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安心して読める記事の条件とは?

書く側としては、文章を書くときはできるだけいい文章を書きたいと思うのが自然だ。しかし、読む側に回ったときに、別に「いい文章」を求めていないと感じる。うまい言い回しだったり、かっこいい言葉よりも別のことを考えて読んでいる。それは、この記事を読んで気分が悪くならないか、とか自分の考えが否定されたりしていないか、とか文章の良し悪しとは別の次元のものである。

どうやら、文章の良し悪し以前に必要とされている条件のようなものを気にして読んでいるようなのだ。だから、別にレベルが高い文章を読みたいなどとは思っていない。noteはプロ、アマチュア問わず作品が投稿されている。だから、受け取る側としては、別に世間一般の「素晴らしいもの」を望んでいない。それよりも、対等な立場で楽しんだり、共感できたりすることを望んでいる。

もちろん、「素晴らしいもの」を作ろうとする心意気は否定されるべきではない。しかし、「素晴らしいもの」であればいい、あるいは「素晴らしくなければならない」という考え方は批判したい。

そもそも、受け取る側が「素晴らしいもの」を求めてしまう状況とは、その作品に対して対等な立場に立つことを放棄してしまっていると言える。「素晴らしい」と崇めてしまうとどうしても上下関係が生まれる。それは、読む側よりもそれを書いた書く側が上に立ってしまう構図である。その構図を気にせず、「素晴らしい」ものを求める人もいる。しかし、かえって敬遠してしまう人もいるだろう。その人にとっては、おそらくその上下関係のようなものがストレスに感じるからだ。

書く側にとって、「素晴らしいもの」を求めることは、創作の重要なモチベーションになる。だから、適度に素晴らしいものを求めることは良い。しかし、その気持ちがあまりにも強いと、書く前から自分の書きたいことを否定してしまったり、書いた後でもなかなか発表できなかったりする。実際は、いきなり素晴らしいものを作ることはできない。だから、自分では素晴らしいと思っていなくても、発表して反応をもらうことは有効である。その反応によって、どのように作ってゆけば良いのか方針を立てることもできる。しかし、あまりにも強く「素晴らしく」しようとすると、そのサイクルをうまく回せない。

書かれるものの、「素晴らしさ」が競われるのは、文学賞などのコンテストの場などが多いだろう。しかし、書かれたもの全てが賞レースに参加するわけではないし、レースに参加しようと思って書く必要もない。だから、素晴らしくないからといって、書いた文章を否定するのはおかしい。本来はレースではなく、書かれたものは全て対等であると思う。「素晴らしさ」を目指すかどうかは、書く側の選択肢の一つである。

安心して読めるかどうか、と考えている。それが、文章を書く基準であっても良いと思う。今まで、「素晴らしいかどうか」という基準もあったが、それではどこまで行ってもキリがないし、考えすぎるのもストレスになる。だから、終わりのある考えで、明確な基準が欲しい。そして、「これを満たしさえすれば何を書いても良い」という開放感のあるルールが欲しい。

そのようなルールがきっちり守られている場でこそ、書く側の自由と読む側の自由がうまく行使されるのではないだろうか。書きたいだけ書いて、読みたいだけ読む。そこに、「安心」が必要なのは、「読みたいだけ読む」ということができるためである。読むために嫌なものにであったりしたら、いろいろ探すだけでも大変だし、ついには探すこともやめたくなるだろう。

どうすれば、安心して読める文章を書けるのか?書きながら考えていると一つの記事には収まらない。マガジンを作って複数回に分けて考えたいと思う。考えがまとまったら、一つのまとめ記事を作るつもりなので、考えの過程を追うのが大変ならマガジンを全てフォローする必要はないだろう。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!