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新聞の原罪 ダブスタの起源

社説で五輪中止を訴えた朝日新聞が、公式スポンサーから降りないこと、また夏の甲子園は開催予定であることをもって、ダブルスタンダードではないかと非難された。

この例がダブスタに当たるかは議論を呼ぶだろう。しかし日本の新聞のダブスタ自体はよくあること。昔から非難されている。

その代表例が1919年(大正8)の新聞印刷工争議だ。東京日日新聞(現毎日新聞)の印刷工が賃上げと8時間労働を要求、たちまち東京の新聞各社に広まる大争議となった。当時の新聞印刷工の賃金は各社おしなべて安く、労働時間は平均12〜14時間だった。

当時は第一次世界大戦後の「平和」ブームで、新聞は、国際協調主義と共に労働運動同情論をぶち上げていた。しかし、自分の足元で労働運動が燃え上がったとき、新聞社は団結してこの運動を弾圧し、鎮圧した。

印刷工の要求が提出されたのが7月24日、その1週間後に東京都下16社が新聞連盟を組織し、ストライキに対抗するため新聞の一斉休刊と、ストライキ参加者全員の解雇を決めた。各社は、解雇通知を一方的に郵送するいっぽう、読者に対して争議の内容について伝えず、8月1日から4日までの休刊についてもほとんど説明しなかった。日頃唱えていた新聞の公益性を自ら裏切る行為だった。

東京日日・大阪朝日などの記者で社会主義者の大庭柯公は「紡績会社の同盟罷工、炭鉱の同盟罷業の場合には、さかんに罷業を正当とし、職工側に同情をしながら、それが一旦新聞社に及んだときに、手の裏を翻すように、にわかに所謂資本家的態度を丸出しにしてはばかる所がないことはそれは天下の言論機関たる新聞紙が、人を欺き世を欺き、兼ねて己れを欺くものである」と激烈に批判した。

情けないのは、新聞経営者だけでなく、ほとんどの新聞記者が沈黙したことである。印刷工を支援した記者は直ちに退職処分にし、東京16社で雇用しない協定を結んだとも言われる。記者のほとんどはこれに屈した。

大庭とともに数少ない例外である桐生悠々は、「新聞記者が頑冥にして利己的なるこの種の経営主によってその主張を無視されたることに憤慨して、同盟罷工をあえてしたとの報に接しない。否、個人的にその職を辞したものすらも、未だ発見しない。新聞紙の権威はここに二重に失墜し、而して新聞紙はここに二重の自殺を遂げたものと言わねばならぬ」と慨嘆した。

新聞社と新聞記者の偽善は昔から変わらず、今さら驚くに当たらないのだ。

(参照:有山輝雄「徳富蘇峰と国民新聞」)



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