「月光仮面」に嫉妬した「アンパンマン」 正義VS反正義
2日前に「姑娘と五人の突撃兵」のことを書いていて、「月光仮面」の作者、川内康範と、「アンパンマン」のやなせたかしが、ほぼ同い年であることに気づいた。
やなせたかし 1919(大正8)年2月8日生まれ
川内康範 1920(大正9)年2月20日生まれ
やなせの「アンパンマン」は、川内の「月光仮面」へのアンチとして生まれた。
そのあたりのこと、誰か書いているだろうか。
なかなか売れなかったやなせ
二人は戦中派で、経歴もどこか似ているが、前半生は、やなせの方が恵まれている。
やなせ(本名・柳瀬嵩)は、朝日新聞記者の息子で、現・東京都北区に生まれた。父が死んだため、実家の高知県に移住するが、実家も由緒ある旧家だった。東京工芸高等学校(現・千葉大学工学部)を卒業し、東京の田辺製薬の宣伝課に就職する。
川内(本名・川内潔)は、青森県八戸市の日蓮宗の寺に生まれ、小学校を卒業後、職業を転々とする。東都映画の大道具だった兄を頼って上京、新聞配達をしながら、なんとか日活撮影所に入社して、その後、東宝演劇部で脚本を書き始める。
太平洋戦争が始まり、どちらも徴兵される。やなせは「大卒」の学歴を生かし、下士官として中国で宣撫工作にかかわった(最後は陸軍軍曹)。川内は横須賀海兵団に入団するが、詳しい軍歴はわからない。
どちらも無事に復員したが、戦後は川内が先に売れた。
1958年、「月光仮面」が空前のヒットとなったのに続き、作詞家として「君こそわが命」「恍惚のブルース」「おふくろさん」など大ヒットを連発して、1960年代には芸能界の大物の地位を確立した。
いっぽう、漫画家を志して高知から上京したやなせは、1960年代までなかなか売れなかった。そのあたりのことは有名であろう。2025年度のNHK朝ドラ「あんぱん」でも、この時期の夫婦愛が中心に描かれるのではないか。
1970年代に「アンパンマン」の原型を描いて、徐々に売れ始めるが、実際に「アンパンマン」人気が爆発したのは、1990年代、平成時代になってからだった。
アンチ「月光仮面」としてのアンパンマン
30代で売れた川内と、60歳近くになって売れたやなせ。
子供のヒーローを創造したり、ヒット曲の歌詞を書いたりーーという川内の軌跡は、まさにやなせのやりたいことだったはずだ。
やなせは、先行して成功する1歳年下の川内を、どう見ていたのだろうか。
川内の「月光仮面」は、「正義の味方」という言葉を広めた。
「アンパンマン」は、その「月光仮面」をはじめ、川内が創造した「日本的ヒーロー像」への反発から生まれている。
「アンパンマン」は、それまでの「正義」へのアンチであった、とWikiに書いてある。
ヒーローとしてのアンパンマンが誕生した背景には、やなせの従軍経験がある。第二次世界大戦中はプロパガンダ製作に関わっていたこともあり、特に戦いのなかで「正義」というものがいかに信用しがたいものかを痛感した。しかし、これまでのヒーローは派手な格好をし、強い力・武器・必殺技を持ちながら「正義」を口にし、悪者や暴れる怪獣を徹底的にやっつけることが主であり、飢えや空腹に苦しむ者を救わなかった。(中略)こういった事情が「困っている人に食べ物を届ける、立場や国が変わっても決して逆転しない正義のヒーロー」という着想に繋がった。アンパンマンと「正義」というテーマについて、やなせは端的に「『正義の味方』であれば、まず、食べさせること。飢えを助ける。」と述べている。
いずみたくが作曲した旧主題歌「怪傑アンパンマン」も、「月光仮面」主題歌のパロディである。
「月光仮面」主題歌
どこの誰だか知らないけれど
誰もがみんな知っている
月光仮面のおじさんは
正義の味方だ 善い人だ
月光仮面は誰でしょう
「アンパンマン」主題歌
しらないひとはしらないが
しってるひとならしっている
はためくマントはこげ茶色
はらぺこのひとを救うため
正義のために今日もゆく
おお!アンパンマン
「月光仮面」主題歌中の「正義」はマジだが、「アンパンマン」主題歌中の「正義」には揶揄がまじっている。
