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戦後の「平和」が隠したもの

消臭語


一般に、「平和」という言葉がつく団体は、うさん臭い。

そう思うのは、わたしだけでしょうか。

経験的に、「平和」という言葉をことさらつける団体は、実態が左翼だったり、右翼だったりする。

つまり、「平和」は、左翼臭や右翼臭を消すための「消臭語」ですね。

ことさらに「幸福」をつける団体が、うさん臭いと感じるのに似ている。

実例をあげるのは、差しさわりがあるのでやめますが。


とにかく子供のころから、「平和」という言葉にやたら接してきた。

戦後の日本人には、「平和を祈念する」という習俗ができました。

実際上、「平和を祈念する」身ぶりが、民族的に強制されていると思うんです。

これは当然、「9条護憲」という思想にも結びついている。


「平和」の対義語


なぜ、戦後日本人はことさら「平和」に取りつかれたのか。

「平和を祈るのは当たり前だろう、お前は戦争がしたいのか」

「前の戦争でひどい目にあったのだから、当たり前だ」

そう言われそうですが。


こういう言い方は、「平和」と「戦争」を対に考えている。

「戦争」の反対が「平和」だ、と。

「戦争と平和」という、この対義語のイメージがあまりに強い。

戦争資料館なども、「平和」とか「平和祈念」とか使う例が多い。反対語で「戦争」臭を消そうとするわけです。


でも、戦後日本の文脈のなかで、「平和」の対義語は「戦争」ではないと思う。

「平和」という言葉で、本当に隠したい反対語は、「勝利」だと思うんですね。


「軍部が、むりやり日本人を戦争に駆り立てた」

「日本人は、本当は平和を望んでいた」

そういう戦後の言説が隠したい真実は、

「日本人は、日本の勝利を望んでいた」

ということだと思うんです。


もちろん、例外もいたでしょう。しかし、多くの人は、満州事変や真珠湾攻撃に興奮して歓喜した。その証拠は、当時の新聞や文学などに残っています。

敗色が濃くなり、戦争末期になると、みんなうんざりしてきたのも事実です。兵士や、いわゆる銃後の人たちも、ひどい目にあいました。

しかし、国民が日本の戦争目的を信じ、その勝利を望んでいた期間は長い。それも事実だと思うんですね。


つまり、

「日本人は、戦争の勝利を望んでいた」

それは当たり前のことのようだけど、戦後は言いにくくなった。

それどころか、その事実を隠すために、

「日本人は、ずーっと平和を望んでおります」

と戦後、言いつづけなければならなくなった、と思うのです。


それを、だれに言いつづけているのか?

まあ、戦勝国にたいしてでしょうか。


「あなたたちに勝とうなんて二度と思わないからカンベンしてください。というか、あなたたちに勝とうなんて思ったことは一度もなかったんです。本当です。あれは一部のくるったやつらの妄想で。アハハ。わたしたちも犠牲者です。原爆だけはカンベン」

みたいな。


ただ、ほとんどはその動機や目的も忘れ、「平和」といえば、戦後に生存する赦しを得られるような、そういう言葉になったと思うのです。

一種の合言葉ですね。

あるいはお守り。

「平和」とつけとくと、安心する。守られる。

そういう心理が、ことさら「平和」と名のつく団体や催しをふやしているように感じます。


小澤開作のこと


なんでいまさら、こんなことを考えたかというと、最近、小澤征爾や、火野葦平のことを考えていたからですね。

小澤征爾の「征爾」が、板垣「征」四郎と石原莞「爾」から付けられた、というのは多くの人が知っているでしょう。

小澤の父、小澤開作は歯科医師でしたが、満州事変を起こした板垣や石原の親友で、満州国の五族協和の理想を追求した民族主義者でした。


昨日、わたしは、小澤俊夫さん(筑波大名誉教授、開作の次男、征爾の兄)が、父小澤開作を語るYouTube番組を見ていました。


満洲で「五族協和」に命を懸けた小澤征爾の父・小澤開作|小澤俊夫(テンミニッツTV 2月15日)


小澤俊夫さんはドイツ文学者ですが、子供時代のやけどのあとが顔に残り、いじめられた気の毒な過去があります。

わたしも昔、俊夫さんとは何度かお会いしたことがありますが、このYouTube番組を見て、かれの温かい人柄を思い出しました。

それはともかく、この動画のなかでも、開作が「日本人、朝鮮人、中国人、満州人、モンゴル人」が協和する理想社会を夢見たことが語られます。


そういう思想は、いまでは右翼思想のように見られかねない。というか、いまでは公言をはばかられる、右翼思想そのものです。

実際、東京裁判では、小澤開作の盟友だった板垣征四郎はA級戦犯で死刑となり、石原莞爾もA級戦犯相当でしたが複雑な理由で外されました(が、公職追放後、すぐ亡くなった)。

石原莞爾の場合、東条英機と仲が悪く、「反東条」であったことが、戦後の心証をよくしたところがあります。それは、小澤開作にしても同様でした。

しかし、かれらは、軍事官僚であった東条よりも、さらに思想的に深い右翼だった、とも言えます。(そして、右翼であることが悪いわけではありません)。


「戦犯」の屈折


小澤開作自身は軍人ではありませんでしたから、「戦犯」に問われたことはありません。

戦後は、わたしの住む川崎市で歯科開業医をしていました。実家はいまも多摩区の南生田にあります。

いっぽう、戦時中の大物とのつながりは戦後も生きており、政治活動的なこともしていたようです。

1970年に71歳で亡くなりました。

2002年には、小澤開作の妻、小澤征爾らの母のさくらさんが94歳で亡くなりましたが、そのときの新聞訃報では、開作氏は「歯科医」とされたり、「政治活動家」とされたり、混乱していたそうです。


