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『いだてん』第一部を振り返る①「ストックホルム編」

宮藤官九郎さん脚本で、来年東京オリンピック開催に向けて、日本のオリンピックの歴史を描いた大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』ですが、いよいよ第2部がスタートします!
低視聴率だとか大河ドラマっぽくないとか色々言われていますが、クドカン信者でもある私としては、クドカン作品の醍醐味は、後半の圧倒的伏線回収にあると思うので、毎回楽しませて頂いている私としては、『いだてん』の面白さを伝えたいと思い、前半の第1部を振り返りたいと思います。

三部構成

第1部は、大まかに分けて三部構成となっています。
大河ドラマは基本的に、主人公の幼少時代から描かれます。第一部では主役でもある金栗四三さんの幼少から描かれていきます。

・幼少時代からストックホルムオリンピックまでを描いた「ストックホルム編」
・ストックホルムからアントワープオリンピックをまでを描いた「アントワープ編」
・アントワープ後、指導者になって、関東大震災復興までを描いた「指導者・震災編」

という構成かと思いますが、『いだてん』は、通例の大河ドラマと違って、一人の人生を描くのではなく、「東京オリンピック」に至るまでの歴史を描いた群像劇です。それを、第一部では金栗四三さんと、語り部でもある古今亭志ん生さんを中心に描いています。金栗四三さんを中村勘九郎さん、古今亭志ん生さんを、ビートたけしさんと森山未來さんが晩年期と青年期を演じています。昭和と明治・大正を行ったり来たりして描かれるので、若干の見辛さもあるかもしれませんが、これも繋がりがあったりして、クドカンならではの意味がある演出だと思うので、安易に見放すのは勿体無いかもしれませんよ!?

今回は、「ストックホルム編」を振り返ってまいります。

ストックホルム編・日本スポーツの黎明期

熊本で生まれた金栗四三は、体が弱い少年だった。父に連れられて、柔道の神である嘉納治五郎に抱っこしてもらいに山を越えて会いにいくが、抱っこをしてもらえず、家に帰った父は抱っこしてもらえたと嘘をつく。それが、四三にとって、加納先生に会いたいという気持ちになり、大学は東京で嘉納治五郎が校長を務める東京高等師範学校に進学する。幼少期は体が弱かったが、鍛える為に毎日走って育った四三は、走ることが得意になっていた。「オリンピック」への招待が届いた嘉納治五郎は、「いだてん」を探す為、マラソン大会を開く。しかし、マラソンの過酷さを知っていた永井教授はマラソンに反対するが、雨の中強行開催をし、多数のリタイヤが出る中、四三が一位でゴールをし、喜び迎えた嘉納治五郎が四三を抱きしめる。子供の頃に叶わなかったからこそ、自ら体を鍛える為に走り、嘉納治五郎に会いたくて予選会に出場しました。子供の頃に叶わなかったことが原動力となり、その夢が実現するとともに、四三のタイムは当時の世界記録を叩き出しました。

世界で戦えることを確信した嘉納治五郎は、当時の世界記録を出した金栗四三と、短距離の日本では負けなしの三島弥彦の二人を、日本人初のオリンピック出場の申請する。しかし、まだオリンピックが根付いていない日本では、費用を出すことはなく、肝心の嘉納治五郎も、10億円相当の借金があり費用を出すことができず、渡航費が自腹ということになってしまった。父は警視総監、兄は日銀総裁という三島はまだしも、四三は農家の出で、お金はない。諦めきれない四三は、兄に手紙を出す。渡航費に1800円(今では550万円)が必要だから、工面して欲しいと。兄は、地元の名家である池部家に頼み込み、田んぼを担保にしてお金を借りることができた。そのお金を届けに東京にくると、学校の仲間が募金を募り、1500円も集めてくれていた。兄からの300円を足し、お金を工面することができた四三は、三島と共に、スウェーデンのストックホルムに17日かけて旅立った。

恥と屈辱の第一歩

日本では負けなしの三島弥彦だったが、白夜と本番までの練習の間、欧米人との体格とタイムの差に心が折れる。監督で同行した大森は、肺結核で体調が悪くて寝たきりで、メモで練習を伝えるのみだったが、心の支えのない三島はホテルの窓から飛び降り自殺を図る。異常を察知した四三は、三島を止め、

