ビートルズ否定論
数日前に「1960年から日本人は堕落した」説というのを書いた。
日本人は、1950年代まで真面目だったのに、1960年からダメになった、という主張だが、最後にこうも書いた。
それは、ビートルズやドリフターズを含め、これまでの人生で愛してきた多くのものを否定する道につながる・・それもちょっと怖い・・。
でも、不思議なもので、それを書いてから、わたしの中で、本当に憑き物が落ちたように、ビートルズが魅力を失った。
おかしな話だが、自分の議論に、自分が説得されてしまったのだ。
栗本慎一郎の陰謀論
ただ、「ビートルズ否定論」自体は、わたしの議論ではない。
その文章でも引用したが、それは栗本慎一郎の議論で、正確には「政治陰謀としてのビートルズ」論である。
それは、村田和人が「ビートルズを聴いてはいけません」で歌ったような、保守派のビートルズ否定論ではない。「左」の側からの否定論だ。
冒頭を引用すると以下のとおり。
ビートルズについては、悪いことはほとんど言われていない。それはそうだろう。ビートルズは、二〇世紀後半の音楽の流れを変え、広い意味でロックを時代の中心に据えた。つまり文化の中心に据えた英雄だ、ということになっている。ビートルズの音楽こそ歴史の勝者であり、言うなれば経済に先行したグローバリズムの極致である。その周りには良い意味の神話だけが舞い飛んでいる(中略)。
だが、その神話はほとんどのところ情報謀略のプロが全力を挙げて作り上げたものであり、一定の意図を持ってつくられたものだということが知られていない。
栗本慎一郎『パンツを脱いだサル』第五章「政治陰謀としてのビートルズ 反・反体制運動としてのグローバリズムと麻薬」p225
この部分だけでも分かるとおり、これはかなりクセの強い陰謀論である。
若者たちがものごとを真面目に考えすぎて、資本主義を終わらせる革命などに突き進むことを予防するために、「真面目になんなよ。麻薬でもやろうぜ」というメッセージで若者を堕落させようと、グローバリストのユダヤ人たちがビートルズを送り込んだーー
といった主旨なのだ。
栗本のビートルズ否定論は、最初に読んだときから面白い議論だとは思ったが、正直、本人がどこまで真面目に書いているのか分からない。
そのため、紹介しづらいものになっている。(興味がある人は、直接栗本の本を読んでほしい)
「かっこいい」とは何か
それでも、栗本の議論で、説得力があると感じる部分が二つある。
一つは、ビートルズの「かっこよさ」によって、盛り上がっていた学生運動が「崩された」という議論。
つまり私の可愛い後輩たちは(とても良い奴も含めて)、マルクスでもウェーバーでもなく、ビートルズに行ってしまった。はっきり言ってそれが日本の革命運動における哲学と思想を崩していくことになるのである。
上掲p230
この部分で思い出される、わたしの1960年代の記憶がある。
小学生だったわたしは、NHKの「ものしり博士」という番組のファンだった。
「なんでも考え、かんでも知って〜」という冒頭の決まり文句で知られる、子供のための教養番組だ。
「雷とは何か」
「クリスマスとは何か」
といったことを、熊倉一雄が声が務める人形の「ケペル先生」が、面白おかしく解説してくれる。
ところが、ある回のテーマが、
「かっこよさとは何か」
というものだった。
「最近、『かっこいい』という言葉をよく聞きますね。今日は、かっこいいとは何かについて考えてみましょう」
みたいな始まり方だった。
雷とは何か、と同じように、「かっこいいとは何か」が問えるとは、わたしは思っていなかったので、衝撃を受けたのだ。
小学生のわたしにとっても、それは新鮮な問題設定だった。
小学校では教わっていなかった、社会学とか、社会科学の問題領域に、初めて接した瞬間だったと思う。
残念ながら、「かっこいいとは何か」の、番組の解答部分は覚えていない。
でも、それは1966、7年ごろのことだった。
ちょうど、ビートルズ来日で日本中が沸いていたころだ。
もちろん、「かっこいい」という意味のことは、それ以前からあっただろう。
