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小説 桜ノ宮 ⑭


修はカレーを平らげると、お盆に食器を載せて流し台までもっていった。続けて、食器を洗いにかかった。
「そのままにしてくれていいのに」
「ごちそうになったから」
手早く洗い物を済ませると、修はまたもといた席へと戻ってきた。
昔より分厚くなった胸を張って紗雪を物憂げに見ている。
「探偵って、何をする気なん」
「うーん。わからへん。何となく考えているのは、芦田さんの奥さんを尾行したり、友達になったりとか」
首を左右に揺らして薄ら笑いをする紗雪を見て、修は少し腹立たしくなった。
「つまり、何も考えてなくて行き当たりばったりで行こうってこと?」
「そういうことやね」
紗雪は腕を組んで深く頷いた。修は自分の額が少し汗ばむのを感じた。
「芦田さんの奥さんは、あのホテルをよく使ってるん」
「そうやな。相手はいつも違う。あのホテルはビジネスホテルやけど、不倫だとか売春によう使われてんねん。不倫やったら、いつも同じ相手や。でも、その芦田さんの奥さんは相手が同じであることが少ないんよ」
「同じであることが少ない?」
「売春のお得意さんか、何股かかけているのか。そこがはっきりしないから、摘発しにくい。後ろに誰かおるかもわかりにくい」
「なるほどなあ。修君は、売春の摘発のために潜入捜査してるん?」
「いや、ほかのことで入ったんやけど、たまたま気づいたんや」
「そうか」
二人の会話はそこで途切れてしまった。
つけっぱなしのテレビからは、新型コロナウイルスの情報がずっと垂れ流されている。
「これからどうなるんやろね」
「さあなあ」
修はテレビを横目で見ながら、ふと、不思議な気持ちになった。あのまま結婚していたら、こんなふうに他愛もない会話を紗雪と積み重ねていたかもしれない。
手に入らなかった時間が、二人の間に降り注がれている。
幸せで残酷な空気に修は酔いそうになった。
「修君、あれからずっと元気にしてた?」
テレビから目をそらさないまま、紗雪が訊いてきた。
「うん」
「結婚は?」
「してない。紗雪ちゃんは?」
「してるわけないやん。あんなお母さんおんのに」
苦笑いをしたまま、紗雪が修の顔を見た。
「もう遅いから泊って行ったら」
「え?!」
自分が想像したよりも大きな声が出た。殺風景なリビングに声が響く。
「あ、もしかして待ってくれてる彼女いるの?」
「おれへんけど。紗雪ちゃんは?彼氏は」
「だーかーらー」
紗雪は不意に立ち上がり、修の背後へと回った。
「おるわけないやん。この家には私ひとり」
修の耳に熱い息がかかった。紗雪は修の首元に抱きついた。
「私のやけくそに付き合ってって言ったら怒る?」
何が理由のなのかわからないが、紗雪は拗ねているようだった。
修は紗雪の顔を見た。
目は閉じられている。
息をすると、紗雪の懐かしい匂いが体のなかに忍んできた。
修は思わず紗雪の上唇を食んだ。

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