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小説 桜ノ宮⑤

紗雪のスマホにピュアフルスタッフの初芝から連絡があったのは、初出勤の前日、花冷えのする夕方だった。
「市川さん、今いいですか」
母親が入居している施設への支払いの件で、今夜、紗雪は久しぶりに父親と会う約束をしていた。梅田で夕食をともにするため、何を着ていくかクローゼットの中からワンピースを選んでいる最中に電話がかかってきた。
「はい、大丈夫ですけど」
黒いスリップにストッキング姿で、鏡台の前にある椅子に腰かけた。
「申し訳ない!市川さん、決まっていたお仕事、無しになりました!」
「え」
首筋がひやりとした。
紗雪は鏡に映る自分の顔を見た。
化粧したての顔が淀んでいた。
「コロナですよ。コロナ対策でどこの会社も従来の仕事内容を変えてきているんです」
今年初めから日本に忍び始めた新型の病気が少しずつ全国へと広がってきているのは、テレビやネットの情報で紗雪も知っていた。
「ほとんどがテレワークになるみたいです。市川さんがするはずだった業務は、自宅でできる範囲を秘書の福井さんが出産ぎりぎりまでするそうで、ほかに関してはあの役員さんが自ら管理されるそうです」
「そうですか」
右肩からスリップの紐がすべり落ちた。
施設で見た広季の涙を紗雪は思い出していた。
「あの役員さんが決められたんですか」
「役員会議で決められたことらしいので、芦田さんだけの一存ではないと思いますが」
「そうですか。ま、しょうがないですよね」
肩紐をもとに戻すと、紗雪は背筋を伸ばした。
「また、何か市川さんに合う仕事があればご紹介いたしますので」
「はい。よろしくお願いいたします」
電話を切るなり、スマホをベッドに放り投げた。
「しゃーないか」
紗雪は再びクローゼットの前に立ち、黒地に花柄のロングワンピースを選んだ。


「実は最近、財布を嫁さんに握られとってな」
料理を待つ間、梅田の夜景をぼんやり見ていた紗雪に父親が照れ笑いをして茶化した。
「家を買ったんや」
「どこに」
「芦屋」
「はあ?」
すでに運ばれていたビールを一口飲み、紗雪は父親をにらんだ。
隣のテーブルでは、小学校低学年くらいの女の子とその両親がエビチリや餃子、青椒肉絲を分け合っていた。
「言うても、俺も退職金を切り崩す生活や」
「それやったら身の丈におうた暮らしせなあかんのとちゃう?なんぼ小さい子がおる言うても」
紗雪は隣のテーブルに目をやって顎をしゃくって見せた。
「同じようにはいかんと思うよ」
父親は隣の家族を見て頷いた。
「いうとおりや。実は、最近、投資の方がうまくいってないねん。子供にもお金かかるし。嫁が私立行かせたいいうんや」
シワっぽいのにあぶぎった父親の額が目に入ると、紗雪はため息をついた。
「あほくさ」
「お待たせしました」
黒酢の酢豚、エビと青菜の炒め物、海鮮焼きそばが運ばれてきた。
「払ってもらうもんは払ってもらうで」
ウエイターの腕越しに紗雪は淡々と話した。
「そんな」
狼狽する父親の様子からは、以前の母親に暴力をふるっていた頃のような荒々しさはみじんも感じられなかった。
年をとって、弱くなっている。
紗雪のなかに、昔は言い表せなかった悔しさが噴き出し始めた。
「そんなもこんなも無いわ。約束は守ってもらう。離婚した時の弁護士さんに相談して、そのしょーもない芦屋の家を差し押さえてでも払ってもらうから。いただきます!」
紗雪は手を合わせると、すぐに箸をとり、急いで取り皿に黒酢の酢豚を載せた。
ウエイターは一礼してその場を離れていった。
「紗雪も働いてるんやろ」
一瞬、紗雪の箸が止まった。

「悲しいけど、私の稼ぎなんて知れてるから。あと、最近、リストラされてん。今日は思う存分食べて帰るからな」

言うなり紗雪は酢豚を口に放り込んだ。

その姿を見て、父親は涙目になっていた。


黒酢の酸っぱさが紗雪の疲れきった心をきゅっと引き締めた。
ビールを一口飲む。
心地よい痺れが紗雪の身体を通り抜けていった。

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