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「介護時間」の光景(70)「ブザー」「音」。8.12.

 いつも、このnoteを読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして記事を、書き続けることができています。

 この『「介護時間」の光景』を、いつも読んでくださってる方は、「2015年の頃」から読んでいただければ、これまで読んで下さったこととの、繰り返しを避けられるかと思います。

(前半は、「2015年8月12日」のことを、後半に、今日、「2021年8月12日」のことを書いています)。


 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。

自己紹介

 元々、私は家族介護者でした。
 1999年に介護を始めてから、介護離職をせざるを得なくなり、介護に専念する年月の中で、家族介護者にこそ、特に心理的なサポートが必要だと思うようになりました。

 そうしたことに関して、効果的な支援をしている専門家が、自分の無知のせいもあり、いるかどうか分からなかったので、自分で少しでも支援をしようと思うようになりました。

 介護をしながら、学校へも通い、2014年には、臨床心理士の資格を取りました。2019年には公認心理師資格も取得しました。現在は、家族介護者のための、介護者相談も続けることが出来ています。

「介護時間」の光景

 この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。

 それは、とても個人的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。

2015年の頃

 2007年に母親が病院で亡くなった。母のいる病院に通い、帰ってきて、妻と一緒に義母の介護をする日々に、大きな変化が訪れた。

 母が亡くなった頃、義母の状態が悪くなり、だから、今までよりも、義母の介護に関わる時間も負担も増えた。介護が必要な家族が一人になったから、仕事を始められるかもしれない、という秘かに立てていた予定は、完全になくなる。

 私は夜間担当で、徐々に寝る時間は遅くなり、午前5時を超えるような感じになり、完全に昼夜逆転になっていった。

 同時に、臨床心理学の勉強を始めた。介護をして、その間に勉強をするのは、かなり相性が良いことに気づいたけれど、そのせいか、2010年に大学院に入学し、2013年に修了し、仕事は見つからなかったのだけど、臨床心理士の資格は取得できた。

 2014年からは、紹介によって、介護者の相談の仕事を始めることができた。それは、月に1度程のペースだったけれど、介護を続けていると、仕事そのものが見つからなかったし、増やすにしても、介護を続けていると、体が持ちそうもなかった。それでも、2015年は、義母が100歳を迎えようとしていた頃だった。

 臨床心理士の資格は取得したものの、焦りと疲れは募っていたと思う。

2015年8月12日

 月に1度は、病院に通っている。それは、母が生きてる頃から続けているボランティアのためだった。

 そこは、母が入院していた病院だった。何かしらの貢献をした方が、急に追い出されることはないのではないか、といった、ほめられない動機で、そこでボランティアを始めたのが、2002年の頃だった。

 患者さんへ渡す誕生日カードを制作する。病室の壁に、そのカードだけが貼ってあるような方もいて、そうなると、毎年、同じようなカードが並んでしまうと、その空間が貧しくなってしまうと思ったので、少しでも貢献できれば、と思って、始めた。
 そのボランティアに関わる方々は、私と同じように家族が入院していて、病院に「通い介護」をしている人たちがほとんどだった。だから、辛い時も、随分と気持ちを支えてもらった記憶がある。

 母が亡くなってから、辞めるかどうか、迷ったけれど、そのボランティアを続けていた。気がついたら、ボランティアを始めて10年以上たっていた。月に1度は、2時間ほどかけて、病院へ行く習慣は続いている。

 そこには、これまでにもお世話になった人たちがいる。

ブザー

 ずっと通い続けた病院へのバス。あの頃の焦燥感は、今はない。
 もうすぐ終点。あと3つか4つ。カーブが連続する道をあがる。
 前の方の右際に座る年輩の女性が手をあげ、ブザーを押そうとする。
 後ろの方に座る中年手前の男性が遅れて手をあげたはずだが、先にブザーを押して、音が響いて、バスにたくさんある、次の停留を示す光がともる。
 女性のあげられた手は、ブザーに触れることなく、とまどいを示しながら、くねっと動いて、下げられていく。これだけ気持ちが伝わる体の動きは、公共の場で見ることはあまりないかもしれない。


 バス停。それも終点で降りる。緑が多く、山の上のターミナル。
 セミの声が、2種類はっきり聞こえる。
 しゃー、しゃー。という声。種類はよく分からない。そばで聞こえる。
 ミーン、ミーン、という声。少し遠くでくっきりした声に聞こえる。
 かあ、かあ、かあ。もっと近くに短めのリズムでのカラスの声。
 緑が多く、厚めの音。なんだか少しリゾートの気配まで感じる。

                    (2015年8月12日)


 2015年の年末に、義母は無事に100歳を迎え、それからも介護は続いた。私の眠る時刻は、義母のリズムに合わせて、さらに遅くなり、午前5時半を越えるようになっていた。それでも、義母の食欲はあり、まだまだ生きてくれそうに思えていたのに、2018年の年の暮れに、突然、義母は亡くなった。103歳だった。

 介護後、体調が整い始めた頃、コロナ禍になった。
 焦りと不安の日々は続いている。

2021年8月12日

 ものすごく暑くて、日差しが怖くて、空気も濃く感じていた日が、何日か続いていたから、今日は曇りで、気温が30度くらいでも、少し涼しく感じる。

 それでも、少し先の緑の木々があるところから、セミの声が聞こえ続けている。

 組織のことでの悩みがあって、なんとか自分の気持ちの区切りをつけて、少しはスッキリしたはずだったのだけど、まだ引きずっているようで、人間関係での退職理由が、時代を超えてずっと上位なのも分かる気がしている。(※「介護者相談」の仕事ではありません)。

 今は、支援職に分類されるような仕事をしているのだけど、学校に通っていて、事例検討会で質問した時に、それは事例の本筋への答えではなかったのだけど、ベテランの医師が「優しくなければ、この仕事をしてはダメだと思う」といったことを、ためらいなく言い切っていた。そういうプロフェッショナルが存在する世界は、すごいと思い、その時に頑張ろうという動機になった。

 今も、そのことを、時々思い出す。
 自分も、何かの拍子に簡単に「優しくない」人間になってしまうのだから、そんなに偉そうなことを言えないけれど、「優しくない人」は、支援職をしてはいけないと思う。だけど、その選別をどうするのか?と思うと、どうすればいいのかは、分からなくなる。


 今日も洗濯物がたまっていた。
 やたらと汗をかいて、そのままにしていると体が冷えてカゼをひくから、マメに着替えなくてはいけなくて、その繰り返しが自分でも嫌になるけれど、だから、やたらとTシャツが物干しハンガーに並ぶ。

 今日は、何時に雨が降るのか。少し前から、妻がNHKの画面で「dボタン」を押して、この地域の天気予報を見る方法を覚えてくれているから、天気のことを教えてくれる。

 最初は、午後12時くらいから降る予定だった。洗濯をして干して、また天気予報を見たら、午後4時から、雨の予報になっていた。

 大気が不安定なのだろう。

 西日本は、大雨のようだった。

 コロナ禍で、さらにこんな気象が続いたら、本当に逃げ場がない。

 午後5時過ぎに、小雨が降ってきた。




(他にも、いろいろなことをかいています↓。よろしかったら、読んでいただけると、うれしいです)。



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