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毎日新聞の満州工作 映像が語る「戦争とメディア」

戦争への入口


昭和3年の満州にひるがえる大きな毎日新聞社旗。

国立映画アーカイブが公開した、1928年の映像の1コマです。


『満洲里ー東京 東亞騎馬旅行隊』より


現在、国立映画アーカイブは、1913(大正2)年から1941(昭和16)年に製作された、40数本の映像をYouTubeで公開しています。

それは日本が、大正デモクラシーの平和から、日中戦争、大東亜戦争の泥沼へと入っていく時期。

1926(大正15)年の、平和な時期の1本「公衆作法 東京見物」を、きのう紹介しました。


しかしこの1928(昭和3)年の映像は、ちょうど戦争への入口の年に撮られています。満州で張作霖爆殺事件が起こった年です。

なぜその年の満州に、毎日新聞の社旗がひるがえっているのか?


国立映画アーカイブの映像が興味深いのは、当時のままの映像を出していることです。

いまのメディアが、たとえばNHKが、当時の映像を編集して戦争ドキュメンタリー番組にするときは、メディアの存在は注意深く消されます。

NHKふくめ、朝日・毎日などのメディアは、戦争に深くかかわっていたわけですが、その「共犯性」は隠されるのです。

しかし、このアーカイブの映像では、それがそのまま出ているものがあります。


戦争の主役たち


この『満洲里-東京 東亞騎馬旅行隊』(南満洲鉄道株式会社製作)という映像は、一見、不完全かつ不可解です。いちおう、国立映画アーカイブの説明は、以下のようになっています。


『満洲里――東京 東亞騎馬旅行隊』(マンシュウリ トウキョウ トウアキバリョコウタイ、1928年)
製作=南満洲鉄道株式会社 13分、白黒、サイレント
大阪毎日新聞社後援と思われる騎馬旅行隊が、奉天から大連まで辿り着くところを記録している。冒頭では、当時満鉄副社長だった松岡洋右ほか役員らが見送っている。奉天では、1928年6月4日の張作霖爆殺事件で張と共に亡くなった奉天派の軍人、呉俊陞(ごしゅんしょう)との会見場面がある。映画題名、ならびに検閲記録にある尺長(350m)と元素材のフィルムの尺長(249.336m)の違いから見て、作品は騎馬隊が東京に到着するところまで描いていたと思われ、大連以降の行程が欠落していると考えられる。


毎日新聞が後援とありますが、映像を見ると、ほぼ主催に近いことがわかります。

満州の「騎馬旅行隊」が、「満州里」から東京まで行進する、という毎日新聞のイベント。それに陸軍が全面協力し、南満州鉄道、いわゆる「満鉄」が映像に収めているわけです。

「満州里(マンチュウリ)」というのは、ロシア(当時はソ連)国境に近い街。現在の中国内蒙古自治区にあります。



おそらく、モンゴル人の騎馬隊を、満州里を起点に、奉天、大連を経て、東京へと旅させる、それによって満州(満蒙、中国東北部)と日本の一体感を国民に感じさせる、という企画だったのではないでしょうか(当時の毎日新聞を参照すればわかりますが)。

奉天では、帝国陸軍と毎日新聞が共同して動いてる。非常に大きなイベントであったのがわかります。


映像は、まず奉天で、満鉄副社長の松岡洋右が騎馬隊を見送るところから始まります。

奉天には、満鉄の鉄道総局が置かれていました。(本社は大連)


松岡洋右(左から2番目)『満洲里―東京 東亞騎馬旅行隊』より


松岡は、この2年後(1930年)に衆院議員になり、さらにその2年後(1932年)、国連総会で全権大使として大演説をし、日本は国連を脱退することになります。

1935年には満鉄総裁となり、近衛文麿内閣で外相となりました。外相時代に松岡がはじめて「大東亜共栄圏」という言葉をもちいたとされます。

戦後、A級戦犯として逮捕されました(東京裁判の途中、66歳で病死)。


騎馬隊はそのあと、奉天の呉俊陞将軍に表敬訪問します。

呉俊陞 『満洲里ー東京 東亞騎馬旅行隊』より


呉俊陞は、張作霖の腹心で、これが撮影された直後に、張作霖とともに関東軍に爆殺されます。

この映像では、自分を殺す側である日本人と、仲良く映像に収まっているわけですが、表情がなんとなくぎこちないのは、薄々自分の運命をさとっていたのでしょうか。

奉天の官邸前での呉俊陞との記念撮影 『満洲里ー東京 東亞騎馬旅行隊』より


「満州国」建国前夜


この映像が撮られた1928年には、まだ「満州国」はありません。

当時の中国(中華民国)は、奉天を拠点にする軍閥(北京政府)と、国民政府(蒋介石)と、共産党(ソ連が後援)の3つに分かれていました。

日本は張作霖の軍閥政府を後援していたので、こういう映像が撮られているわけですが、国民政府によって軍閥が北京から追い払われると、日本の関東軍は張作霖を「すでに用なしの邪魔者」として爆殺します。1928年6月4日のことでした。

