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作家『エドガー・アラン・ポー』生前評価されなかった作家

今回は以前のこちらの投稿リンクに近い内容です。

この投稿で紹介しているアメリカの作家『ハーマン・メルヴィル(Herman Melville)1819~1891』(代表作『白鯨』、『ビリー・バッド』など)は、生前作品が全く評価されず、死後30年以上経過してから脚光を浴びた作家です。

今回紹介する『エドガー・アラン・ポー』も同様に死後1世紀以上経ってから評価されました。そして同様にアメリカの作家です。

『エドガー・アラン・ポー』はざっくりいうと、小説、詩作、など勢力的に作品は発表したけど、生前それらの作品では生計は立てられず、主に雑誌編集の仕事で収入を得ていました。

1.『エドガー・アラン・ポー』代表作紹介

その1.

『アッシャー家の崩壊』1839

ストーリーテラーが旧友アッシャーと姉妹が二人で住む屋敷に招かれた。
そこに滞在するうちに体験する様々な怪奇な出来事を描く、ゴシック風の幻想小説。
ポーの代表的な短編として知られており、美女の死と再生、あるいは生きながらの埋葬、得体の知れない病や書物の世界への耽溺など、ポー作品を特徴づけるモチーフの多くが用いられている。
最後のタイトル通りの『アッシャー家の崩壊』の描写が見事。

La chute de la maison Usher.trailer

映画『アッシャー家の末裔』1928年公開フランス映画
監督 ジャン・エプスタン
出演 シャルル・ラミー、ジャン・ドビュクール、マルグリート・ガンスほか

他にも何度も映画化されています。

その2.

『モルグ街の殺人』1841

史上初の推理小説とされている作品。
天才的な探偵と平凡な語り手、結末近くでの推理の披露、意外な犯人像など、密室殺人を扱った最初の推理小説、など、以後連綿と続く推理小説のジャンルにおける原型を作り出した。
本作の素人探偵『C・オーギュスト・デュパン』は、半世紀後に出現するシャーロック・ホームズの原型となった探偵。

Murders In The Rue Morgue (1932) - Official Trailer

映画『モルグ街の殺人』1932年公開
監督 ロバート・フローリー 脚本 トム・リード、デール・ヴァン・エヴリー
出演 ベラ・ルゴシ、シドニー・フォックスほか

1932年に公開されたアメリカ合衆国のホラー映画。
エドガー・アラン・ポーの短編小説『モルグ街の殺人』が原作。

その3.

『黄金虫』1843

ストーリーテラーとその聡明な友人ルグラン、その従者ジュピターが、宝の地図を元にキャプテン・キッドの財宝を探し当てる冒険小説。また暗号を用いた推理小説の草分け。
この作品は『フィラデルフィア・ダラー・ニュースペーパー』の懸賞で最優秀作となり、ポーは賞金として100ドルを得た。これはポーが単独作品で得た収入ではおそらく最高額である。
『黄金虫』はポーの作品のうち、彼の存命中もっとも広く読まれた作品。

その4.

『黒猫』1843

酒乱によって可愛がっていた黒猫を殺した男が、それとそっくりな猫によって次第に追い詰められていく様を描いたゴシック風の恐怖小説。推理小説(現代風にいうサスペンス)の要素も併せ持つ。
ポーの代表的な短編の一つ。

その5.

『大鴉』1845

ポーの発表した物語詩。その音楽性、様式化された言葉、超自然的な雰囲気で名高い。
心乱れる主人公(語り手)の元に、人間の言葉を喋る大鴉が謎めいた訪問をし、主人公はひたひたと狂気に陥っていく、というあらすじ。
その価値については異議を唱える批評家もいるものの、これまで書かれた有名な詩の1つであることに変わりはない。

2.ポーの略歴

出自

1809年 エドガー・アラン・ポーはマサチューセッツ州ボストン市に、女優エリザベス・ポーと俳優デイヴィッド・ポーの息子エドガー・ポーとして生を受けた。
両親は共にスコットランド系アイルランド人。

