほど、広季の心はグラグラと揺れ

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小説 桜ノ宮⑨

小説 桜ノ宮⑨

紗雪はとりあえず、広季への説明を先にすることにした。
「奥さん、エレベーター乗っていきましたよ」
「さっきの男と?」
「も、もちろん」
広季の呆けた顔を見て、思わず紗雪はどもってしまった。
両手で顔を覆い、広季は大きなため息をついた。
よほどショックなのだろう。
「帰ります」
肩を落としたまま、広季はホテルの出入り口へとトボトボと歩いていった。外側にすり減った靴のかかとが哀愁を誘う。
広季がホテル

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小説 桜ノ宮⑧

小説 桜ノ宮⑧

夜の街がくすんで見えるのは、得体のしれないウイルスのせいだろうか。
川の上を走る電車のなかはもちろん道行く人もいつもより少ない。人が少なくなるだけで、違う街のようだ。
目に映るすべてが穏やかではない。広季と夜道を歩きながら紗雪はえもいわれぬ不安に身をこわばらせていた。
広季は息をひそめて歩いている。見開いた目は焦りに満ちていた。時々表情が大きく変わる。
ビールを飲みながら、店内にいる女性との関係を

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小説 桜ノ宮 ⑦

小説 桜ノ宮 ⑦

「緊急事態宣言って出るんですかね」
紗雪はビアホールのバルコニー席でスマホに目を落としたまま、広季に訊いた。
「さあ、出るんじゃないですかね」
周りを見渡しつつ広季は答えた。19時。桜が舞い散るバルコニーに、客は二組しかいなかった。店内の客は隅の席に男女が二人だけだった。
「お母さん、お元気でしたか」
広季が訊くと、紗雪は首を傾げて不機嫌そうに眉をひそめた。
「ばい菌扱いして会ってくれませんでした

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小説 桜ノ宮 ⑥

小説 桜ノ宮 ⑥

広季はいつものように施設のロビーでコーヒーを飲みながら母春子が来るのを待っていた。

コロナ騒ぎの影響か、いつも家族との面会でにぎわっているロビーは閑散としていた。流れているクラシック音楽も心なしかもの悲しい。椅子に深く座り直し、庭に目をやるが人っ子一人いなかった。

コロナのせいで世の中はどんどん変わっていっている。今までズルズルと後回しにしていたことが一気に取り入れられるようになっていた。在宅

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小説 桜ノ宮⑤

小説 桜ノ宮⑤

紗雪のスマホにピュアフルスタッフの初芝から連絡があったのは、初出勤の前日、花冷えのする夕方だった。
「市川さん、今いいですか」
母親が入居している施設への支払いの件で、今夜、紗雪は久しぶりに父親と会う約束をしていた。梅田で夕食をともにするため、何を着ていくかクローゼットの中からワンピースを選んでいる最中に電話がかかってきた。
「はい、大丈夫ですけど」
黒いスリップにストッキング姿で、鏡台の前にある

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プロットも作らず勢いで書き始めた小説・桜ノ宮の続きをそろそろ書きたいと思い、マガジンを開けて最初から読もうとしたら1話が登録されていなかった。自分の書いた小説を検索して探す羽目になるとは。それにしてもあの2人をこれからどうしようかしらね。自分が決めるのに何だか楽しみ♪。

小説 桜ノ宮 ①

小説 桜ノ宮 ①

ありふれた春の午後だった。少し冷たい風に桜の枝が揺れていた。芦田広季は、定食屋から出てくるなり花びら交じりの風を浴びた。

大阪・桜ノ宮。

川沿いの桜並木へと吸い込まれるように歩いていく。

川から立ちのぼる生臭い匂いを阻止するために息を止めた。腐った青汁のような色をしたこの川を可憐な桜が包み込むように咲いている。
広季は人目も気にせずジャンプして桜の枝に触れてみた。着地するなりベルトの上の贅肉

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小説 桜ノ宮④

施設を出て歩き出した時だった。紗雪の背後から足音が迫ってきた。
「市川さん」
事務担当の岸という若い女だった。つけまつげを瞬かせながら紗雪のもとにやってくる。
「あの、すみません」
「はい」
息を上げている岸に対し、紗雪は表情一つ変えずに答えた。
「今月からお支払いの方が滞っているんですが」
「え」
施設のローンは父親の通帳から引き落とされていた。
「そうなんですか」
「はい。できるだけ早めにお振

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