それによって田中義一内閣が倒れ、それによって張作霖の息子の張学良が日本を恨んで国民政府と手を組み、満州での立場が弱くなった日本は、満州事変(関東軍による満州全土の占領)へと突き進んで、局面を打開しようとします。

それが結局、日中戦争、大東亜戦争(太平洋戦争)へとつながっていくのです。


この1928年の映像の時点で気になるのは、満鉄と関東軍の関係、そして、その両者と毎日新聞社の関係です。

毎日新聞が、満鉄、関東軍のそれぞれと密接であることは、映像からもわかります。

しかし、当時はまだ、満鉄と関東軍は、満州経営をめぐって、意見が一致していなかったかもしれません。

石原莞爾が関東軍に赴任したのが、まさにこの1928年です。

当時は、中国・満州に関しては、軍閥をとおした間接コントロールで、場合によっては蒋介石ともうまくやって・・といった路線だったのではないでしょうか。

しかし、「日本軍が満州を領有することで解決する」という石原の構想が、すぐに実現することになります。


毎日新聞社が、その関東軍の意向をどこまでつかんでいたかはわかりませんが、いずれにせよ国策の行方に、真っ先についていこうとしていたのは確かです。

張作霖爆破事件の翌年(1929)の元旦、毎日新聞は、「東亜調査会」の設立を表明します。

これは、東亜政策、植民地経営に関するシンクタンクのようなもので、戦時中の社史には、


東亜共栄の意義を明確に認識せしむる国民運動の先蹤となった


と誇らしげに記しています(「東日70年史」」p226)。初代会長は毎日新聞社長の本山彦一、そのあと徳富蘇峰が引き継いで、近衛文麿などがブレーンとなりました。

この東亜調査会は、毎日新聞の戦争協力の第一の組織になりました。戦後、GHQによって焚書になった毎日新聞出版物の多くが、この東亜調査会から出たものです。

東亜調査会は戦後にいったん消えましたが、毎日新聞社にはいまも「アジア調査会」という社団法人があります。先日亡くなった五百旗頭真が会長でした。


満州事変を熱烈歓迎


毎日新聞社は、1931年に満州事変が起こるや、それを熱烈に歓迎して、関東軍と一体化します。

社史に、こう記しています。


我が外交政策は、いわゆる幣原外相の軟弱外交の下にあり、しかも国内においては党争本位の政党と、左翼的思想運動の横行にわずらわされ、強力なる満蒙国策の確立遂行などというものは及びもつかぬ状態であった。

ここにおいて、日日新聞は、この情勢を黙視し得ず、全機構、全能力を挙げて、先ず満蒙に対する認識の徹底と、その特殊権益の擁護とのために動員した。報道に論説にひたすら国論統一を期し、新聞本来の使命に邁進した。

(「東日70年史」p228 現在の毎日新聞は、戦中は東京で「東京日日新聞」、大阪で「大阪毎日新聞」を発行していた。大阪毎日新聞が明治44年に東京日日新聞を買収したからで、実体は同じ会社)


事実を伝えることではなく、「ひたすら国論統一」をはかるのが「新聞本来の使命」だという。

日本のゆがんだジャーナリズム観は、いまも昔も変わりません。


騎馬隊のパレードで振られる毎日新聞社旗。社旗を沿道の人に振らせるのは、いまも新聞社のイベントでよく見られます 『満洲里ー東京 東亞騎馬旅行隊』より
毎日新聞大連支局 大きな建物で、支局員も多いのがわかります 『満洲里ー東京 東亞騎馬旅行隊』より


もっとも、戦争協力に熱心だったのは、毎日新聞だけではありません。

国立映画アーカイブが公開した別の動画「満州事変一周年編」では、朝日新聞、報知新聞(のち読売新聞と合併)、時事新報、国民新聞など、当時のおもな新聞が、満州事変で盛り上がっているのがわかります。


東京朝日新聞の満州事変1周年イベント 看板に「満州事変記念音楽映画会」とある 『満州事変一周年編』より


この1932年の3月に、日本の傀儡国家である満州国がつくられます。


ちなみに、この『満州事変一周年編』の動画には、建国したばかりの満州国でロケした溝口健二監督・入江たか子主演の「満蒙建国の黎明」封切時のようすも映っています。溝口が国策映画を撮っていたことは、あまり語られないと思います。


満州事変1周年記念で封切られた「満蒙建国の黎明」ちらし 「松竹座ニュース」より


映画「満蒙建国の黎明」封切のようす 日の丸とともに満州国の国旗が飾られている 『満州事変一周年編』より


これらの映像の背景(撮影意図、撮影者など)には不明な点が多く、研究者に解明してほしいですが、戦中のことにはメディアは非協力的なので、戦争協力の全容は、永久にわからないままかもしれません。

ただ、こうした「映像の証言」から、われわれが習っていない、歴史の真実が伝わってきます。



<参考>


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