1826年 ポーは前年に開校したばかりのヴァージニア大学に入学。

ポーはここの学生寮で生活しながら、6カ国語を学び、そのほか古代地理、美文学、修辞学なども受講。ドイツ文学に親しみ、図書館にも熱心に通った。

サラ・エルマイラ・ロイスター

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しかし、大学生活は楽しいことばかりではなかった。
ポーは大学に入る前年、近所に住む美少女サラ・エルマイラ・ロイスターと恋に落ち、密かに婚約を交わしていたのだが、大学に入って以降に彼女へ送った恋文の返事がまったく来なかった。
ポーは知らなかったのだが、彼の送った手紙はエルマイラの父親に破り捨てられていたのである。
その後、エルマイラは父親により豪商の息子に嫁がされることが決まった。

ポーは、失恋の痛手でギャンブルにハマり、借金を抱え大学を辞めざるをえなくなった。

文筆業と雑誌編集者として

1833年頃、ポーはジャーナリズムの活発なボルティモアを生活の場に定め、クレム叔母の家に居候をしながら短編小説の執筆を始めた。

『サザン・リテラリー・メッセンジャー』誌に作品を掲載するようになった。
さらにその後同誌の編集長が退職すると、『メッセンジャー』誌の主筆編集者として迎えられることになった。

『メッセンジャー』はポーが主筆になったことによって、500程度だった発行部数が3500まではね上がり、南部の主導的な文芸雑誌の地位にまでのし上がった。
こうしてようやく仕事が軌道に乗り始める。
雑誌編集の手腕はあったが、以降編集者との意見の対立などで、編集に携わる雑誌も短期間でいくつも変わっている。

ヴァージニア・クレム

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1836年5月にポーはクレム叔母やホワイト、トマス・クリーランド知事など9名を招いてヴァージニア・クレムとの公開の結婚式を挙げた。

その後様々な雑誌編集の仕事について、同時に作品の執筆に精を出す。

のちに評価される作品を次々発表。しかし生活は困窮

1838年7月に出版された『アーサー・ゴードン・ピムの物語』はアメリカの20誌以上の新聞・雑誌に言及するなど話題作となったものの売り上げは伸びず、すでに収入減からフィラデルフィアに移っていた一家の生活はみるみる窮乏していった。

1839年 雑誌『ジェントルマンズ・マガジン』に依頼され、週給10ドルでこの雑誌の編集者となった。
ポーは『メッセンジャー』時代の編集の経験を生かしつつ、「ウィリアム・ウィルスン」、「アッシャー家の崩壊」などの短編や詩を同誌に掲載する。

1840年11月に創刊した『グレアムズ・マガジン』では「群集の人」、「モルグ街の殺人」、「メエルシュトレエムに呑まれて」などの短編のほか、多数の評論を発表。
1842年頃には『グレアムズ・マガジン』は発行部数3万7000部を誇る、アメリカ合衆国最大の雑誌へと成長した。

しかし同年以降妻ヴァージニアの結核の病状に気を取られるなどで、『グレアムズ・マガジン』の仕事を休みがちになり、4月になると編集長の地位を奪われ、ポーは5月まで同誌に勤めた後、職を辞した。

ポーは『ダラーズ・ニュースペーパー』の懸賞で「黄金虫」により100ドルの賞金を受けた。「マリー・ロジェの謎」、「落し穴と振り子」などの作品を各誌に発表。
しかし依然として生活は窮乏していた。

1844年6月 新規まき直しを図るためにニューヨークに移り、「軽気球夢譚」、「早すぎた埋葬」、「催眠術の掲示」などを発表していく。
1845年10月 週刊誌『イヴニング・ミラー』の記者として迎えられた。
1845年にポーが同誌に発表した詩「大鴉」は絶賛を博し、他誌にも次々に掲載されポーの文名を大いに高めたが、この詩の出版に対しポーに支払われた報酬はわずか9ドルであった。