上記のWiki「アンパンマン」記事は、やなせの従軍経験がアンチ「正義の味方」のアンパンマンを生んだように書いているが、「正義の味方」月光仮面の創造者の川内だって従軍経験がある。
それに、それまでの正義の味方は「飢えや空腹に苦しむ者を救わなかった」と書いているが、たとえば川内の「正義のシンボル コンドールマン」は、人びとから食料を奪う「ハンガー作戦」をたくらむ悪人たちとの戦いを描いている。
つまり、それまでの「正義の味方」のヒーローが、実際の戦争を知らず、飢えのような人びとの実際の苦悩を知らない、というのは、やなせ側の言いがかりに過ぎないのだ。
そんな言いがかりにもとづいて、「だから正義は信用できない」というのは、筋違いというものである。
その筋違いから「アンパンマン」が生まれたのなら文句は言いにくいが、従来のヒーローを過剰に叩くやなせの心理には、年下の売れまくっている川内康範への嫉妬もあったのではなかろうか。
川内康範は、民族派右翼のように思われることもあったが、ガンジーの非暴力主義を信奉し、憲法9条を守るべしという護憲派だった。
上のwiki記事は、それまでのヒーローが「悪者や暴れる怪獣を徹底的にやっつけることが主であり」と書いているが、そんなことはないのだ。実家の日蓮宗の教えもあり、「悪に対しても慈悲の心で臨む」川内のヒーローは、決して好戦的ではない。
「アンパンマン」の意義を強調するために、やなせと一緒になってwikiの記事も、それまでの日本のヒーローを悪く言い過ぎている。
ただ、川内のヒーローは、「正義」の追求には真面目であり、求道的でもあった。
そこが、1960年代以降、時代遅れになった。これが決定的だったように思う。
これもまた、
「日本人は1950年代まで真面目だったが、高度成長が始まった60年代から真面目さを失った」
というわたしの説の例証である。
「正義より平和」の勝利
今日、「月光仮面」は忘れられ、「アンパンマン」が勝利した。
「正義」なんて信用ならない、正義より「パンと平和」だという、いわゆる「諦観的平和主義」が勝利した日本の戦後を象徴していると言えるだろう。
実際には、「月光仮面」的な正義感を嘲笑う現象は、「アンパンマン」ブームより前に出現している。
正義とは何か、を考える学問である法哲学の先生には、それは由々しき事態だった。
法哲学者・井上達夫の名著『共生の作法』冒頭を思い出す人もいるのではないか。
ひところ、大学や高校の学園祭では、月光仮面がよく出現した。思い思い衣装に趣向を凝らした学生たちが、活劇を繰り広げ、例の歌が、嘲笑を交えつつ屈託のない声で斉唱される。「……月光仮面のおじさんは、正義の味方だ 善い人だ……」この種のパフォーマンスが伝えようとしている「メッセージ」を明確に表現するためには、「正義の味方」は「セーギの味方」と表記されなければならない。
(中略)
正義に対する嫌悪は、実は軽チャー病に憑かれた人々に限らず、もっと「シリアス」な知識人をも含めて、現代日本においては広範に共有されている感情である。
井上達夫『共生の作法』(1986)p3
1954年生まれの井上がいう「ひところ、大学や高校の学園祭では、月光仮面がよく出現した」は、1970年代の半ばくらいだろうか。
いわゆる「シラケ世代」の始まりで、ちょうどやなせの「アンパンマン」が生まれた頃である。
おそらくアンパンマンは、シラケ世代が親になったとき、その感覚にフィットして子供に与えやすい「ヒーロー」だった。
ところで、1960年代生まれのわたしの世代になると、「月光仮面」は生まれる前の話で、その存在自体をほぼ知らなかった。
庵野秀明ら、われわれの世代のヒーローは、ウルトラマンや仮面ライダーだ。
ウルトラマンや仮面ライダーを創造したのは、やなせや川内より一世代下で、いわゆる全学連世代に近くなり、実際の戦争を知らない世代である。
その話はまたいずれ。
<参考>
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?