小澤家とか、火野葦平(玉井)家とか、戦中にブイブイ言わせた一家は、戦後は一種「屈折」することになります。


「兵隊作家」として人気だった火野葦平は、戦後は「戦犯」あつかいされました。

その甥(葦平の妹の子)、中村哲(1946‐2019)は、ご承知のとおり9条信奉者で、パキスタンなどで平和(医療)活動をおこない、ノーベル平和賞にあたいするとたたえられ、アフガニスタンで銃撃されて亡くなりました。


小澤開作の息子、上述の小澤俊夫も、「子どもの本・九条の会」代表団員かつ「9条の会」呼びかけ人でした。

それは、親の代の「戦争」イメージを取り消すような生き方です。


しかし、いっぽうで、小澤征爾や、中村哲のグローバルな活躍は、武力や戦争によらない「五族協和」をやってみせたようなところがあります。民族、国境を超えて、人びとは協和しうる、と。

小澤開作や火野葦平が信じた「大東亜」思想の平和的再現、平和的展開という感じもします。そのさい、小澤征爾も、中村哲も、小澤開作や火野葦平が戦中に足跡を残した場所(満州・中国、または東南アジア、南洋)を、あえて巧妙に避けているようにも思えます。


つまり、先代が生きた戦中日本の、「否定」と「継承」の両方を、これらの家族には感じるのですね。


歴史のかいざん


最初の話に戻せば、「平和」という言葉の多用は、そういう戦前・戦中からのニュアンスに富んだ連続性を、一色に塗りつぶして、わからなくしてしまうところがあると思うのです。

戦争経験者でもない、無知なわたしがエラソーに言うことはないのですが。


でも、戦中に、ある理想を信じ、そのために戦争に勝ちたいと思った、その思いは、そのとおりに受け止めたいのですね。

それを、戦後のイデオロギーで、否定したり、言い訳したりする必要はないと思うのです。


わたしが、「歴史」をどう体験したいかと思うと、一人の人間が、たとえばわたしが、1000年くらい生きたとしたら、そのつど時代を「どう感じたか」を、追体験したいわけです。

あとの時代に修正された「虚偽の記憶」がほしいわけではないんですね。


その歴史の追体験のために、火野葦平のような、戦前・戦中・戦後を生きた作家の足跡を追うことは有益です。


それなのに、火野葦平をこんにち紹介したり研究したりする人たちは、火野が「戦後、戦争協力という前非を悔いて、反戦平和を説いた」という面だけを、やたら強調する。

こんにち、火野の代表的研究者である増田周子(関西大学教授)もそうです。火野の「インパール作戦従軍記」の巻末解説の結びに、こう書いています。


火野はインパール作戦で、日本、インド、ビルマの名もなき兵士たちの死闘を見、彼らの無念さを知り、悔しさや怒りの体験を戦後、反戦への取り組みに生かしていったのであった。

(本書)には、火野が戦後訴えた、平和への希求が感じられることだろう。

(増田周子『インパール作戦従軍記』解説)


「反戦」「平和」という言葉で包装しなければ、「兵隊作家」火野葦平は戦後の世に出せない、というような感じです。

それでは、火野葦平をいじめた左翼勢力と同じ立場とならないでしょうか。

(それに、火野の「インパール作戦従軍記」を素直に読めば、「平和への希求」ではなく、「勝利への希求・執念」のほうが感じられる。というか、それだけが強く感じられます。それについては、また別の機会に書きます)


ここには、以前わたしが徳富蘇峰記念館や、三島由紀夫文学館について批判したのと同じ事情があります。

つまり、蘇峰や三島の事跡を顕彰しようという立場の人びとでさえ、こうした文人、芸術家の「右翼臭」を、むりやりでも消そうとする。


しかし、火野葦平は、戦中は「反戦」ではなく「好戦」の人であり、「平和を希求した」のではなく、「日本の勝利を希求した」のです。

それは、徳富蘇峰も同じです。蘇峰も葦平も、だからこそ戦中に人気を誇ったのであり、それはかならずしも権力によって押し付けられたものではない。当時の多くの日本人が同じ思いだったからにほかなりません。


蘇峰は戦後ほとんど沈黙しましたが、火野葦平は、戦後も作家活動をつづけた。

その過程で、戦後の文化・風俗に媚び、「反戦平和」を説き、戦中の言動をひそかにかいざんしようとしたことは事実です。

しかし、そこに無理があり、矛盾を解消できないから、結局は自殺に追い込まれた。これまで書いてきたように、基本的には火野葦平を、わたしはそのように見ています。(そしてそれを、気の毒に思っています)


「勝利」を「平和」に言い換える戦後の風習によって、これらの作家をあつかうのは、これらの作家の本質や苦悩を見失うことになる。

そのような態度は、日本という国の歴史をかいざんすることになる。

それは、日本という国を、「自殺」に追い込む道に通じている、かもしれないと思うんですね。


(なお、この記事のタイトル画像の人物は、陸軍大臣で朝鮮総督だった山梨半造。大東亜戦争でnoteで検索して使える写真がこれしかなく、いい写真だと思ったので、使わせていただきました。この記事と直接関係ありません)



<参考>


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