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ヒーローと戦争 「子供視点」の戦争観を卒業しよう

【概説】ヒーローの変遷と「厭戦主義」の関係


実際に兵士として戦った世代、戦中派の川内康範が創造したのが「月光仮面」(1958年)。

「正義の味方」という言葉を広め、戦後日本のヒーロー第1号と呼べる存在ですが、実際には戦前・戦中の価値観を引き継いでいました。

月光仮面のようなヒーローは、正義のために戦いつつ、正義とは何かを追求します。


1960年代になり、高度成長でテレビが家庭に当たり前になって、生まれたのが「ウルトラマン」や「仮面ライダー」といった特撮ヒーロー。

それを創造したのは、川内康範より年下で、戦争中は子供だった世代です。

ウルトラマンのような特撮ヒーローは、基本的に「平和主義者」であり、巻き込まれる形で仕方なく戦うので、みずから正義のために戦う動機は持ちません。


1950年代まではあった戦中の正義感は、1960年代の高成長期に入って消えていきました。

代わりに、1960年代型の平和主義的ヒーローが現れ、折しも世界的な反戦ブームの中、厭戦的・反戦的戦争観と共存して栄えます。

その戦争観には、クリエイターたちが子供として受け身に戦争を体験した「被害者意識」が反映しています。

それが戦後日本の戦争観の主流となっていきました。


「戦中・戦後」世代別のヒーロー


以下、各世代の担い手と、ヒーローの創造者たちをまとめました。


A 1910年〜20年代生まれ 戦中派

 従軍し、戦争を当事者として体験した世代
 橋本忍(1918年生まれ)「七人の侍」脚本
 やなせたかし(1919年生まれ)「アンパンマン」
 川内康範(1920年生まれ)「月光仮面」
 天本英世(1926年生まれ)「死神博士」演者


B 1930〜40年生まれ (昭和一桁世代)焼け跡闇市派
 戦争末期・終戦直後を子供として体験した世代
 野坂昭如(1930年生まれ)「火垂るの墓」
 永六輔(1933年生まれ)反戦平和主義者
 黒柳徹子(1933年生まれ)「窓ぎわのトットちゃん」
 美輪明宏(1935年生まれ)反戦平和主義者
 上原正三(1937年生まれ)「怪奇大作戦」「ウルトラセブン」
 金城哲夫(1938年生まれ)「ウルトラマン」
 石ノ森章太郎(1938年生まれ)「仮面ライダー」
 中沢啓治(1939年生まれ)「はだしのゲン」
 

C 1940生まれ以降 戦後世代 全学連〜全共闘世代
 戦争体験がなく、戦後の社会主義思想に染まった世代 
 宮崎駿(1941年生まれ)「風の谷のナウシカ」
 富野 由悠季(1941年生まれ)「機動戦士ガンダム」
 猪瀬直樹(1946年生まれ)「昭和16年夏の敗戦」


D 1960年生まれ以降 新人類世代

 生まれた時から高度成長 B・C世代から「戦争」「ヒーロー」を学ぶ
 庵野秀明(1960年生まれ)「シン・ウルトラマン」「シン・仮面ライダー」
 こうの史代(1968年生まれ)「この世界の片隅に」


上の表を見ただけでも、「B」の世代が、今日につながる「ヒーロー」を創造し、同時に現在の「9条護憲」や「反戦平和」ムードを戦後につくり出したのがわかるでしょう。


現在、SNSでよく回ってくるのも、美輪明宏や永六輔など、この「B」の世代、戦争中に子供だった世代の「戦争体験」です。



「この戦争は負けよ。だって竹槍でどうやって飛行機が落とせるの。 沖縄が陥落すると、運動場で女子たちが号令に合わせて変な手つきをしている。米兵が上陸した時に操を守るため睾丸を握りつぶす練習をしているのです。 わかるでしょう、当時の日本がどれだけ馬鹿だったか」美輪明宏


「戦争なんてものは伝えられるような、なまやさしいもんじゃない。 戦争なんてものは反対だけしてりゃいいんだよ」(永六輔) ただ、永六輔はこうも言っている。 「憲法9条を考えるためには、もっと戦争の恐ろしさを伝えないといけない」


