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新聞の原罪2 朝毎の「秘密の絆」

春先、郵便受けに朝日新聞購読勧誘のチラシが入っており、それには、「春のセンバツを毎日新聞と一緒に盛り上げます」的な文言があった。

朝日と毎日は仲がいい。先の森喜朗オリンピック組織委員会会長辞任でも、朝日が森の「問題発言」を真っ先に報じ、続いて毎日が森の「辞任」言質を取る、という魅惑の連携プレーを見せてくれた。

そして、朝日・毎日連合と、読売とは仲が悪い。朝日が社説でオリンピック中止を提言した数日後、うちの郵便受けには「読売新聞はオリンピックを応援します!」という読売勧誘チラシが届いていた。

この関係を、リベラルVS保守、反政府VS親政府といった思想論調のちがいだけで捉えるのは浅はかだ(「論調」は結局商品性の一部にすぎない)。背景に、販売戦争の遺恨があることは、知っている人は知っているだろう。


東京の読売、大阪の朝毎


朝日・毎日は大阪発祥の新聞。そして読売は東京発祥の新聞だ。

明治期、東京では15、6紙がしのぎを削っていたが、次第に「東京5大紙」と呼ばれる「報知新聞」「国民新聞」「時事新報」「東京朝日」「東京日日」に収斂していく。

この5紙にしぼって部数を見ると、例えば1906年(明治39)には、

報知新聞17万 東京朝日8万、時事新報3万、国民3万、東京日日3万

といった具合。報知新聞がアタマ1つ抜けてトップだった。のちの読売新聞である。(部数は有山「徳富蘇峰と国民新聞」などから概数化した)

東京朝日は、大阪朝日の実質子会社だ。報知に続く部数だったが、実際には赤字で、販売拡張費などを大阪の黒字から補填していた。なお、この時期東京日日は大阪毎日とまだ関係ない。

当時大阪では、大阪朝日と大阪毎日が密かに販売価格広告価格等で協定し、大阪の新聞界を2社で寡占していた。その利益をもって、両社は東京進出、東京制覇の機会をうかがっていたのだ。

最初に戦争を仕掛けたのは大阪朝日で、1890年(明治23)ごろ。東京朝日新聞の値引き販売を始め、東京の新聞界を激震させた。

しかし、それだけでは報知新聞の牙城を崩せなかった。明治末(45)年1912年で見ると、

報知25万、国民20万、東京朝日18万、時事9万、東京日日5万

といった具合だ。なお、前年1911年に、大阪毎日は東京日日を買収して実質子会社にした。


「朝毎時代」の始まり


次の転機は1915年(大正4)ごろに来る。大阪朝日と大阪毎日がいち早く株式会社化し、さらに潤沢になった資金で夕刊を発行し、週刊朝日やサンデー毎日の創刊など出版事業にも進出した。

このあたりから「朝毎時代」が始まると言って良い。朝夕刊セット売りなど東京勢も追随せざるを得なかったが、資金力の差から朝毎以外は疲弊していくことなる。

1920年(大正9)の東京各紙の部数は、

東京日日29万、報知28万、国民22万、東京朝日19万、時事12万

と、大阪毎日に買収された東京日日が飛躍的に伸びたのがわかる。このとき、東京日日は国民新聞の販売網を共同で使ったが、国民新聞の部数を奪うような裏切りがあったことを、のちに国民新聞の徳富蘇峰が嘆いている。

いずれにせよ、5紙は部数だけで見ると横一線に並び始めたが、部数戦争は朝毎以外の資金力のない新聞をますます疲弊させたのだ。


朝毎の非情


そして、決定打となったのが、1923年の関東大震災である。社屋を失った国民新聞と時事新報には致命的打撃となった。大阪に地盤を持つ朝日毎日の優位がここで確定する。報知は社屋消失は免れたが翌年正力松太郎が社長に就任。資金含めたなんらかのテコ入れがされたと思われる。(2023年12月30日追記<訂正>正力が買収したのは、のちに報知を吸収する「読売新聞」)

遺恨となるのは、このタイミング(1924)で、東京朝日と東京日日が共同で購読料を値上げし、それだけでなく、小売店に対して他紙の定価販売を義務付けたことであるーーかつて朝日は、自らの値引きを「営業の自由」を盾に自己弁護していたにもかかわらず。

ページ数などで劣る新聞は値引き販売が当たり前だったが、定価で勝負となると、この時点で朝日毎日以外は不利だった。そして小売店は当然、定価が高く利益率の高い朝毎を売りたがる。

被災で弱った東京勢の足元につけ込む卑怯な戦法。特に報知を狙った露骨な攻撃であることは明らかだった。当然他紙は反発したが、「定価販売」という大義名分には反論しにくい。朝毎は、それでなくても弱っていた時事新報の「乱売」に難癖をつけて小売店に非売をそそのかしもした。

非情だが資本主義の論理で弱肉強食に徹した朝日毎日の勝利だった。

その結果、1926年(大正15)で見ると、

東京日日60万、東京朝日58万、時事27万、報知26万、国民19万

と、朝毎は、報知含めた他紙を部数で完全に抜き去った。

東京日日の販売担当役員・吉武鶴次郎は、販売スタッフに対し、「(震災後)3年間の戦争で、3社を完全に淘汰した。これからは大阪同様、東京も東日、東朝の2社時代」だ、と勝利の凱歌をあげた。

かくして明治期東京の代表紙だった福沢諭吉の時事新報、徳富蘇峰の国民新聞、そして報知新聞は、大阪からの刺客「朝日」「毎日」に潰された。朝毎の「共犯関係」はそれ以来である。


敗者のその後


敗者となった東京勢のその後をざっと紹介すると、報知新聞は1930年に講談社に吸収された後、最終的には1942年に(以前から少部数で存在した)読売新聞と合併して今に至る。

国民新聞は1933年、新愛知新聞社(現中日新聞)に吸収され、いったんはそこから離れて都新聞と合併し東京新聞となるが(1942)、東京新聞が1963年に中日に吸収されることで最終的に中日新聞の体内に入る。

時事新報は1936年に大阪毎日新聞に吸収される(が、複雑な経緯で屋号の権利は産経新聞が持つ)。

読売のナベツネなんかは、この歴史、大阪の朝毎が手を結んで東京の新聞界をかき回し、最後に「占領」した経緯を、その非情さと狡さを、絶対に忘れていない。だから、部数で朝毎を抜いた感慨は格別であったろうし、ナベツネが死んだ後も、この遺恨は残るだろう(新聞業界自体が滅びるまで)。



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