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エッセイ(試論)集

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いろんなエッセイ(試論)集です。これがメインです。
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#哲学

世界の終わりと私たちの表現可能性

世界の終わりと私たちの表現可能性

「無限の時間」を生きる貨幣岩井克人『貨幣論』によれば、貨幣はそれが誰かに受け取ってもらえると思うから使用されるという循環論法のうちにある。それは無限の未来を暗黙裡に想定している。例えば、明日貨幣を誰も受け取らなくなると誰もが思えば、誰もそれを今日受け取らない。その時、貨幣は消失する。使えない貨幣を持つ必要はないためだ。明日も明後日も、ずっと先の未来も使用されると思われるから使用され、そうでなくなれ

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独我論の決定不可能性について

独我論の決定不可能性について

以下の書籍の中で「全ての情報を疑う独我論」はその真偽が決定不可能だということを書いています。

※あんまり売れてないので、買ってもらえると助かります!

実はその議論は妄想と現実の区別がつかなくなってしまう病気にかかった、私の実体験から着想したものです。人間、本当に思い込んでしまうと、妄想から抜け出せなくなるんじゃないかと思います。

ただ、そう言うと次のような反論がありえます。

「過去にそうだ

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普遍論争と情報化社会に関する覚書

普遍論争と情報化社会に関する覚書

普遍論争とは何ぞな 普遍論争と情報化社会の関係性について、思ったことをつらつらと書きます。プログラミングをある程度知っている人でないとこの記事はわからないかもしれません。逆にプログラミングを知っている人は知的に楽しく読めるのではないか…なんて。はい。普遍論争とは何か。

 例えば「アリストテレスは人間である」というとき、「アリストテレス」は「個物」であり、「人間」は「類(普遍)」である。このような

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私を愛するということ、世界を愛するということ、誰かを愛するということ

私を愛するということ、世界を愛するということ、誰かを愛するということ

 自己の同一性と世界が同じこの世界であることの同一性はコインの表と裏のような関係にあり、それらは岩井克人が現存在について述べたように、循環論法のうちにある。世界がこの世界であることは、私がこの私であることに基礎づけられ、私がこの私であることは、世界がこの世界であることに基礎づけられる。私がこの私であったから、世界はこの世界であるのであり、世界がこの世界であったから、私はこの私であるのだと。

 な

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龍樹へのトリビュート――反時間的独我論の真理について

龍樹へのトリビュート――反時間的独我論の真理について

 8~9年前、私が精神病院に行くことになる直前、発狂する直前に書いた「時間論」に手を加えてここに供養したい。南無阿弥陀仏。見直すと精神に異常をきたす手前とあって、色々イカれている。おかしな記述も多い(今だってそれを正常に判断できるのか?)。

 正直思い出したくもないロクでもない過去だけれど(そんな過去ばかりだ)、カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』や龍樹の『中論』を読んでいて、それらが自分の

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カントに関する覚書

カントに関する覚書

交換とカントの倫理

 契約は相手に対価を支払うことで、ある効用を得るものである。その交換は、効用ないし対価の獲得という目的に支配されている。柄谷行人はカントの倫理は資本主義を否定するといった。それは正しい。純粋な交換様式Cの世界は効用ないし対価を目的とし、他者それ自体を目的として扱うことがない。

 ただし、それは他の交換様式も同様だろう。交換はそもそも見返りを期待するものであるからだ。カントの

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