「反戦平和」世代の発生


明治以降、日清、日露、第一次世界大戦と連勝し、満州事変にも喝采した日本国民は、日米開戦時にも快哉を叫んでいました。

実際そのころは、社会主義者の弾圧や、今から見れば差別や人権侵害があったとしても、「銃後」には明るく平和な日常がありました。

しかし、太平洋戦争はすぐに暗転し、その後半は戦場でも、日本の国土でも、全般的に悲惨な状態になります。

その最悪な戦争末期の2〜3年間と、敗戦による混乱を「子供」として体験したのが「B」の世代でした。


われわれは、戦後、この世代の声を、「戦争体験者の声」として聞くことが多かったのです。

「火垂るの墓」や「トットちゃん」の話を、われわれはあたかも特権的な「戦争体験者の物語」として聞くのです。


しかし、彼らの体験には、「子供」だったという制約があることを忘れるべきではありません。

その戦争体験に嘘がないとしても、戦場で戦ったわけではない。一方的に被害者となったのは、彼らが子供だったからです。


忘れてはならないのは、彼らに直接「加害」したのは、民間人を見境なく攻撃したアメリカだということ。


そして、彼らの苦労は、敗戦したから報われなかったのであり、勝っていたら違っていた、という点でも、戦争体験としての普遍性はありません。

戦争ではなく、地震や飢饉でも、同じような体験だったでしょう。

現に、戦争に勝ったアメリカ人は、いまだに日本との戦争を誇らしげに振り返ることができるのです。


戦中派の心理と軌跡


「A」の世代、実際に戦場で戦った世代は、もう少し複雑な戦争観を持っていました。

戦場に立てば、被害者でもあり、加害者でもある。一方的な被害者感情だけをもち、戦争は嫌だ、と逃げ出すわけにはいきません。その場の倫理に命をかけます。


生き残って戻ってきた人たちも、あの戦争が無駄だったとか、間違っていたとは考えたくない人たちが多かったでしょう。

しかし、そういう声は、戦後はGHQによって禁じられ、そんなことを言いそうな奴は公職追放などの処分を受けました。

いわゆる「戦犯」は処刑、処分され、あるいは自殺した。

戦中派はものが言えず、社会の第一線は、いわゆる「3等重役」時代で、戦争に加担しなかった人たちに活躍の場が与えられました。その中には、もちろん左翼たちがいます。


1952年の講和で占領軍が去り、戦中派にある種のルネッサンスが訪れます。

戦時に軍部に統制され、戦後はGHQに検閲されていた人たちが、やっと自由にものが作れるようになりました。

占領期に禁じられていたチャンバラものが解禁され、「七人の侍」や「用心棒」などがつくられる。

そこには、「正義」のための戦いは、悪くないし、美しい、という、戦中派が言いたかったことが表現されています。

悲惨一色ではない戦時を描いた「二十四の瞳」もこのころです。黒澤明や木下恵介は、戦中から映画を撮っていた人です。

日本はアメリカから独立して自立しよう、という運動も、1960年の安保闘争で頂点を迎えます。


しかし、安保闘争の敗北と、同年の所得倍増計画によって、日本は変質していき、戦中派も高度成長に邁進するようになります。

わたしは「兵隊作家」の火野葦平を研究していますが、彼は1960年に自殺します。

三島由紀夫は、1960年ごろから「英霊の聲」を聞くようになり、1970年に自殺します。

そのころには、戦中派(英霊を含む)の声は、一般国民にもう届かなくなっていました。


代わりに、「B」の世代が台頭し、1960年以降の文化や世論をリードしていくようになります。


「24年目の復讐」での戦中派の扱い



こうした「A」の世代と「B」の世代の関係を、よくわからせてくれるテレビドラマがあります。

1968年に放送された「怪奇大作戦」の第15話「24年目の復讐」です。


怪奇大作戦「24年目の復讐」ダイジェスト↓


「怪奇大作戦」は、円谷プロが「ウルトラマン」「ウルトラセブン」の後に制作した番組です。

わたしは当時小学生で、リアルタイムで見ていました。

科学捜査研究所(SRI)のメンバーたちが、怪奇現象を捜査するという内容です。

この番組では、何といっても捜査官の「牧」を演じる岸田森が魅力的でした。今の「クリミナル・マインド」のDr.スペンサー・リードの先駆みたい。オタク的で、あくまで科学的に冷静に怪奇現象にアプローチします。