「我らの一歩は日本人の一歩でしょ!速かろうが遅かろうが、我らの一歩には意味があるとばい!!」

と必死に言う。吹っ切れた三島は練習を再開し、体調も良くなった大森も練習に参加できるようになった。

本番、三島は100m予選に出場するも、結果は惨敗。しかし、自己記録を出し、清々しく、「楽しかった!明日も走れることが僕は楽しいよ!」と語り、続く200mも400mも走るが、予選敗退し、「金栗くん、日本人にはやはり短距離は無理なようだ。」と語る。「日本人に短距離は、100年かかっても無理です。」そう言い残していますが、100年経った今でも、100mは10秒の壁は超えたものの世界大会での短距離は決勝まで残ることもできていません。リレーでは技術を生かして銀メダルを獲得するには至りましたが、実際に、世界で戦った三島だからこそ、見えた景色と感じた現実があったのでしょう。

その三島の走りを受けた四三は、プレッシャーを感じスランプになり考えないようにしても考えてしまうなら、「考えて走ります!」と吹っ切り、いよいよマラソンに臨むも、この日は北欧なのに猛暑。序盤からリタイヤが続出し、四三も日射病になり、折り返しを過ぎた地点でコースを外れ、地元の農家ペトレ家で意識を失い棄権となりました。正式な棄権届が本部に届いていない為、今でも「消えた日本人」として、知られているそうです。また、四三と仲良くなったポルトガルのラザロ選手も、途中で倒れて棄権となりますが、その後意識が戻らず翌日に亡くなってしまい、「ストックホルムの悲劇」と言われ、マラソンの過酷さと名誉を讃えられています。

日本初のオリンピックは、惨敗に終わりました。しかし、日本と世界の差を実感し四三は次のベルリンオリンピックに向けて、今回の失敗を教訓にして猛練習に励む。そして三島は、きっぱりと陸上の道を諦める。また、日本人初の監督となった大森は、大会の4ヶ月後に亡くなってしまいました。

金栗四三のみが、ストックホルムでの経験をベルリンに向けてつなげていくのでした。

もう一つの見所

『いだてん』では、スポーツはもちろん、もう一つの見所として、親子関係があります。四三の父との葛藤や、父亡き後、家長となった兄の実次との関係、エリート名家の家に生まれた三島の苦悩などが描かれています。

四三が農家を手伝わせず、東京の学校に行かせたのは、国の為になるからです。当時は「マラソン」といっても、ただ走るだけのことで、国の為でもなんでもないと、最初は猛反対していました。しかし、オリンピック予選会で世界記録を出し、新聞にも載ったりすることで、四三を応援するようになり、田んぼを担保に出してでも、お金を借り、四三を応援しました。

三島家では、父が元警視総監、兄は日銀総裁という名家なのに、「走る」為にオリンピックに出ることは猛反対されていました。母親には縁を切るとまで言われ、一度はオリンピックを諦めるも、家族を捨てるつもりで強行出場します。母親は駅まで見送りにきて、「日本人として、誇りを持って行って来なさい」と背中を押されます。名家に生まれた葛藤があり、三島は「天狗倶楽部」というスポーツを勤しむチームを作り、どこか現実逃避をしていたのでしょうが、やることをやって、見切りをつけることも、大事なことなのかもしれません。

このような親子の葛藤や、時代背景もあって、オリンピックに臨む三島の葛藤は、とても心揺さぶられました。

日本人の第一歩

ストックホルム大会は、結果こそ惨敗だったものの、その第一歩があったからこそ、今の日本があります。世界を知らない状態で、オリンピックに出場し、現実を突き付けられましたが、その屈辱の一歩を踏み出し、その屈辱を味わったからこそ、三島の「100年経っても短距離は無理」という言葉があったり、金栗の挑戦やスポーツを根付かせた人生があったんだと思います。

第一歩は、ある意味失敗するためのものだとも言えます。どうなるかわからないその未知なる一歩は、とても勇気がいります。そして覚悟無くして、その重責を担うことはできないでしょう。事実、三島もその重責と屈辱に潰れかけたり、世界記録を持っていた金栗もプレッシャーに押しつぶされ、スランプになりました。
しかし、「希望は絶望から生まれ出ずる」と述べているように、あの屈辱があったから、その後の日本の発展があるんだと思います。

陸上を始め、オリンピックに向けてスポーツが盛り上がって来ていますが、三島と金栗の屈辱と名誉の第一歩を忘れずにいたいですね。

ちなみに、学校の体育館にあったハシゴのとうなアレ。

コレは「肋木」と言って、スウェーデン発祥の、背筋を伸ばして体格を鍛える為に、『いだてん』にも登場する永井教授が導入したものだそうです。

そして、子供の頃に遊んだ「ドッヂボール」も、『いだてん』に登場する可児教授が、イギリスに行った際に持ち帰ってアレンジしたもので、「円形ドッヂボール」として、根付いたものだと言うことも描かれました。

さて、次回は「アントワープ編」をお送りしていきます。

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