1845年2月よりポーは『ブロードウェイ・ジャーナル』に職場を移し、自作を寄稿したほか文芸時評を担当した。

しかし生活はますます窮乏。

1846年 妻ヴァージニアを連れてブロンクス区にある木造家屋に転居。
1847年1月、ヴァージニアは貧苦の最中この小屋で息を引き取った。

1849年 ポーは仕事のために戻ったリッチモンドで青年時代の恋人で未亡人となっていたサラ・エルマイラ・ロイスターと再会し、再三の求婚の後に彼女と婚約した。

謎に包まれたポーの死

1849年9月 ポーは自分の選集の出版準備を始め、それに関してルーファス・グリズウォルドの協力を得るために、久しぶりにニューヨークに戻ることにした。

途中メリーランド州ボルティモアに着くと、ポーはなぜかそこに数日滞在した。ちょうどメリーランド州議会選挙のまっただ中であり、10月3日が投票日に当たっていた。

10月3日、ポーはライアン区第4投票所にあたる酒場「グース・サージェンツ」にて、ひどい泥酔状態でいるところを旧知の文学者にたまたま発見され、ただちにワシントン・カレッジ病院に担ぎ込まれた。
4日間の危篤状態が続いたのち、10月7日早朝5時に死去した。
その間ポーは理路整然とした会話ができる状態でなく、なぜそのような場所で、そのような状態に陥っていたのかを話すことはなかった。
ポーは発見された際、他人の服を着せられており、また死の前夜には「レイノルズ」という名を繰り返し呼んでいたが、それが誰を指しているのかも分からなかった。
一説にはポーの最期の言葉は「主よ、私の哀れな魂を救いたまえ(Lord help my poor soul)」であったという。
死亡証明書を含め、ポーの診断書は現在ではすべて紛失してしまっており、死の真相は謎のままである。

クーピング(cooping)

選挙の立候補者に雇われた「ならず者」が、旅行者やホームレスに無理矢理酒を飲ませるなどして自己判断ができない状態にして投票所に連れて行き、場合によっては複数回投票させること。
当時は有権者の身元確認がしっかりと行なわれていなかった。

1872年頃から唱えられている説で、ポーはこのクーピングの犠牲になったのだとする説が広く信じられている。
それ以外にも、急性アルコール中毒による振戦譫妄、心臓病、てんかん、梅毒、髄膜炎、コレラ、狂犬病 などが死因として推測されている。

『サラ・エルマイラ・ロイスター』との婚約

ヴァージニア大学の学生の頃に婚約まで交わした『サラ・エルマイラ・ロイスター』
当時は彼女の父親によって二人の結婚は叶わなかった。

20年ぶりに運命的な再会を果たしたポーとサラは再度婚約を交わし、結婚式を目前に控えた時期のポーの謎の死だった。

3.再評価の動き

・アメリカ本土におけるそれまでのポーの評価。

ポーの作品は長い間正当な評価を受けていなかった。

ポーの作品がアメリカで受け入れられなかった理由

1.アメリカ文学がもともと北部ニューイングランドで起こったものであり、文学界で指導的地位を持っていたのが北部の出版社だったため、南部の文学が軽んじられていた。
2.英米では当時、作品の善し悪しの判断は倫理性、道徳性や啓蒙性の有無に基づいて行なわれていた。ポーの作品は耽美的、退廃的な傾向があり、高い評価を受けることができなかった。

『ルーファス・ウィルモット・グリスウォルド』という人物

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ポーが謎の死の直前ニューヨークへ向かったのは、ルーファス・ウィルモット・グリズウォルドにポーの作品集出版の協力を得るためだった。

1842年グリズウォルドはポーに自著を批判されて以来恨みを抱いていた。
ポーの死後はどういう方法でか彼の遺著管理人になった。
ポーの人格を貶めるような回想録を記した。
これをポーの作品集にも収録した。
この中でポーは「アルコールと麻薬に溺れた下劣な人間」として描かれており、ポーの書簡をその証拠として用いていた。
後の研究ではこの書簡はグリズウォルドの偽造であることがわかっている。
しかしアメリカでは長い間、グリズウォルドが偽造したポーの人物像が広く流布する結果となってしまった。