上原正三が脚本の「24年目の復讐」は、旧日本兵が、敗戦を知らずに海の底で「水棲人間」として生き延び、横須賀にいるアメリカ兵を殺しまくる、という話です。

「24年目」というのは、当然1945年から数えています。

日本兵が密かに生き延びているーーという、のちの横井庄一や小野田寛郎の事件を予言するような内容で有名です。


放送時はベトナム戦争真っ最中で、横須賀に米兵がたくさんいた。それを日本人が不思議にも屈辱にも思っていない。そうした風俗の記録としても貴重です。

そして、日本兵を演じているのが、まだ無名の天本英世(仮面ライダーの「死神博士」で有名になるのは1971年)。

天本英世と、岸田森が対決するーーというのが、特撮ファンには胸熱ですし、実際にその対決シーンがドラマ上も最大の見どころになっています。


ここで、天本英世演じる旧日本兵(木村)は「A」世代、そして岸田森演じる牧は「B」世代という設定。

牧は、事件を捜査しながら、子供時代に空襲で姉を亡くしたことを思い出すんですね。


横須賀・猿島の「木村」の棲家で、牧と木村が対話するシーンが最高の場面です。

猿島で対決する牧と木村


牧「日本は・・負けちゃったんです」


木村「嘘だ!」


牧「・・・・」(狂人を見る目で木村を見る)


このやり取りの中に、「A」世代と「B」世代の断絶が表現されています。


こうした戦争をめぐる世代差は、この回のエピローグでも強調されています。

エピローグでは、SRIの所員が集合したところで、事件を振り返って以下のような会話が展開します。

ここでは、戦後生まれで、戦争をまったく知らない「C」世代の「野村(ノム)」がくわわり、「A」世代の「的矢」、「B」世代の「三沢」「牧」と会話します(以下、カッコ内は、ドラマの設定上の年齢)


牧(28歳)「執念と言えば、木村二等水兵ですよ。23年間、戦う執念だけで生きてきたんですからね」

野村(21歳)「バカみたいな話ですね」

三沢(28歳)「ノム、そんな言い方はよせ! 戦争の影響から逃れられないでいる人びとは、まだおおぜいいるんだ」

的矢(48歳)「ノムは戦争を知らない。だからよその国の話のように思えるんだろうな」


エピローグ場面。左から的矢(原保美)、牧(岸田森)、町田(小林昭二)、野村(松山省二)、三沢(勝呂誉)、小川(小橋玲子)


戦争を知らない「C」世代の「暴言」を、「B」世代がたしなめる。

「A」世代は、「B」世代をフォローするだけで、それ以上のことは言わない。

これは、1960年代以降の「A」「B」「C」世代の関係をよく表しています。

結局、戦争に関する「世論」をリードしていくのは、「B」世代なのです。


このドラマに象徴されるように、1960年代の特撮番組は、「B」世代が、「B」世代の感覚でつくっていました。

彼らの戦争観やヒーロー観が、番組をつうじて、のちの世代にも影響します。


「子供視点」の戦争観の問題


このようにして、「B」世代の「子供視点」で見た戦争体験が、戦後、あたかも戦争体験の代表のようになってしまったことは、いろいろ弊害を生んでいると思います。

戦争や軍隊に対して、一方的な被害者意識をもち、自分たちにはコントロールできない巨大な「悪」だと感じる。

それは、子供の感覚です。

それが、憲法改正などの議論でも現れます。

大人の立場で、軍隊をコントロールしよう、という主張がとおらない。

恐ろしい、怖い、といって、いつまでも逃げる。

そんな、非力な子供の感覚から、解放されるべきです。

日本人は早く大人の視点で戦争や軍隊を見られるようにならなければいけません。


戦争中、子供ではなく、大人だった「A」世代は、生きていれば今100歳くらいで、もうすぐこの世から消え去ります。

最近、Xで見た100歳の在宅高齢者の姿が、わたしの胸を打ちました。


100歳の在宅高齢者、1か月前の七夕の願い。 会いたかったのは戦地で共に戦い、戦死した友。 同じ部隊で生き残ったのは2人だけ。目の前で爆弾が破裂して友人の身体は粉々になった。極寒のシベリアに10年抑留されて強制労働させられた・・ 患者さんたちから教えてもらった壮絶な経験。 生命や人生そのものを奪われてきた人たち。 戦後日本の成長の礎を築いてくれた人たち。 残された時間、最後まで尊厳を持って生き切っていただけるよう、最大限のリスペクトをもって関わらせていただきたいと思う。



<参考>



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