「介護時間」の光景(58)「針金」「ゴミ箱」。5.17.
いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして書き続けることができています。
この『「介護時間」の光景』を、いつも読んでくださってる方は、「2001年5月17日」から読んでいただければ、これまで読んで下さったこととの、内容の繰り返しを避けられるかと思います。
初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
私は、臨床心理士/公認心理師の越智誠(おちまこと)と申します。
自己紹介
元々、私は家族介護者でした。
介護を始めてから、介護離職をせざるを得なくなり、介護に専念する年月の中で、家族介護者にこそ、特に心理的なサポートが必要だと思うようになりました。
そうしたことに関して、効果的な支援をしている専門家が、自分の無知のせいもあり、本当にいるかどうか分からなかったので、自分で少しでも支援をしようと思うようになりました。
分不相応かもしれませんが、介護をしながら、学校へも通い、2014年には、臨床心理士の資格を取りました。2019年には公認心理師資格も取得しました。現在は、家族介護者のための、介護相談も続けることが出来ています。
「介護時間」の光景
この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。
それは、とても個人的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。今よりも、周囲の細かい変化に敏感だったように思います。
今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2001年5月17日」のことです。終盤に、今日、「2021年5月17日」のことを書いています。
2001年の頃
1999年から介護が始まり、2000年に、母は転院したのですが、私は病院に毎日のように通い、家に帰ってきてからは、妻と一緒に義母の介護を続けていました。
それ以前の病院といろいろあり、そのことも原因で私自身が心房細動の発作を起こし、これ以上無理すると死にますよ、などと医師に言われ、毎日、心臓の薬を飲み続けていましたが、まだ時々、母の病院へ行く途中の電車の車内で、めまいを起こすようなこともありました。
そのせいもあって、うつむき加減で、次の病院に移っても、なかなか、医療関係者を信じることができませんでした。母も転院後、急になんの前触れもなく、症状が悪化したり、また回復したりを2000年の転院以来、何度か繰り返していました。
自分が通っても、意味があるか分からなかったのですが、病院へ行かなくなって、症状が戻らなくなったら、と思うと、怖くて、とにかく通っていました。
そんな頃の記録です。
2001年5月17日。
『夢を見た。
昔、取材をさせてもらった人と、ばったり会う。
お茶飲もうよ、と言われて、向かっていった場所に、よく分からない、あいまいな集団がいて、その取材させてもらった人が席を外したスキに、会員がどうのこうの、と高い金額を意味なく要求される。もう、知っている人はいなくなっていって、それで、こちらもスキを見て、逃げて、警察に助けを求める。
そうしたら、これまで自分の周りにいた人たち全てが、その怪しい団体の人間ばかりだった、ということを知る。
湿気の多い、粘りつくような空気を感じた。
目が覚めて、変な気持ちがしばらく続いた。
午後4時過ぎに病院に着く。
母は、しっかりとイスに座っていて、なんだかホッとする。
昨日、カラオケで、院長が歌ったのよ、という話をしてくれた。
そのことは、はっきりと覚えているようだ。
西洋美術館がテーマの雑誌で、表紙がドガの絵で、それを母を見せたら、昔、母が会社で働いている頃、あちこちに絵を見に行ったりした話にまで及ぶ。
機嫌よく、比較的、細かく答えてくれて、やっぱりホッとする。
それが、午後6時過ぎになり、唐突に、「ここはずっと夜中も明るいのよ」と、強めに主張を始めて、その表情を見て、また戻ったのではないか、と少しがっかりする。
ごめん、ごめん、ごめん、とずっと繰り返す高齢の女性。
ただ、黙り続ける男性。
病棟の中には、微妙な時間が流れている。
ここの空気に母が馴染んできているようで、それは良かったけれど、なんとも言えない気持ちもある。
入院費として、毎日、かなりの金額が飛んでいく。
今のところ、そんなに母の居心地が悪くないようだし、肝臓の検査の数字も、そんなに悪くなかったらしいから、それは、やはり安心もする。
穏やかに時間は流れ、午後7時に病院を出る。
こういう繰り返し。
こういう繰り返しで、いいんだろうか。
よく分からない』。
針金
駅の屋根。上に針金が突き抜けていて、よじってある。さびて、すっかり茶色になって、それが、いい感じにざらつきもある。そんな風に思うのは、大竹伸朗の影響だと思う。
ゴミ箱
夜の駅。線路をはさんだ向かいのホーム。静かな光の中にゴミ箱が3つ並んでいる。そのうち2つの枠のような場所が色が落ちて、その事でよけいにピカピカに光っているようだった。
(2001年5月17日)
そうした生活が続いたが、2007年に母が亡くなり、2018年には義母が突然亡くなって、急に介護が終わった。19年間の「介護時間」だった。
2021年5月17日。
「緊急事態宣言」が、繰り返されて、日常になっている。
微妙な不安が、ずっと続いている。
なるべく外出せず、人と接しないで、自衛をするしかないと思い続けている。もし、感染したら、適切な治療が受けられるかどうか、はっきりしないからだ。
今は、穏やかに暮らせたとしても、いったん感染してしまったら、どうなるのか、分からない、という不安が減るような事はない。
ワクチン接種
ワクチン接種は、私が、住んでいる東京都大田区では、21日から予約開始、という言葉と、それとは別に大規模センターでは、今日から始まる、という情報もあって、ただ気持ちが混乱する。
ただ、今日からの予約は、「地方自治体から送られた接種券を持っている人」という条件があるから、まだ届いていないと、どちらにしても、予約はできない。
そして、大規模の会場ではなく、個別の病院に行こうとすると、予約は6月1日からになる。
自治体と、防衛省・自衛隊の、両方の接種方法があるのは、混乱する。どうして、こんなことをするのだろう。
そして、何しろ、どんな年齢層でも、予約を早めに取らないと、急に、今回は、これで終わります、にならないだろうか、という不安はぬぐえないので、なんだかざわざわする。不幸なことに、不信感が大きくなっていることに改めて気づく。
ビワの実
5月になるくらいから、あれだけ根切りをして、枝も伐採したのに、今年もビワの実がついて、緑から淡いだいだい色になってきて、美味しそうな気配になってきた。
いくつも実がついて、今年も、それを採って、食べることもできると思っていたら、妻に言われた。
「カラスにとられた」。
そう聞いて、ビワを見ても、実はまだいくつもついていたので、
「え、そうなの?まだあるけど」。
「色づいて、食べれそうなのだけ、取られたみたい」。
だけど、それから、またしばらく経ったら、妻は、「今年のビワは、食べてみたけど、美味しくない」という話になり、今日も、まだビワの実はあったけれど、「やっぱり美味しくないので、カラスにあげることにした」と少しさっぱりしたような言い方をしていた。
カラスから、どうすればビワの実を守れるのだろう。古いCDとかをぶら下げるといいのだろうか、だけど、門のそばだし、邪魔になるだろうし、そうした「カラスよけ」のようなキラキラが、本当に効くのかも定かでないし、と秘かにいろいろと考えていたので、私も、ちょっとホッとする。
ご近所のビワも強風で倒れたら、実の種しか残っていなかった、という話も妻に聞いた。ネズミにやられたそうで、どちらにしても、よほど意識して守らないと、ビワの実はやられてしまうようだった。
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