ポーが酒場でひどい泥酔状態で発見され、病院へ搬送されそのまま息を引き取った。
グリズウォルドの描くアルコール・麻薬中毒のポーのイメージに重なる。
想像に過ぎないが、個人的にポーの死にはグリズウォルドの何らかの関与が疑われる。

・ヨーロッパ諸国での受容

『悪の華』ボードレール 1855

1848年7月 ボードレールによる初のポー作品の翻訳を発表し、以後断続的にポー作品の訳を発表。
1856年に『異常な物語』の題で刊行した。
ポーの作品に自己の文学的な規範を見出したボードレールは、これ以降1865年まで、あわせて1600ページにおよぶポーの翻訳を行い、彼の訳はヨーロッパにおいて定訳として扱われることになった。

1870年代イギリス ジョン・H・イングラムによる作品集『エドガー・アラン・ポー作品集』と『エドガー・アラン・ポー ―その生涯と書簡と見解』が刊行。
これをきっかけにアメリカのグリズウォルドの回想録によって歪められたポーの人物像を再検討する動きがヨーロッパ中に広まった。

・日本において

『孤島の鬼』江戸川乱歩 1930

そのペンネームを「エドガー・アラン・ポー」をもじってつけた江戸川乱歩はポーの推理作品からの影響が濃い「二銭銅貨」でデビューし、以後ポーの作品から着想を得て作品を発表していき、日本における探偵小説の黎明期を支えた。
乱歩は昭和24年に発表した作家論「探偵作家としてのエドガー・ポー」では、ポーが探偵小説を生み出した要因をその謎と論理を愛好する性格に求め、彼が生み出した探偵像とトリックの構成への具体的な影響を考察している。
なお乱歩にはポーの訳書として『ポー、ホフマン集』(昭和4年、改造社)などがあるが、これは実際には編集者が代訳したものである。

・アメリカでのポーの再評価

こうしたフランス、イギリスでの高い評価が伝わって、死後約1世紀を経てからアメリカ合衆国でポーの再評価が行なわれる。
以後ようやく彼を国民的作家の位置に押し上げようとする動きが見られるようになった。アメリカ合衆国においてポーの影響が見られる後世の文学者としては、

アメリカ合衆国においてポーの影響が見られる後世の文学者

・詩人ロバート・フロスト
・作家ハワード・フィリップス・ラヴクラフト
・レイ・ブラッドベリ
・ウィリアム・フォークナー
・ウラジミール・ナボコフ
・トルーマン・カポーティ
・スティーヴン・キング
・ポール・オースターなどがいる。
1954年〜『エドガー賞』設立。アメリカ探偵作家クラブによってポーの名を冠した文学賞。毎年優れた推理作家の顕彰を行なっている。

4.『エドガー・アラン・ポー』その他の代表作

その1.

『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語 』1838

1838年刊行のポーの冒険小説。ポー唯一の長篇小説。
未完とも取れるようなあいまいな結末。
この作品にはカニバリズムが出てくるが、大岡昇平は代表作『野火』の中で、この作品が全体のワクになっていると書いている。

その2.

『ウィリアム・ウィルソン』1839

ドッペルゲンガーの主題を扱った怪奇譚であるが、その筆致には理性的な文体が採用されている。
舞台のモデルはポー自身が幼少期を過ごしたロンドンの寄宿学校である。

Histoires extraordinaires a.k.a. Spirits of the Dead (1968) Trailer (HD)

映画『世にも怪奇な物語』1968年公開 監督 ロジェ・ヴァディム(黒馬の哭く館)、ルイ・マル(影を殺した男)、フェデリコ・フェリーニ(悪魔の首飾り)
原作 エドガー・アラン・ポー
出演 ジェーン・フォンダ、ピーター・フォンダ、アラン・ドロン、ブリジット・バルドー、テレンス・スタンプ他

3部構成からなるオムニバス形式のホラー映画。フランス・イタリアの製作。原作はエドガー・アラン・ポーの小説。

第1話 「黒馬の哭く館」、第2話 「影を殺した男」、第3話 「悪魔の首飾り」

第2話 「影を殺した男」は『ウィリアム・ウィルソン』を原作とした映像化作品。
出演 アラン・ドロン、ブリジット・バルドーほか

その3.