でも当時、「かっこいい」が、前例のない社会現象になっていた。そのことを証明するような記憶だと思う。
わたしは、そのころまだ小学校低学年で、ビートルズを聴いていない。
いわゆるグループサウンズ(タイガースとか)の音楽が、年長のお兄さんたちの影響で、わたしの生活環境に入り始めたころである。
優等生だったわたしは、小学生ながらに、保守派のオヤジ同様、
「髪を伸ばしている、不真面目な変な人たち」
くらいの反感すら持っていたと思う。
そのわたしが、数年たって小学校高学年になると、ビートルズの「かっこよさ」にもっていかれて、小遣いでレコードを買い集めるようになっていた。
つまりわたしは、「真面目さ」が、ビートルズの「かっこよさ」に圧倒されていく社会現象を、同時代的に体験している。
だから、ここで栗本の言っている意味が、よくわかる。
「意味不明」の罪
栗本の議論で、もう一つわたしが共感するのは、ビートルズのメッセージは「意識的に意味不明な哲学」である、という部分だ。
彼らはいろいろなことをやったが、音楽そのものについては次のようなことを試みた(中略)。
まず、歌詞に込めるメッセージを意識的に抽象的なものにした。平たく言えばわざと意味不明にした。(中略)
ビートルズはその売り込みに際して縦横にサブリミナル(意識下)テクニックを駆使した。(中略)彼らが歌う歌の歌詞がはっきりせず常に曖昧なものにされていたのは、一つにはそのテクニックを生かすためであった(中略)。
ビートルズのメッセージは、
1、家族も政治形態も、すべてイリュージョンに過ぎなくて、体制的な道徳もくだらないが、その改革にうつつを抜かすのもナンセンスだからやめなさい。もちろん、革命も……。
2、自分自身があるのだから、断固そこに戻りなさい。
というものである。
このため、時代的にちょっと先行する我々の政治的メッセージは、善し悪しが判断される「前に」拒否されることになった。言うまでもなく、このビートルズのメッセージはすべての政治的メッセージを「ダサく」見せる効果を持っていた。
上掲p238〜240
ビートルズの歌の歌詞は、同時代の他のポップ歌手(例えばボブ・ディランとかポール・サイモンとか)とくらべて、かなりお粗末だというのは事実だと思う。
お粗末なだけではなく、意味不明なものが多い。そこにむしろ意味がある、というのが栗本の議論だ。
「意味不明」にもレベルがあり、ポール・マッカートニーやジョージ・ハリスンの意味不明は、基本的には他愛ない、「内容がない」という意味での「意味不明」だったと思う。
でもーー栗本がそう書いているわけではないがーー罪深いのは、ジョン・レノンが書いた「意味不明」の歌だ。
それは、常に深読みされ、過大評価される傾向があった。
意味不明の歌詞を持つ「アイ・アム・ザ・ウォルラス」や「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」が、ジョン・レノンの代表作だとされる。それが典型例だろう。
政治的な意味でも、いちばん罪深かったのは、ジョン・レノンだと思う。
1970年代の彼(とオノ・ヨーコ)の「平和運動」は、そのころすでに熱烈なビートルズファンになっていたわたしの目からも、恥ずかしくなるような愚行だった。
「アイルランドに平和を」のポール・マッカートニーや、「バングラデシュ・コンサート」のジョージ・ハリスンのほうが、はるかにまともだったのは明らかだと思う。
要するに、ジョン・レノンは、社会的な「知能」は、すごく低い人だった。
それでも、音楽的には天才だったから、それでいいのだが。
しかし、彼の社会的発言や行動が、栗本が言うような、真面目な社会運動を積極的に撹乱する悪影響を持ってしまっていたことは、否めない。
それは偶然ではなく、その背後に彼らを操る人たちがいた、という栗本の陰謀論には、今のところわたしはついていけないが。
それでも、「グローバリズム」が新たに議論の的となっている現在、栗本がいう「グローバリズムの手先としてのビートルズ」という主題は、面白いのではないか。
ビートルズをリアルタイムで知っている人は、少なくなっているだろうから、今のうちでもある。
<参考>