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新聞の原罪3 毎日新聞と徳富蘇峰

以前、毎日新聞のHPを見たら、沿革の中で新渡戸稲造が社員だったことに触れていた。しかし、徳富蘇峰が社員だったことには触れていなかった。

英文毎日にちょっといただけの新渡戸には触れ、「社の看板」として15年以上本紙面で健筆をふるった蘇峰には触れない。その長さ深さにおいて朝日と漱石の関係にも匹敵するのに、そもそも蘇峰が毎日の社員だったことが知られていない。なぜならば毎日新聞が「世間体」を気にして隠しているからだ。

蘇峰は今でも偉人にはちがいない。故郷の熊本県水俣市はじめ、別荘のあった山中湖、秘書が住んでいた神奈川県二宮など各地に記念館がある。だが、その評価はいまだに定まっていない。

一般的には、「平民主義」で明治前半に華々しく登場し(日本で最初に社会主義を紹介した)、文壇論壇の中心人物となりながら、次第に国家主義、帝国主義に傾斜し、太平洋戦争末期には大日本言論報国会会長として言論統制の元締めとなった残念な知識人、というイメージだろうか。

また56歳から「近世日本国民史」を書き始め、戦後の1952年に90歳で全100巻を完成させた特異な著述家という評価か(1957年、95歳で没)。この「近世日本国民史」は、戦前には学士院賞を受け、戦後も司馬遼太郎はじめあまたの歴史作家が元ネタにしたと言われる。

蘇峰についてここで詳しく論じないが、何しろ長生きなうえに書いて、書いて、書きまくった人生だった。残された本、記事、書簡、記録は膨大で、一人の研究者が全貌をつかむのは無理とも言われる。

そのためだろうか、明治・大正期の蘇峰の研究は多いが、昭和4年、自ら創刊した国民新聞を辞めて毎日新聞の「社賓(重役待遇の論説委員)」となり、昭和20年の敗戦で退社するまで足かけ17年間の「蘇峰の毎日新聞時代」(蘇峰67歳から83歳まで)は、あまり研究されていない。

それが知られないのは、戦前戦中に「皇国日本の帝国主義」を鼓吹し続け、戦後「A級戦犯容疑者」となった蘇峰を「看板」として使った過去を、毎日新聞が隠し続けているからだろう。その間の史料が毎日新聞から出ないのである。

徳富蘇峰と大阪毎日新聞社が昭和4年に交わした契約には、

1 皇室を中心とするデモクラシーを両者の主義とするに於て一致したこと。

とあった。「民本主義」の朝日に対して、「皇室中心主義」を唱えていた大阪毎日の中興の祖、本山彦一社長のキモいり入社だった。「近世日本国民史」も毎日新聞紙上で書き継がれ、蘇峰の本を毎日新聞出版局から出し、毎日新聞社企画の500円懸賞「皇紀2600年史」募集で審査員を務め、ジャーナリズム最高賞として「蘇峰賞」が設立された。

しかし、敗戦の日、蘇峰は辞表を出す。慰留されるが、その慰留した毎日経営者の首も飛ぶ。その経緯は「終戦後日記」に詳しい。

その後、毎日新聞は蘇峰と一切関係していない。まるで何もなかったかのように。

ジャーナリズム論、コミュニケーション論の権威で成城大学教授などを務めた有山輝雄は、

「蘇峰は戦犯として新聞界から葬りさられる。だが、賞(蘇峰賞)まで設けて蘇峰をかつぎあげた大新聞社は、手のひらかえして自己保身をはかり、現在まで存続することとなった。徳富蘇峰も、主観的には巧みに時流に乗った知識人であったつもりだろうが、彼以上に巧妙な組織があるのである」(「徳富蘇峰と国民新聞」あとがき)

と、名前を挙げずに、毎日新聞を皮肉っている。

(画像は昭和16年発行の毎日新聞社史口絵「近世日本国民史執筆中の本社社賓 徳富蘇峰」)



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