『メエルシュトレエムに呑まれて』1841(本編では『大渦巻への落下』の日本語タイトル)

巨大な渦巻「メエルシュトレエム」に呑み込まれた漁師の脱出譚である。
日本では、翻訳者・書籍によって『大渦に呑まれて』、『大渦の底へ』、『メールシュトレームに呑まれて』その他幾つかの題名が用いられている。

その4.

『赤死病の仮面』1842

国内に「赤死病」が蔓延する中、病を逃れて臣下とともに城砦に閉じこもり饗宴に耽る王に、不意に現れた謎めいた仮面の人物によって死がもたらされるまでを描いたゴシック風の恐怖小説。

その5.

『マリー・ロジェの謎』1842

突然の失踪の後、水死体となって発見された香水店の看板娘の事件の謎をC・オーギュスト・デュパンが推理する。
『モルグ街の殺人』に続いてデュパンが探偵役として登場する推理作品の第2作。
また現実の殺人事件をモデルにした最初の推理小説。

その6.

『落とし穴と振り子』1843

異端審問によって捕らえられた語り手が、牢獄内の様々な仕掛けによって命をおびやかされる様を描いている。スペインでの異端審問という歴史的背景はあまり重視されない一方、この作品ではしばしば超常現象に頼って作られているポーの他の作品とは違い、感覚(特に聴覚)に焦点を当てることによって物語にリアリティを与え、読者の恐怖を煽り立てる。

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その7.

『早すぎた埋葬』1844

仮死状態などのために死亡と誤認されて、墓の下に生き埋めにされることの恐怖をテーマにした作品。
19世紀の西洋では「生きたまま埋葬される」恐れが実際にあり、このような公衆の興味を巧みに作品化したものである。

その8.

『盗まれた手紙』1845

「モルグ街の殺人」、「マリー・ロジェの謎」に続き、C・オーギュスト・デュパンが登場する推理シリーズの三作目。
ある大臣が政治的な陰謀から「とある貴婦人」の私的な手紙を盗み出し隠匿するが、依頼を受けた警察がいくら捜索しても見つけることができない、という事件をデュパンが鮮やかに解決する。
しばしば「デュパンもの」三作中で最も完成度が高いとされる作品である。

その9.

『ユリイカ 散文詩』1848

エドガー・アラン・ポー最晩年の著作。
「物質的宇宙ならびに精神的宇宙についての論考」という副題が付けられており、科学的知見を借りながらも、論証的にではなく直感的に宇宙の本質を記述した壮大な長編論考である。
また人間と神との関係についても触れられており、ポーはここで神を書物の著者と比較している。
この中で唱えられている発想のいくつかは20世紀における科学的発見や学説を先取りしている。
特に宇宙の膨張説・有限説などがそれに当たるが、ブラックホールなど相対性理論に基づく仮説に相当するものはない。
出版に先立ち1848年2月に講演として発表され、6月にワイリー・アンド・パトナム社から500部が出版されたが、いずれも大きな反響はなかった。
現在もその重要性については議論の的となっている。
ポー自身はこの著作が重力の発見にも勝る重要な論考だと高言していた。

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「収録作品」1.アッシャー家の崩壊、2.ウィリアム・ウィルスン、3.うずしお、4.落穴と振子、5.黒猫、6.群集の人、7.黄金虫、8.しめしあわせ、9.十三時、10.鐘塔の悪魔、11.赤死病の仮面、12.沈黙、13.盗まれた手紙、14.早すぎる埋葬、15.病院横町の殺人犯、16.ペスト王、17.ポオ異界詩集、18.マリー・ロジェエの怪事件、19.メールストロムの旋渦、20.モルグ街の殺人事件
その他解説3編

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